交差点 ——参加者交流コーナー
☆「交差点」にご感想をお寄せください。
「交差点」は、≪私塾レコダl’ecoda≫にご参加下さっている皆さんの交流コーナーです。小林秀雄先生の作品について、「萬葉集」について、また池田雅延塾頭の講座について、ご感想をお寄せ下さい。毎月15日までにお寄せいただいたご感想をその月の刊行号に掲載させていただきます。
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✿ これまでに寄せられたご感想
令和五年十一月刊行号新掲載
今月の仲間たち *森原和子 *金森いず美、 (敬称略)
●森原 和子
学ぶ楽しみ
ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」(岩波文庫)を読んでいてこんな文章にぶつかった。「私がイギリスに生まれたことをありがたく思う多くの理由のうち、まず初めに浮かぶ理由の一つは、シェイクスピアを母国語で読めるということである。(略)ホメロスが読めると私自身はいつも思っている。(略)彼の言葉が、ヘラスはなやかなりし頃ギリシャの海岸を歩いていた人々に与えたのと同じものを私に与えていると、一瞬でも夢想できるであろうか。(略)あらゆる国々はその国固有の詩人を享受するがよいのだ。詩人はその国土そのものであり、その国の偉大と美のすべて、その国民が生死をかけた、ほかに伝えることのできない遺産のすべてだからである。」
一瞬、衝撃が走った。まさに私はこれと同じ潮流に乗っている。「古事記」、「万葉集」、「本居宣長」、そして小林秀雄と続く日本文学の潮流に乗って学ぶ機会を得ているのだという喜びがあふれた。
十代にはトルストイ、ドストエフスキーを夜明けまで読んだものだ。内容を理解してではなく登場人物がどう突き進んでいくかにだけ焦点を合せていたように思う。しかし、次第に外国の歴史、宗教、芸術が理解できていないと真に理解はできないと気付いてきた。それまでスケールの違いから遠ざかっていた日本の文学を読み始めてみると、そうだと同意できることが増え馴染んできた。そして、「日本文学を理解したければ小林秀雄を通して『本居宣長』を知るべき」という文章に何度もぶつかることになった。一人で、「本居宣長」を読んでもちんぷんかんぷん。完読しても頭の中には何も残っていない、わからないという印象だけが残る。
最善のパートナーだった夫が亡くなった。子供も独立して責任はない。生きていれば生産性がなくても資源を消費する。生きる値打ちがあるのかと自問して閉じこもった期間もある。そのような時の2015年、広島で「小林秀雄に学ぶ塾in広島 発足記念講演会」が開催されることを知った。長年気になっていたことなので足を運んだ。後には、「小林秀雄『美を求める心』素読塾」が開催されていることを知った。気になれば確かめずにはいられない私の気性から、誰一人知った人もいないのにのこのこと会場を探して参加した。私の息子より若い世代で職業も異なる方々は、快く受け入れてくださった。
以後、知る喜びを体験することになる。池田雅延塾頭の言葉をわかりたくて予習、復習をする。読むたびにわかるという充足感が確かになっていく喜びは何物にも勝る。宣長に学んだ者は道楽に飽きた町人が多かったというのも肯けた。
一人生活は二十四時間、我が思うまま自由になる。つば吐けば我が顔にかかってくるだけ。人間は本来孤独な存在。一人になってわかってきた。何をしたいか、求めるものは何か、何をしたら満足感が得られるのかと考えた。
コロナ禍で一人時間はさらに増えた。だがZOOMによって月4回も池田塾頭の講義を聴く機会が増えて私に幸をもたらしてくれた。家に居ながらにして日本最高の講義を聴けるのだ。
「小林秀雄に学ぶ塾」に参加するようになって小林秀雄以外の作品を読んでもわかることが増えたことを実感している。
例を挙げる。阿部龍一「評伝 良寛」(ミネルヴァ書房)は、「本居宣長」の知識無くしてはわからなかったはず。良寛は、荻生徂徠の直弟子から江戸で学んだ大森子陽の三峰館で古文辞学を学び、孔子の教えに従って行動実践した。宋儒の教えの誤りを根本的にわかった上での放浪生活六年。キリシタン取り締まりのための寺社制度に甘んじた僧侶の怠慢、位階へのこだわり、集金を軽蔑してどの宗派にも属さず我が道を突き進んで、誰からも好かれる良寛になったのだ。和歌、俳句、手紙を数多く残している。その多くは何人もの人たちが乞うて書いてもらったものを家宝として保管したものである。それらから、良寛が言葉をいかに大切に使ったかが伺える。書き言葉を生まなかった日本で、日本語を無くしたくないという思いで漢字を用いて日本語を書き表そうとした太安万侶の苦心を理解したかのような、言葉が持つ力を信じて語りかけた文章はいさかいの心も和らげ人々を和ませたからこそ、大事にされて今日まで残ったのだ。
また、ベルグソン、サントブーヴ、ボードレール等、小林秀雄によって紹介された人物をかすかにでも知ることができて小林秀雄の本が読みやすくなったことは間違いない。
こんな「小林秀雄に学ぶ塾」ファンが地方にいることを知ってもらいたくて、書くこともおっくうになった老体にムチを打ち書きました。 2023.11.15
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)十月十九日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「考えるヒント」
(「小林秀雄全作品」第23、24集所収)
「『模倣』という言葉」
十月の 「小林秀雄と人生を読む夕べ」では、第二部 「小林秀雄 生き方の徴」で、「模倣」という言葉が取り上げられました。池田塾頭は、ご講義の冒頭でこのように私たちに語りかけられました。「小林先生は模倣を絶対視していらっしゃいました、そして、模倣ということについて、そのつど強くおっしゃいました」。模倣というと、手本を観察し、見よう見真似で、身体を動かし取り組むこと、仕上がりと手本との隔たりを発見し、隔たりを小さくしていくこと、そのようにごく簡単に考えていました。ところが、私がこれまでに体験してきた模倣という行為は、模倣のようで模倣でなく、表面をなぞっているだけにすぎなかったのだと、今回のご講義で目を開かれる思いでした。
日常生活の小さな行為のうちにも、五感をしっかりと働かせて、直向きに模倣に徹すれば、自分の限界を知り、自分とは何者かを知るヒントがあるのだと、気付かされます。そしてその先に、「私は、私の人生をどのように生きるべきなのか」、私の進むべき道が続いているのだと、このご講義で教えられました。池田塾頭が取り上げられた小林先生の文章は、いずれも一度読んだだけで身に染み込むようなものではありません。その文章に込められている小林先生の思いを、作品を繰り返し読んで辿り、模倣のその先に、深い生き方の徴があることを、学んでいきたいと感じました。来月の「小林秀雄 生き方の徴」のご講義も楽しみにしています。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)十月五日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十二章 上「言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」
「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、十月に、「言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という荻生徂徠の「論語徴」にある言葉に沿って第三十二章の前半を読みました。私たちは、この世に生まれた瞬間から、降り注ぐ「言葉」に身を包まれ、命尽きる瞬間まで、「言葉」に支えられ生きています。いつでも当たり前にそばにある「言葉」に対して、どのように心得、どのように接すれば良いのか。この章で小林先生は、宣長が吸収した徂徠の言語観に目を向けられます。徂徠は、孔子に学び、「言葉」を外から眺めるのではなく、その働きの内側へ入っていきました。徂徠の言語の道を知り、私自身は、言葉とともにある人生をどのように生きていくべきか、自分のあり方について深く考えさせられました。ご講義では、徂徠の言語観の奥底にある、孔子の「詩」に対する考えを、池田塾頭が分かりやすく解きほぐしてくださいました。また、「詩経」から、詩の一篇を取り上げて読んでくださり、僅かながら、言語の働きそのものの感触を、肌で感じるという体験をしました。
孔子に学んだ徂徠は、「論語」を注釈した「論語徴」で「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」と記しました。小林先生は宣長の稿本に接し、孔子の「詩」に対する考えが徂徠の言語観の奥底にあることを宣長が認め、これに動かされたのではないか、と確信されます。徂徠は、「興、観、羣、怨」という孔子のあげた詩の特色のうち、「興之功」「観之功」という二つの「詩之用」が肝腎であると考えていました。小林先生は、この二つの要素についての徂徠の考えをさらに紐解き、このように語られます。
基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解によれば、「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観の功とは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。(『小林秀雄全作品』第28集「本居宣長」p.12)
孔子が「詩」は言語の教えである、と語るとき、そのうちに徂徠が見ていたのは、言語の「本能としての」働きでした。言葉は発展し「新しい意味を生み出し」、言葉が集まって「物の姿を、心に映し出」します。「詩」を学ぶことは言語の内側にある働きと一体になることである。私たちの「言語生活」を支えている言語の働きそのものを体で受け取ること、それが言語の道である。「詩は言語の道を尽くす」という徂徠学に学び、その道を吸収した宣長の心の動きも、小林先生の文章の行間に滲んでいるように感じられました。
「小林秀雄『本居宣長』を読む」という講座の受講を重ねるうちに、先人が積み重ねてきた長い言語の歴史の中に、私たちは生まれたのだということ、自分たちの思うままに言葉を使っているのではなく、言葉に育てられ、言葉を使わせてもらっているのだということを、少しずつ感じられるようになりました。「言語を信じ、言語を楽しみ、ただその働きと一体となる事」、小林先生のこの一文によって、言葉の世界をもっと深く知りたいという思いがますます掻き立てられます。レコダの講座を初めて受講した日に池田塾頭に教えていただいた、「私たちは日本語を使わせてもらっている」ということに、これからもしっかりと向き合い、学び続けていきたいと思います。
令和五年十月刊行号掲載
今月の仲間たち*千頭敏史 冨部久 金森いず美 小島由紀子 田中純子(敬称略)
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)九月二十八日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
伎倍人の まだら衾に 綿さはだ
入りなましもの 妹が小床に
(東歌/巻第十四 3354番歌)
足柄の 箱根の山に 粟蒔きて
実とはなれるを 粟無くもあやし
(東歌/巻第十四 3364番歌)
令和五年九月二十八日には、「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜り有難うございました。
巻第十四は「東歌」を総題としていますが、「東歌」という部立の成立には、律令制の国家整備に大きな関わりがあると説き起こされました。東国は律令制の国家統治の直轄地として重要政策の対象地であり、その国の人の心を知る必要がある、そのために東国の歌が蒐集編纂され、「萬葉集」の一つの巻を為すに至った過程を示され、人の心を知るという、歌のもつ意義を改めて知ることができました。
伊藤博先生は、新潮日本古典集成「萬葉集 四」の解説「巻十三~巻十六の生いたち」の「巻十四が成り立つまで」のなかで、「東国人の心を都人に知らせる」という見出しのもとに、「国魂(国ぶり)の象徴である歌を東国人に奉献させる習慣は、古くからあったことであろう」、「東歌の蒐集と編纂の目的は、大和風に対するひなぶり、つまり東国人の心を、歌を通して都人に知らせようとした点にあったと見るべきである」と記されていますが、東歌を初めて鑑賞する私にもよく理解でき、今まで鑑賞してきた(私は巻第四からの参加ですが)巻第十三までの都人の歌とは異なり、いわば素朴に過ぎるといった趣が感じられるのにも納得がいきました、
また、「大和風に対して東国風が据えられたことは、萬葉集が完結に向って急ぎはじめたことを意味する」とも言われ、「萬葉集」全体を視野に入れて東歌というものに注目するように誘われます。
「あづま」はまた、熊曾征伐の後、休む間もなく東国征伐を命ぜられた倭建命の叫び、「あづまはや」が地名の基になっていると指摘され、「あづま」には政治的な意味の他に人間ドラマとしての思い入れも重ね合わされていると伺ったのが印象に刻まれました。
●冨部 久
令和五年(二〇二三)九月二十一日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「花 見」
(「小林秀雄全作品」第25集所収)
「食べるということ」
今回の講義では、小林先生の言葉で言えば、「思想と実生活」の中で、「実生活」の話が聴けるものと予想していました。実際、小林先生が実生活において、いかに桜の花、それも山桜の花が好きだったか、そして全国各地の桜の名木を訪れる際は、どれほど用意周到に七分咲の頃合いを見計らって出掛けられたかなど、桜の花と身交われる際の小林先生の真剣さがひしひしと伝わる内容でした。恐らく小林先生の心の中では、本居宣長の桜に対する異常とも思える愛情を重ね合わせていらっしゃったのでしょう。それに反して、長年、品がないどころか冗談めかしてではあるものの「俗悪」とまで先生が言われたというソメイヨシノを眺めながら花見酒を楽しんできた自分が少し情けなくなりました。
後半は、「食べるということ」でしたが、これについても小林先生が実生活において真剣に向き合われ、見た目や高価な食材で客を惹きつける料亭などとは正反対の、表向きは地味な「丸治」や「甚五郎」といった店にこそ、うまさの神髄があるということを、池田塾頭が身をもって教えられたという話に、小林先生らしいという印象を改めて感じました。
そこから進んで、小林先生はうまい店を探すのに、その店の佇まいをじっと見て、それで判断されるという話がありました。池田塾頭は、そうすることにより、小林先生は味覚の直観を養われていたのだと言われました。そして、音楽を聴くときも、絵などを観るときも、小林先生は頭を使わず、五感でまず感じるようにして、自らの直観力を磨いて来られたとのことでした。
この話で私が教えられたのは、あの人は感性が鋭いとか、直感が鋭いとか、よく言われますが、こうして普通、その人が持って生まれた才能のように言われる感性や直感は、実は人それぞれが様々な経験を積み重ねることによって、刃物のように研ぎ澄まされていくという認識でした。それは、七月の講義で取り上げられた「還暦」の中にある、「円熟するには絶対に忍耐が要る」という言葉と呼応するもののように感じられました。つまり、小林先生はじっくりと時間をかけて、ご自身の感性や直観力を根気よく磨いていかれたのではないかということです。このあたりは、「実生活」というよりは、むしろ「思想」の範疇に入るものではないかと思いました。
熱い講義が終わったあと、池田塾頭から教わった、「蟹まんじゅう」という随筆を読んでみました。小林先生の味覚の鋭さを感ずるとともに、私が昔、中国に仕事で行った時に味わった、上海蟹の美味がありありと甦ってきました。そして、いつか揚州まで行って、この舌であつあつの「蟹まんじゅう」を味わってみたいと思わずにはいられませんでした。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)九月二十一日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「花 見」
(「小林秀雄全作品」第25集所収)
六十二歳の小林先生は、講演旅行で見に行かれた弘前城の夜桜が見事で、「花の雲が、北国の夜気に乗って、来襲する」と表現され、「花やかえりて我を見るらん」という頼政の歌に託して、「この年頃になると、花を見て、花に見られている感が深い」と、ご自身の気持ちを「花見」で述べられます。
この弘前城の桜を契機として、小林先生が桜の名木行脚を二十年間続けられたと池田塾頭は話され、毎年の桜の花見の足跡を全て辿って下さいました。
小林先生は桜の見頃は満開ではなく、花の勢いが最も盛んな七分咲きであるとされ、桜を最も愛し、桜を見る知恵に秀でていた江戸時代の先人の桜の見方を体現されていたとも語ってくださいました。
その七分咲きの桜と出会うために、桜の開花時期に合わせて早くから仕事も調整して、毎日のように現地に電話で連絡を取り、桜の見頃に出会えるよう周到に備えられた、昭和54年は盛岡の石割桜と決められ万全の準備で行かれたが、当日の桜はまだ二分咲きで見頃を逃された、その際、小林先生は大変残念がられたが、見頃に会えるのは数年に一度位のもので仕方がない、それだけ、見頃の桜に出会えるのは貴重な経験であると言われた。この話しを伺って小林先生の「柔らかい心」に触れたように感じました。その心は、桜に対する敬意を、さらにその根底には、山人が山に感じるような自然に対する畏敬の念に通じているように思われます。昭和56年に再訪して石割桜の見頃に出会えた際には、宿での休憩をとりながら、七回も見に行かれたとお聞きしたのが特に印象深く、小林先生の桜を見る姿勢を教えられました。見るべきものをしっかりと見る、己の視覚の限りを尽くして見る眼というものは、自身の五感で対象に直に向われる、小林先生の批評家魂に一貫しているのが感じられます。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)九月七日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十一章 新井白石の読み方
「小林秀雄『本居宣長』を読む」は九月に第三十一章を読みました。「さて、ここで話の方向を変えよう」と、小林先生は、宣長以前の歴史家に目を向けられます。「記紀」に記された神代の物語に、彼らはどのように相対したのか。この「問題」を取り巻く歴史家のありようを、小林先生は、宣長に照らして語られます。宣長は、近世の歴史家たちが持て余した神代の物語に、真っ直ぐに入っていきました。持って生まれた気質を傾け、古人の意のうちに入っていく宣長の姿が、この第三十一章で、はっきりと映し出されます。
「大日本史」が神武に始まっているのは、周知の事だが、幕府の命で「本朝通鑑」を修した林家にしても、やはり、先ず神代之巻は敬遠して、その正編を神武から始めざるを得なかった。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.352)
このような時世にあって、新井白石がただ一人、歴史家として、この問題を回避せず、正面からこれに取り組んだ(「古史通」「古史通惑問」) 。(同)
小林先生の語りが、「神代之巻」を手にして、その「荒唐無稽な内容」に当惑する歴史家たちの姿を呼び起こします。その中にあって、新井白石がただ一人、この「問題」に身を傾け、自身のうちに「神とは人也」という一筋の道を見出しました。「持って生まれた、身を投げかけるようにして」歴史の問題に取り組んだ白石の、「古史通」という「孤独な仕事」は、宣長の「古事記伝」と同様に、強く稀有な光を放っています。しかし、小林先生は、白石の歩いた道と、宣長の歩いた道とは、まったく違う方向へ伸びていることを見抜かれ、こう語られます。
白石は「太古朴陋の俗」による言葉の使い方を、正そうとするのだが、太古の人々の素朴な意のうちに、素直に入って行く宣長には、「太古朴陋の俗」というような白石の言い方は、全く無縁なのである。古人の意のうちに居て、その意を通して口を利いてみなければ、どうして古語の義などが解けようか。(同p.357)
ご講義では、池田塾頭が、この第三十一章で、白石は宣長を背後から照らす逆光として語られているとお話しされました。私たち読者が、宣長の姿をより一層はっきりと思い出すことができるよう、小林先生の創意工夫の文章が繰り広げられ、白石の光は、宣長を背後から強く鋭く照らし出します。池田塾頭はまた、「声に出して読んで初めて、小林先生の思いが伝わってくる」ともおっしゃいました。小林先生の声を思い浮かべながら、先の文章を何度も読んでみると、小林先生の心の昂ぶりとともに、逆光に照らされた宣長の姿が心に映じ、私に直かに語りかけてくるように感じられました。
持って生まれた気質を背負って、宣長は、歴史のうちに真っ直ぐに入って行きます。心の奥に映し出されるその姿を見失わないように、私自身も歴史という思い出に身交い、問いを重ねて、この先の章も読み進めていきたいと思います。
●小島 由紀子
令和五年(二〇二三)三月二十三日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
我が子羽ぐくめ 天の鶴群
(遣唐使の母/巻第九 1791番歌)
ひさかたの 天の香具山 この夕
霞たなびく 春立つらしも
(人麻呂歌集/巻第十 1812番歌)
今回の一首目は巻第九「相聞」の歌で、題詞には「天平五年癸酉に、遣唐使の船難波を発ちて海に入る時に、親母の子に贈る歌一首幷せて短歌」と書かれ、長歌と一組になっている。
池田塾頭は伊藤博先生の『萬葉集釋註 五』(集英社)を開かれ、こう語られた。
「この二首は天平五年(773)に遣唐使として旅立った若者の母親が詠んだ歌です。伊藤先生は『萬葉集』約四千五百首の全てに解説をお書きになりましたが、この歌には、解説の虚しさを感じると仰っています。まず長歌をお聞きください」
秋萩を 妻どふ鹿こそ 独り子に 子持てりといへ 鹿子じもの 我が独り子の 草枕 旅にし行けば 竹玉を 繁に貫き垂れ 斎瓮に 木綿 取り垂でて 斎ひつつ 我が思ふ我子 ま幸くありこそ (1790番歌)
――花妻の秋萩を訪れる鹿は、一人子しか生まないと聞いているが、その鹿の子のようにたった一人しかない私の息子が旅に出てしまったので、竹玉を緒いっぱいに貫き垂らし、斎瓮には木綿を垂らし、神様をお祭りしてひたすら祈りながら私が案じているいとしいわが子よ、どうか無事に帰って来ておくれ。
「冒頭は、萩の花を鹿の妻と見立てた萬葉人の風雅な心が表れていますが、母親は一人子である鹿の子と自分の息子を重ね合わせ、当時の習俗に則った祭具を飾り、神祭りに精魂を傾け、ひたすら無事を祈っています。当時の遣唐使の船はたびたび難破し、安全に往復できる保証などない危険なものでした。そんな旅に一人息子を送り出さねばならなかった母親は、続けてこう詠みます」
旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群 (1791番歌)
――旅人が野宿する野に霜の降る寒い夜には、私の息子を羽で包んでかばっておくれ。空を飛んで行く鶴の群よ。
「当時の船旅は、夜は陸に上がり野宿をしていました。伊藤先生は『祈るだけでは足らず、天の鶴群に呼びかけて鎮護を願っているところがいたましい…我が身を鶴になして常に子の周辺にいたいという母親の身を切るような愛情がにじみ出ている』と仰っています。さらに、『愛児の無事をひたすら願う母心が切実に詠まれており、けだし、遣唐使を送る古今の歌の中での秀逸である』と讃えながらも、この遣唐使一行が約二年後に帰朝したことについては、『全員が無事であった保証も記録もない。帰り着いた人の中に、この母親の子が存在しなかったことを想像するのは惨酷に過ぎる』と言われています。伊藤先生のこの読みは、学者の読みとしては主観が入り過ぎているともみられますが、客観的な語釈と口語訳とに終始するだけの人たちは、萬葉人の思いの切実さに迫りきっていないと言えるのではないでしょうか。伊藤先生のこの読み方からは、客観的とされる浅い読み方は取りも直さず作者に対する冒涜となるという伊藤先生の強い思いが感じられます。さらに伊藤先生は、『子は母親にとって永遠に胎児であり、分化を許さないその心情は解説の言葉を寄せつけないことを痛感せざるをえない』と仰っています。母親の気持ちを思うと、解説しようにも跳ね返されて沈黙するしかない、ただ母親の気持ちを汲むだけしかできないと、無言の共感をされていたのでしょう」
池田塾頭のお言葉で、「我が身を鶴になして常に子の周辺にいたい…」と記された時の、伊藤先生のご表情が浮かんでくるような気がした。
伊藤先生の目の前には、「息子をその羽で包んでおくれ」と鶴に呼びかけながら、自分が飛んで行って息子を抱きしめ温めてやりたいと、腕を震わせ全身で無言で叫ぶ母親の姿があったのではないか…、そう思われてならなかった。
この日の二首目から、巻第十に入った。この巻は巻第八と同じく、歌が四季ごとに分類され、雑歌、相聞の順に並べられている。出典は持統朝前後の「人麻呂歌集」 や「古歌集」で、他にも出典未詳の比較的新しい時代の歌が収録されている。
伊藤博先生が「萬葉百首」にお撰びになったのは、巻第十「春雑歌」の冒頭を飾る、柿本人麻呂の歌であった。
ひさかたの 天の香具山 この夕 霞たなびく 春立つらしも
この歌を最初に聞いた時、春の夕景を描いたのどかな歌、という印象を覚えた。
だが、池田塾頭は、「天の香具山は、大和の中心をなす聖なる山です。この山に見た現象に基づき、春の到来を確かなものとして推定した歌で、巻十の冒頭歌にふさわしいと、『新潮日本古典集成 萬葉集三』の頭注に書かれています。さらに、以下七首は、三輪付近での国見歌らしい、という言葉に注目してください。この歌は一首だけでは完結しません。七首まとめて読まないと、本来持っている歌の力が分からないまま終わってしまいます」と仰った。そして、こう語られた。
「柿本人麻呂は単なる大歌人ではありません。この七首で素晴らしい映像作品を作り上げ、映画の名監督のようにもなりました。言葉一つひとつを映像の一コマ一コマのように配列し、言葉の対比や補い合いによって、全体のイメージを作り上げています。視覚的効果を計算して編集し、さらに、歌を披露する場とタイミングをも計算に入れ、演出家としての才能も、また、色彩感覚豊かな画家としての才能も発揮しています。人麻呂という名監督が歌によってどういう形や姿を見せようとしているか、伊藤先生がそれにどのように見入っていかれたか、どうぞご覧になってください」
池田塾頭の力のこもったお言葉によって、目の前に映画のスクリーンが広がり始める。そのスクリーンには、次のように三つの場面が展開してゆく。
*第一場面 大和の聖なる山「天の香具山」
ひさかたの 天の香具山 この夕 霞たなびく 春立つらしも (1812番歌)
――天の香具山に、今夕は、霞がたなびいている。もう春になったらしい。
「この歌は春の国見が行われた三輪山西麓から、天の香具山を仰いで詠まれました。天の香具山は天から降ってきたという伝承を持つ、大和の神聖な山です。そこに霞がたなびくと春が到来するとされ、国見の場では誰もがこの山の名前を興奮のうちに聞いたことでしょう。国見とは、天皇が高い所に登って民の様子を見て、いかに国をまとめるか手がかりをつかむ機会です。年頭または春の苗代作りや種蒔きの時期に催され、秋の収穫が豊穣であるよう祈ります。花見も国見の行事だったと言われ、花を愛でて秋の豊作を祈る厳かな神事でした。そのような場で、人麻呂は天の香具山に春霞がたなびく様子を詠み上げました。まさに巻第十の『春雑歌』冒頭を飾るにふさわしい歌といえます」
池田塾頭のお言葉によって、スクリーンに、「天の香具山」「三輪山」「国見」という言葉が神聖な輝きを放ちながら、その像を描いてゆく。そして夕景にたなびく春霞が、次の場面へと誘っていく。
*第二場面 国見の場「巻向の檜原」
巻向の 檜原に立てる 春霞おほにし思はば なづみ来めやも (1813番歌)
――ここ巻向の檜原に、春霞が立ちこめてぼうっとしているが、そのようにこの地をなおざりに思うのであったら、こんなに苦労してまでやって来るものか。
「この歌の『巻向の檜原』とは、今、国見が行われている三輪山西麓の地名で、檜原神社がある辺りです。伊藤先生は『国見を行なった場所を、わざと相聞的発想を取ることによって讃美した歌』と仰っています。人麻呂は国見の場を愛する女性に見立てて、私は彼女に会うためにはるばるここ迄やって来たのだと、その素晴らしさを褒め讃えたのです」
池田塾頭はこう仰ると、人麻呂の相聞的発想についての、伊藤先生の考察を紹介された。
「『萬葉集』の他の歌でも、霞や霧は人間の鬱情の表れとして詠まれています。今、春霞を目の前にして、人麻呂の心中に、鬱状を晴らすには恋を詠む相聞歌だ、という風雅が湧き起こったのではないかと、伊藤先生は推察されています。また、国見の場には皇子だけでなく皇女も多かったので、女性を思う恋の歌にしたのではないかと想像されています。藤原宮から三輪山西麓まで、難渋な道を苦労してやって来た女性たちに喜んでもらおうと、臨機応変に趣向を凝らす人麻呂の手腕が十分に発揮された歌といえるでしょう。この後の歌にも女性に関する歌が続きます」
池田塾頭のお言葉によって、スクリーンには笑顔を浮かべた皇女たちが居並び、華やかで明るい彩りが広がっていく。
だが、次の第三首になると、その姿はフレームアウトし、時が一瞬にして過去へと遡る。
いにしへの 人の植ゑけむ 杉が枝に 霞たなびく 春は来ぬらし (1814番歌)
――昔の人が植えて育てたという、この杉木立の枝に霞がたなびいている。たしかにもう春は到来したらしい。
「第二首と同じく国見の場を詠んでいますが、今、目の前に鬱蒼と茂る見事な杉木立は、いにしへの人が植えてくれたものなのだと、現在から過去へ思いを馳せています。伊藤先生は『古人の息づかいのこめられた、遠く古い時代からの杉木立に霞がたなびくとうたうことで、今、一同が国見を行なう場所をほめた歌』とされ、人麻呂は第二首で「今」を、第三首で「古」を詠み、国見の檜原の春景が『古今を通じて不変の充足を帯びる』ことを詠み上げていると仰っています。人麻呂は第二首では『檜』、第三首では『杉』をストップモーションで撮影して時の流れを感じさせるという、映像の心理的誘導効果を狙っていて、映画監督としての手腕が大いに発揮されていると言えます」
池田塾頭のお言葉で、スクリーン全面に檜と杉が映り、その緑の濃淡が永遠を感じさせるように揺らめき続ける。だが、次の場面でカメラは急に向きを変え、大和の山々を映し出していく。
*第三場面 東の巻向山と西の朝妻山
子らが手を 巻向山に 春されば 木の葉しのぎて 霞たなびく (1815番歌)
――あの娘の手をまくという名の巻向山、その山に春が来たので、木々の葉にのしかかるように霞がたなびいている。
玉かぎる 夕さり来れば さつ人の 弓月が岳に 霞たなびく (1816番歌)
――入日の輝く夕暮れになると、幸をもたらす猟人、その弓の名を負う弓月が岳に、いつも霞がたなびいている。
「第四首と第五首は、大和の中心の天の香具山から見て東側に位置する巻向山を詠んでいます。ただ同じ巻向山でも、第四首では山の『全体』を、第五首はその最高峰弓月が岳の『部分』を詠んでいて、伊藤先生はその視点の推移に着目されています。まずはロングショットで、次にクローズアップで、人麻呂はカメラワークを駆使するように、言葉で映像世界を描き出しているのです。さらに、第二首の『今』と第三首の『古』と同じように、第四首は『昼』、第五首は『夕』と、時間を対比させています。次の第六首と第七首は……」
池田塾頭のお言葉で、カメラは東から西へと大きく転回する。
今朝行きて 明日には来ねと 言ひし子を 朝妻山に 霞たなびく (1817番歌)
――今朝はお帰りになっても、今晩また来て頂戴と別れ際に言った、いとしい娘、その娘を思わせる朝妻の山に霞がたなびいている。
子らが名に 懸けのよろしき 朝妻の 片山崖に 霞たなびく (1818番歌)
――あの娘の名にかけて呼ぶのにふさわしい朝妻山、あの片山の崖に霞がたなびいている。
「先ほどの第四、第五首では、天の香具山の東側で近くの巻向山が詠まれ、この第六、第七首では西側で遠くの朝妻山(金剛山)が詠まれています。古代の国見では、東の方角が重んじられたので、東から土地を讃えていきました。ただし、第四、第五首と構図は同じで、第六首は朝妻山『全体』を、第七首はその片山崖の『部分』へと、焦点の絞りがあることを伊藤先生は指摘されています。さらに、人麻呂は『朝妻』という山を、かつて自分を朝送り出してくれた女性として詠んだのではと推察され、第六首は『朝』、第七首は『昼』の歌で、第二、第三首と第四、第五首と同じ時間的対比があることに着目されています。このように伊藤先生は、萬葉歌人の目の働かせ方、そこに映る輝きまでも想像して、他のどの本にもない解説を、すべての歌について書かれたのです」
伊藤先生は、さらに、第四首「子らが手を巻向山に」、第六首「今朝行きて明日には来ねと言ひし子か」、第七首 「子らが名に懸けのよろしき朝妻」で女性が登場し、第五首では「さつ人(猟人の弓)」が「弓月が岳」に係り、獲物の豊かな山として讃美し、生産の予祝としての歌であることを指摘されている。
そして、歌の構成についても細かく分析され、この四首こそ「春が到来したここ檜原の地から見はるかせば、朝も夕も、東も西も、近くも遠くも、山々に霞が一面にたなびいている。まことにめでたい」と讃えた純粋な国見歌であると仰っている。
「伊藤先生はあらためて第一首『天の香具山』の歌に注目されます。人麻呂はまず大和全体への春到来を示し、一座共有の認識として皆を安心させてから、国見の場、大和の山々へと歌を展開させていったとして、三つの場面それぞれに、第一首『春立つらしも』、第三首『春は来ぬらし』、第四首『春されば』と、春到来が明示されていることも指摘されます。これにより、春の国見歌として見事にまとまった一連となり、七首全体をまとめて読まねば、人麻呂の企画した味わいは汲みえないと仰っています」
池田塾頭のお言葉で、目の前のスクリーンが一幕の平面ではなく、屏風絵や絵巻のように広がっていくように感じられた。そこには天の香具山を中心に、巻向の檜原、巻向山、朝妻山が次々と映り、次第に春霞に包まれた大和の地の全体が浮かび上がっていく。
「ここで七首全体をもう一度ご覧ください。第二首は『春霞』ですが、それ以外はすべて『霞たなびく』という言葉があります。人麻呂は詩歌の韻を踏む技法を使い、リフレイン効果を意識したのではないでしょうか。七首全体に秩序と流れが感じられます。人麻呂という映画監督は作曲家にもなり、映像として音楽として味わえる名歌群を完成させたのです」
池田塾頭のお言葉で、スクリーンから輪唱のような音楽が鳴り響き、映画のエンドロールが流れ始めた。そこには、ゆっくりと暮れゆく春の夕景の光が湛えられている。
その時、山辺の道の旅で、橿原市に宿泊した時のことが思い出された。高層階からは大和三山や三輪山、二上山も望むことができた。萬葉人の視界を遮ってしまう高さからの眺めではあるが、その夕景はとても静かで、大和の地には、静けさから聞こえてくるものが、今も変わらずあるような気がした。
「古今を通じて不変の充足を帯びる」という伊藤先生のお言葉が、その情景にも重なっていく。
来春は、今回のご講義で池田塾頭が再現してくださった「春霞たなびく大和」という人麻呂の作品世界をぜひ訪ねたい、そして、その夕景をしばらく見続けたい、と思っている。
●田中 純子
『身交ふ』 令和五年八月号掲載
「小林秀雄『本居宣長』を読む――第七章下 俗中の真」
を読んで……
初めての投稿です。塾との出会いは2017年秋、大阪に「小林秀雄に学ぶ塾(大阪塾)」が開講され、ご案内を頂いたことがきっかけです。
私はいつも講義の予習をする時、取り上げられる小林秀雄さんの作品の朗読(音読)をするのですが、この『身交ふ』に掲載されている池田塾頭の「講座覚書」も声に出して読んでみることにしました。
「小林秀雄『本居宣長』を読む」の「第七章下 俗中の真」の朗読を始めて間もなく、思い起こした言葉がありました。小林秀雄さんが何処かで言われた言葉だったでしょうか……。
「これは、と思った作家を知ろうとするなら、手紙に至るまで、全集を読め」
まさに、ここで、塾頭はそのことを実行されているな、と思ったのです。
そして塾頭は、この「講座覚書」の読者である私達に、ご自分の仕事とも作品とも言える「小林秀雄『本居宣長』を読む」をぜひ聴いてほしい、読んでほしいと、あたかも契沖が後輩の石橋新右衛門に「萬葉集」講義の聴講を熱心に勧めたのと同じように勧めて下さっているのだと受け止めました。
今回の池田塾頭の「俗中の真」を読んで、契沖の、「萬葉集」についての「自己の創説を人に伝えたいとの願望」がまざまざと伝わって来、それは取りも直さず塾頭の熱い思いとして伝わってきたのです。
以下、この「俗中の真」の要として私の心に届いたことをメモ書き風に記します。
○契沖の言う「俗中の真」とは、日常の実生活から掬い上げられる「人生の機微」であり、過去から現在へ、さらに未来へとその「機微」を伝える言葉の力・詩語の力である。
○契沖の石橋新右衛門への手紙の意力は、宣長が、契沖の「百人一首改観抄」「勢語臆断」(『伊勢物語』の注釈書)に感じた意力に通じる。
○世事とは日常生活そのものであり、なぜ人は「世事」を生きなければならないかを悟るには(「萬葉集」のような)「俗中の真」が要る。
○「『伊勢物語』の業平の歌、「つひにゆく 道とはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを」は、「俗中の真」そのものである。
○宣長にとって「俗」なるものとは、現実とは何かということである。
☆小林秀雄さんにとっての関心や価値は、現実そのものより、その現実から生まれてくる言葉である。たとえば「美を求める心」に即して言えば、悲しみという「俗中の俗」が、歌や詩になって言葉の姿を取った時、「俗中の真」が立ち現れる。
今回の「俗中の真」に関するメモは以上ですが、「講和覚書」最後の章の、契沖の遺言状には身が引き締まりました。
塾に参加し始めた頃は、塾頭から「小林秀雄先生の作品は全て『如何に生くべきか』なのだ」と言われても釈然としないものがありました。けれども、参加し続けているうちに、どの作品にも通底しているであろう「小林秀雄さんの生き方・考え方」の片鱗を感じ取れる機会が増えてきました。そして、若い日に小林秀雄さんの「モネの睡蓮」の描写に、どうしてもオランジュリー美術館に行きたいと願い、それがなんとか叶ったことを思い出しています。
昨年、大病で、文字通り死にかかりましたが、無事生還、元気な後期高齢者として再出発できました。これからもぼちぼちじっくり参加させていただきたいと思っています。よろしくお願い致します。
令和五年九月刊行号掲載
●大江 公樹
令和五年(二〇二三)九月七日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十一章 新井白石の読み方
第三十一章では、『古事記』における神代の記述について、宣長の見方以外にどのやうなものがあつたか、述べられてゐました。「神は人也」といふ発想を信じた新井白石、「實に據つて事を記す」ことを目指した「大日本史」の編纂者たちが、いづれも神の世を切り捨ててしまつたといふ小林先生の考へを読み、歴史と向き合ふことが如何に難しいかといふことを、改めて考へさせられました。それと同時に、宣長が神の世の記述に対してどのやうに向き合つたのかといふことについて興味が湧き、この先の章を読むのが楽しみになつてをります。
今回も、池田先生と共に『本居宣長』を読むことを通して、小林先生の情熱を味はふことが出来ました。また現代の「水戸黄門」で描かれる黄門様、助さん、格さんにどのやうな史実が反映されてゐるかといふお話も、大変面白かつたです。
次回も楽しみにしてをります。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)八月二十四日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
逢坂を うち出でて見れば 近江の海
白木綿花に 波立ちわたる
(作者未詳/巻第十三 3238番歌)
磯城島の 大和の国に 人ふたり
ありとし思はば 何か嘆かむ
(作者未詳/巻第十三 3249番歌)
令和五年八月二十四日には「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜り有難うございました。
今回の鑑賞歌の3238番歌は、3236番歌から続く三首一体のうちの一首ですが、3236番歌の長歌に対して、3237番歌は題詞に「或本の歌に曰はく」とあり、3236番歌の異伝の形をとっています。この二首について池田塾頭は、歌そのものの魅力を感じ取るのに絶好の作例とされ、両歌を比較鑑賞してみるよう勧められました。
3237番歌は3236番歌に比して、五七調にほぼ統一される等、音のリズムが良いと、講座の参加者から感想が述べられ、これを受けて池田塾頭は、萬葉歌の鑑賞には朗詠した時の音の響きも大切なのですと応じられました。
3237番歌について、新潮日本古典集成『萬葉集 四』の頭注には、「娘子らに」と「我妹子に」がそれぞれ「逢う」の音を響かせた「逢坂山」と「近江の海」の枕詞であり、「結句の『妹が目を欲り』と響き合う」と記され、また、伊藤博先生の『萬葉集釋註 七』の釋文には、「長歌は、『逢坂山』『近江の海』の地名に家郷(都)の妻を連想しており、そのことが結びの『くれくれとひとりぞ我が来る 妹が目を欲り』を生かしている」とあります。道行きと並行して、都に残した妻を思慕する心が、「娘子」、「我妹子」から結句の「妹」に収斂されていくように感じられます。
今回の鑑賞歌3238番歌は、「故郷に思いを馳せる長歌に対し、対象を旅先の景の讃美に絞っている」のですが、3237番歌の反歌として歌の順に読みますと、景に絞った歌の背後に、伊藤先生の言われる「現地讃美と家郷思慕との双方が相俟つ」響きを湛えているように感じられます。
●青山 純久
令和五年(二〇二三)八月十七日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「人 形」(「小林秀雄全作品」第24集所収)
しばらくぶりで池田塾頭のご講義を拝聴いたしました。今回も読み解かれる内容の深さに感嘆するとともに、丁寧なご解説により、縺れそうになる糸が解きほぐされ、いかに生きるか、というテーマにふさわしく、深く凝縮されたひとときとなったことを感謝申し上げます。
「人形」の作品自体の構造は非常に簡潔で、かつ静かな感銘を与えてくれますが、重層的に配置された言葉の意味を辿ろうとする瞬間に、ある種の複雑さの中に引き込まれるような気持ちになります。おそらく読み手である私の整理しきれない思いが作品に投影され、引き起こされたものといえます。
この作品は、池田塾頭がご指摘になったとおり、単に物事の事実経過が書かれた随筆ではないことは明らかで、読者にいかに深く伝えるかを考えられる中で書かれた小説、とも読めると感じます。そこで、思い浮かぶのは「感想」(同別巻1・2所収)冒頭の有名な文章です。摘記することで意味が通らなくなることを承知の上で以下引用いたします。
「私は事実を少しも正確には書いていないのである」
「以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基いていて、曲筆はないのである」
「妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事実の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直接な経験から発したのではない」
「寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう」
おっかさんという蛍が飛んでいた、というところで、小林先生の体験はご自身にとって抜き差しならない真実になっています。言い方が適当ではないと思いますが、容易に説明できないほどの現実が、真実でなければならないほどに当り前な体験としてあったわけです。
ここには、「客観的事実」等という、人々を安易に納得させるような便利なものさしはありません。まさに「そら言のまこと」として読んでいくことでしか到達できないまことの頂があります。
「人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく、心のうちに、こめたりとて、何のあしき事もあるまじけれ共、これはめづらしと思ひ、是はおそろしと思ひ、かなしと思ひ、おかしと思ひ、うれしと思ふ事は、心に計思ふては、やみがたき物にて、必人々にかたり、きかせまほしき物也」、「その心のうごくが、すなはち、物の哀をしるといふ物なり、されば此物語、物の哀をしるより外なし」(同27「本居宣長」p.145)
いわゆる「事実」というものが人間の意識にとってどんなに頼りないものか。それは物事の表面を削り取っているだけで、少しもそれを生きたことになっていないことが多いことからも分かります。老婦人の真実とは、手に抱えた古い人形が「今も生きている息子」であることが誰の目にも明らかです。後段に出てくる通り、老婦人の挙措の中にはおそらく正気であるかもしれない気配があったのではないかと思われます。そういうことを抜きにして、見た目の事実を言ってみても、それこそが我々の妄想と化してしまうのではと感じます。
老婦人が抱く人形を描く小林先生の筆致は、受けた印象そのままに容赦なく描写されています。
「着附の方は未だ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も褪せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した」
しかし、次の展開において、そのやりとりの中には健全な、おそらくは何も疑問を差し挟む余地がないほどの私たちが日常生活の中で親しんだやりとりが登場します。そのような人形を抱いている老婦人が奇異に見えるとの印象はどこにも書かれていない。ここに小林先生がその場面に立ち会われた時の礼節と微細なこころの動きが行間に滲みでているように思えます。
「私の目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった」
「バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。『これは恐縮』と夫が代りに礼を言った」
そこに、夢から覚めるように一人の若い女性が現れて、沈黙の内にこの場の一切の事情を了解し承認します。この女性は夢幻能に出てくるワキの僧侶のような存在となっていて、彼女の存在によって、その場の情景を読む者にとって、夢と昼の意識との間に架け橋が与えられます。
「私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った」
小林先生はなぜここまで書かれたのか。「さえ思った」という言葉に想いを託されたのではないか。若い女性によって場面は一挙に転換し、その場の人形を含めた4人の情景は、読み手を引き入れて現実感を伴った出来事として静かに定着していきます。
「もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない」
最後の小林先生のこの言葉には、戦争で亡くなられた人々への、生き残った者からの深い想いが表れていると私には思えます。戦争が大きな意味を持っていた時代背景も見なければなりません。池田塾頭が傷痍軍人のお話をされた意味も其処にあると思います。
「これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか」
ここで、小林先生はこれまでの視点を逆転させているように私には感じられました。この場を見ているのは、悲しみの涙も尽きた果てた老婦人の目から見える戦後の日常なのだということに私は気づかされました。
事実はどうなのか、と推理する態度について、現代人に特有の、証明があれば「信じる」という科学的な心理が、いかにその人の体験的事実から、その人自身を遠ざけているかということを、この作品は暗示しているように感じます。
体験した事実をどうすれば人生の中で深めることが出来るのか。さらに言えば、傍観者ではなく、自分自身がそれを生き、ものごと自体が発する意味をいかに感じ、自ら信じることが出来るのか。
「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばえを語るを、くはしく聞くにひとし」(同27「本居宣長」p.138)
この短い作品を通じて、今回も様々に考える機会をいただいた池田塾頭に重ねて感謝申し上げます。小林先生が今其処で語られているようにご解説くださったお陰と感じております。
●久保田 美穂
令和五年(二〇二三)八月十七日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「人 形」(「小林秀雄全作品」第24集所収)
思い出を語り合えた喜び
もう十年以上も前のことだと思われる。昼下がりに呼び鈴が押され、外に出てみた。親世代ほどの、隣家の奥さんが、両手に抱えるようにしてハンカチにくるんだ燕の雛を差し出してきたのだった。雛はぐったりしていて、瀕死の状態だった。隣にいたご主人は、あるかなきかの笑みを口元に漂わせて所在なげに立っていた。
「久保田さんちには燕の巣があるから、と思って」
彼女は返事を待つことなく雛を私に手渡すと、安堵したように、ありがとう、と言った。夫婦は隣家に帰っていった。
だれにも話すことのなかったこの出来事は、小林先生の「人形」を読んだあと、心によみがえり、かすかな波紋を起こしてきたのだった。
講座にて、池田塾頭は「『人形』を読み終えたあとはその味わいと感銘を胸にたたんで沈黙する、これが『人形』の正しい読み方です」と話された。
手にした雛はまもなく冷たくなった記憶がある。私はなぜ一言も発しなかったのだろう。言葉を交わさないうちに、死にゆく命を真ん中にしてなにかを了解しあっていたのだろうか。
そしてまた、塾頭は、「小林秀雄に学ぶ塾の『小林秀雄と人生を読む集い』である以上、私たちは『人形』からも私たちの人生を読む努力をしなければなりません。では、どういう努力をするか、ですが、その努力は、この『人形』の味わいと感銘はどこから来ているか、どういうふうにしてもたらされているかに思いをひそめる、ここに尽きると思います」と話された。
「人形」の講座には「常識」という言葉が盛り込まれていた。人には、言葉に依らなくても思いを伝えあう力がそなわっているのだと、学んだ。
池田雅延塾頭が語られる小林秀雄先生の言葉は、いつも臨場感をもって聴こえてくる。このたびの講座では小林先生と思い出を語り合えたかのような喜びがあった。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)八月十七日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「人 形」(「小林秀雄全作品」第24集所収)
「常識という言葉」
令和五年八月十七日には「人形」、「常識という言葉」のご講義を賜り、有難うございました。
「人形」は小林先生に初めて出会った作品です。今まで幾度となく読み返しては、静かな感銘を受けてきました。
食堂車で老夫婦と同席した小林先生は、夫人が横抱きにしている大きな人形を目にして、戦争で死んだ息子に違いないと悟り、母親の深い悲しみを感じ取られます。この体験を読者に如何にしてしっかりと伝えられるか、小林先生は文章術を尽くして、小説として書かれていると池田塾頭は指摘され、「人形」を読む新たな視点を与えて下さいました。
なかでも、隣に来て坐る女子大学生に注目して、実際には他の席にいたかもしれない娘さんを、自分の居合わせたテーブルに座ってもらうことにしたと附言され、もしこの登場人物がいなかったとしたら、作品はどうなるであろうかと問いかけられます。
女子大学生の登場によって、作品に第三者の共感が取り込まれ、個人の感想を超えた珠玉の一篇に結晶するように感じられます。
四人掛けのテーブルに「私は一人で座っていたところに、老人夫婦が腰を下ろし」、次いで、残る一つの席に「大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て座った」とすれば、この食堂車は満席に近いはずです。しかし、この作品は静謐な空気に包まれています。周囲の喧騒は消えて、舞台の真ん中に置かれた一つのテーブルに坐る「五人」の静かな会食の場面が浮かび上がってくるようです。
事実のみを描くのではなく、伝えたいものをしっかりと読者に伝えるための作品造りという文章術について、池田塾頭は、小林先生の「本居宣長」の中で、「源氏物語」について言われる「空言の真」に通じると指摘されました。
生の経験をそのまま語るだけでは到底伝えることのできない、読者の心に永続する文章を構築する、これこそが「空言の真」であると思われます。
続いて、「常識という言葉」に這入って行かれ、「人形」の娘さんの挙動から「常識」という言葉本来のもつ重みについても考える基盤を与えてくださいました。
現在では軽く扱われがちな「常識」は、「人形」では、母親の悲しみを一目で感受して共有する心に発動しているように思われます。その娘さんの心とは、乱心であれ正気であれそれが何であろう、私はここに息子を抱いているという母親の原始の心に共鳴して、人形に素直に順応する心ではないでしょうか。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)八月三日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十章 下 古言のふり
八月の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、「古言のふり」と題して第三十章後半を読みました。ここまで、「言葉とは何か」という問いに、自分の中の小さな答えを積み重ね、読み進めてきました。第三十章後半では、「古言のふり」について、小林先生が初めて語られます。「ふり」という語の独特な響きに、未だ知らない深い言葉の世界が広がっているような思いがして、池田塾頭はどのようなお話をされるのだろうかと、とても待ち遠しく、ご講義の日を迎えました。
宣長は、誰も読み解くことのできなかった「古事記」にたった一人で身交い、太安万侶が稗田阿礼の口誦の、その奥底に鼓動する古人の心に直に飛び込みます。
「なべての地を阿礼が語と定めて、その代のこゝろばへをもて訓べきなり」
「古事記伝」の「訓法の事」から引用された宣長の言葉には、阿礼と身交い、対話をして、古人の心に直に触れなければ、「古事記」は決して読むことができない、という宣長の強い思いが感じられます。宣長は、直感と想像の力を尽くして、文に現れる「調」から古人の「心ばへ」を感じ取り、安万侶とは逆向きに「古事記」を訓み解いていきました。「証拠」の言うなりになるのではなく、自分自身の想像力、直感を最大限に働かせた宣長の創意工夫は、宣長にしか出来ない独自のものであり、宣長だからこそ、「古事記」を読むことができたのだと、あらためて思いを深くしました。
小林先生はこの章で、宣長の学問の方法の、「ふり」の適例として、倭建命が倭比売命に心中を打ち明ける場面を引用されます。宣長が倭建命の苦しみに心を重ね、波立つ倭建命の心情に寄り添うように訓を定めていく方法が、小林先生の語りによって細やかに解きほぐされます。ご講義では、池田塾頭が「この第三十章は象徴詩のように書かれています」とお話しされました。繰り返し読んでいると、小林先生の語る文章と倭建命の心が互いに響き合い、私の胸に迫り来るように感じられてきます。小林先生の創り出す言葉の連なりが、歌のように、すうっと真っ直ぐに入ってくるこの感覚を、しっかりと覚えておきたいと思いました。
倭建命の「ふり」は、宣長の心に生き、小林先生の心から私の心へ届けられて、その鼓動が直に私の元へ伝わってきます。過去から繋がっている「生きた言霊の働き」が私の内側にも確かに息づいてるのだと感じます。古人の溢れる感情が、「ふり」として文の間に現れ、言霊の働きによって心に溶け込んでいくとき、後世に生きる人々の人生と歴史とが一体となります。小林先生が記された「歴史を知るとは、己れを知る事」という言葉が、この先に続く道を指し示しているように感じました。ここからの道も、想像の力をしっかりと働かせ、小林先生の創意工夫の文章に現れる「ふり」を感じながら、歴史という「思い出」に心を重ねていきたいと思います。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)八月三日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十章 下 古言のふり
令和五年八月三日には「小林秀雄『本居宣長』を読む 第三十章下 古言のふり」のご講義を賜り有難うございました。
宣長の「古言のふり」の一例として、「古事記伝」から「二十七之巻に出て来る倭建命の物語」を引用するにあたって、小林先生は、「宣長が所懐を述べているこの有名な個所」を「宣長の学問の方法の、具体的な『ふり』の適例として、挙げるのであるから、引用も丁寧にしておく」と、注記されます。
「天皇既く吾れを死ねとや思ほすらむ」以下、「古事記」の宣長の訓みを引用した後、この個所の「古事記伝」の注釈文では、「如此恨み奉るべき事をば、恨み、悲しむべき事をば悲み泣賜ふ、是ぞ人の真心にはありける」として、「皇国の古へ人の真心」を称賛されます。
池田塾頭の肉声を耳にしながら「本居宣長」の本文を辿っていますと、「本居宣長」第二十七章の講座で読んだ、「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを」という、契沖が絶賛した業平の有名な歌が自ずから想起されます。
「戎人のうはべをかざり偽る」のを排斥して、「皇国の古へ人の真心」を称える、宣長の同じ心ばえが感じられました。
令和五年八月刊行号掲載
●岡本 卓也
令和四年(二〇二二)九月十五日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「感じるということ」
感ずるという不思議
小林秀雄先生の精神との出会いは、広島の吉田宏さん吉田美佐さん夫妻が企画してくださった池田雅延塾頭の広島でのご講義、「小林秀雄に学ぶ塾in広島」の第2回からでした。2016年のことです。
私はそれまで小林秀雄先生の著作を一度も読んだことがありませんでした。今、考えると大きなご縁に導かれていたとしか思えない出会いだったと思います。というのも私は初めて池田塾頭のご講義を聞いた時、そこで雷に打たれたような感動を覚えて「何かこっちにほんとうのことがある」と感じたとか、すぐにのめり込んで行った、というような敏感な塾生ではなかったからです。初めは分からなかった。むしろ反感に似た感情すらありました。普通の社会通念で考えると断定できるはずがないことを小林先生も池田塾頭も自分の心を賭けて真剣に断定する語り方をされていたし……。
しかし、何故だったのかは自分でもはっきり説明できないのですが、多分、心にぶつかった何かから逃げるのが悔しくて、ご講義に通って、「広島素読塾」にも参加するようになりました。
広島素読塾は小林先生の「美を求める心」の文章を全員で百遍読むことを目指し、月に一度集まって二回素読するという塾です。コロナ禍で中断するまで全員で50回以上は読んだのですが、この文章も初め私にとっては難しかった。何が難しかったかというと、小林先生の書かれている「感ずる」という言葉の意味が分からなかった。けれど、人生は少しずつ進み、その間にも少しずつ小林先生の文章との出会いは増え、私の心が掴む小林先生、池田塾頭の姿も精しくなっていき、いつのタイミングであったか、私は「感ずる」ということが「わからなかった」のではなく「信じられなかった」のだと、はっきり気づいたのです。すると、そこから実生活の中で色々なモノが見えて来て、初めて「美を求める心」という文章が意味でなくモノとして心に触れ始めました。
「感ずる」というのは、やはりとても不思議なことです。不思議だけれど、同時に何より確かなことで、錯覚などでは決してない。 人は花を見た時、「これは菫の花だ」とわかってからその価値を吟味して心を揺らすのではない。愛情の眼差しで目の前のモノを見た時、心はお喋りをやめて自然に相手と共に揺れ、その揺れる歓びに堪えるとき、人は自分の肉声でどうしようもなく「あなたは美しい」と歌を詠うのです。
そのような「感ずる」という不思議の入り口に入った時、世界は依然として謎のまま、しかし明るく開けてくるように思います。感ずるという不思議は、精神の不思議で、命の不思議で、巡り合いの不思議です。唯物的世界の中に人間の脳があって、その脳が心を作り出している、心の存在は錯覚なのだ、計算機を発達させれば人工の精神がつくれるのだ、というような発想ではまるっきり説明のつかない暖かい謎です。その謎の核心に小林先生の文章も、池田塾頭のご講義も常に触れている。
まだまだ池田塾頭のご講義は聴いても理解しきれないところも多いですが、これからも「感ずるという不思議」に接することだけを頼りに、自分の必然の中で何とか食らいついていきたい。
池田塾頭、ありがとうございます。人生は未だ謎で困難なままですが、もう閉じこもって絶望せずに、美しいものは美しいと感ずる覚悟を持って進みたいです。
●大江 公樹
令和五年(二〇二三)八月三日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十章 下 古言のふり
「實證の終はるところに、内證が熟した」といふ、学問に対する本居宣長の姿勢は、文学研究を志す自分にとつて、手本とすべきものだと思ひました。時間に追はれながら研究をしてゐると、つい「實證」ばかりにすがりつきたくなります。しかし第三十章を読みますと、ある作家の「心ばへ」、「ふり」に到達出来てこその、文学研究であると思はされます。「内證」が熟するまで粘り強く作品、作家に向き合ふべしと、姿勢を正されました。
講義の冒頭で象徴詩といふ言葉が出てきた時、『古事記』とフランス文学が結びつくのかと最初は意外に思ひました。しかし、象徴詩と同じやり方で第三十章も書かれてをり、受け手も想像力を働かせることが大切であるといふお話を聴くと、大いに得心がいき、小林先生の思想が初期からこのやうにして繋がつてゐるのかと感銘を受けました。『本居宣長』については勿論、象徴詩が出てくる小林先生の初期の著作についても、読みが深められさうなご講義でした。
次回も楽しみにしてをります。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)七月二十七日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
窓越しに 月おし照りて あしひきの
あらし吹く夜は 君をしぞ思ふ
(作者未詳/巻第十一 寄物陳思 2679番歌)
桜花 咲きかも散ると 見るまでに
誰れかもここに 見えて散り行く
(人麻呂歌集/巻第十二 羇旅発思 3129番歌)
令和五年七月二十七日には「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜り有難うございました。
「萬葉集」編纂者の一首一首の選択と配列を、池田塾頭は現代の映画監督が一コマ一コマの映像を最大限の効果を引き出すように厳密に取捨選択して配列しているのに例えて話され、特に巻十二の第二部編纂のドラマは印象深く拝聴致しました。
また、大伴家持が「萬葉集」全二十巻の巻十六以後巻二十までの編纂、さらには巻一に遡って「萬葉集」全体の総仕上げを担ったともお話しくださいました。
伊藤博先生は『萬葉集釋注』(集英社)に、今回の鑑賞歌である3129番歌を含む3127番歌から3130番歌の四首は「起承転結」をなしていて「解体を許さない」「一連の歌群と認められる」と記されています。
伊藤先生はこの「羇旅発思」の四首は、「巻十二冒頭の人麻呂集歌が巻第十二に採録されたのちも、『異本柿本人麻呂歌集』に取り残されていたらしい。その異本に歌聖人麻呂に関する羇旅発思の歌を発見した天平十七年段階の編者たちは、おそらく昂ぶる気持を抑えきれず、この四首を古の歌群として冒頭に仰ぐ、巻十二の第二部(旅の部)編纂を思い立つに至ったものと覚しい」と言われ、「異本人麻呂歌集」に四首を発見した編者の気持と一体となった、伊藤先生ご自身の心の昂ぶりを釋文に表されます。そして、今回のご講義の熱量からは、「新潮日本古典集成」の「萬葉集」の編集に十五年にわたって携わられた池田塾頭の心の昂ぶりもが伝わってきました。
伊藤先生の釋文は、「それだけに、巻十二第二部の配列は、これまで以上に絶妙を極める」と続き、「萬葉集」巻十二第二部の編纂者に最大の讃辞を送られています。
この「萬葉集」の「絶妙を極める配列」をもっともっと味わうべく、これからも「『萬葉』秀歌百首」の講座で伊藤先生と池田塾頭の声に耳を傾け続けようと思っています。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)七月二十日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「還 暦」
(「小林秀雄全作品」第24集所収)
「科学的な見方、考え方という現代の迷信」
「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、七月、「還暦」が取り上げられました。年齢とどのように向き合うか。長い時間をかけて育まれてきた「還暦」という言葉から、生き方、生きる態度を考えさせられる作品でした。
昔の人々にとって、賀の祝いは、より良く暮らしていくための大切な習わしであり、そういった習わしを続けていくことが、昔の人々の、生きるための知恵であったのだと、池田塾頭のご講義で感じとることができました。私の住むところは、賀の祝いが大事にされており、周りの方々と祝いの日をともに過ごすことにも、若い頃から割合多く慣れ親しんできたように思います。自分の生まれ育った土地にそういった習わしが当たり前に続けられていることは、大変ありがたいことなのだと感じながら、池田塾頭のお話に耳を傾けました。
小林先生は、この作品で、「還暦」の祝いという旧習が、人生に深く根ざしたものであること、「長寿」や「延寿」といった言葉が、人間としての当たり前な心に添い、「長命」「長生」と同じ意味で使われてきたことに触れられます。さらに、円熟、隠居、市隠など、先人によって長い時間をかけて育まれてきた言葉を挙げられ、「人間らしい心」のままに「年齢」の呼びかけに応じて対話をする先人の生きる知恵、生きる態度を示してくださいます。「生命の経験という一種異様な経験」を自覚し、「年齢という実在」にどう向き合うか。この作品で「陸沈」という言葉も教えられ、次の文章がとても印象に残りました。
――「荘子」によれば、孔子は陸沈という面白い言葉を使って説いている。世間に捨てられるのも、世間を捨てるのも易しい事だ。世間に迎合するのも水に自然と沈むようなものでもっと易しいが、一番困難で、一番積極的な生き方は、世間の直中に、つまり水無きところに沈む事だ、と考えた。この一種の現実主義は、結局、年齢との極めて高度な対話の形式だ、という事になりはしないか。歴史の深層に深く根を下ろして私達の年齢という根についての、空想を交えぬ認識を語ってはいないか。……
――世の中は、時をかけて、みんなと一緒に、暮らしてみなければ納得出来ない事柄に満ちている。実際、誰も肝腎な事は、世の中に生きてみて納得しているのだ。この人間生活の経験の基本的な姿の痛切な反省を、彼は陸沈と呼んだと考えてみてはどうだろう。……
ご講義で、池田塾頭も、この作品は、時間をかけて読んでいるうちに自ずと立ち上がってくるような文章です、ストンと腹に落ちるまでには熟読して時を待つ必要があります、とお話しされました。また、ご講義の最後の、受講者の方々と池田塾頭との対話も、私の心を打ちました。人の中に暮らし、人間らしい心を硬直させることなく生きること。時間と心を合わせる経験、生きるという経験を一つひとつ重ねていくこと。自分自身の生きる態度をあらためて見つめ直し、小林先生の語られる言葉が、ストンと私の腹に落ちるその時を待ちながら、また折々に、この作品を開いてみたいと思っています。
●大江 公樹
令和五年(二〇二三)七月二十日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「還 暦」
(「小林秀雄全作品」第24集所収)
「科学的な見方、考え方という現代の迷信」
今回の文章、そしてご講義も、上滑りした思考ばかりをしてゐる自分に、この世の確たるものを見せて、そこへと引き戻して頂けるものでした。
今日の社会に生きてをりますと、小林先生も書かれてゐた通り、文明の進歩により平均寿命も伸び、年齢といふものが我々の手によりどうにでもなるもののやうに思へてきます。しかし「還暦」を読みますと、年齢が我々の力でどうにでもなるものではなく、「向うに在る動かせぬ物的秩序を持つた山と同じぐらゐ確實なもの」として存在してゐることを思ひ知らされます。自分の年齢に応じた生き方がどのやうなものであるのか、これを機に考へて参りたく存じます。
後半のご講義は聴いてをりますと、科学における客観性や合理性といふものが、あくまでものに接する態度の結果として出てくるものであつて、寧ろ大切なのはものに対する溌溂とした興味、関心ではないか、と考へさせられました。そして、ものに対する姿勢こそをみるべきであるといふことは、科学に限らず、小林秀雄、本居宣長の学問にもいへることではないかと思ひました。
次回のご講義も楽しみにしてをります。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)七月二十日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「還 暦」
(「小林秀雄全作品」第24集所収)
「科学的な見方、考え方という現代の迷信」
令和五年七月二十日には、「還暦」、「科学的な見方、考え方という現代の迷信」のご講義を賜りありがとうございました。
「還暦」では、人間にとって年齢とは何か、年齢の意味は何かが問われていると説き起こされました。
天寿という言葉について小林先生は、「生命の経験という一種異様な経験には、まことにぴったりとする言葉と皆思った、そういう事だったのだろう」と、天寿という言葉を発明した古人に思いを馳せて、「命とは、これを完了するものだ。年齢とは、これに進んで応和しようとしなければ、納得のいかぬ実在である」と、年齢という問題の端緒を示されます。
本年四月二十日の講座「年齢」では、孔子の「耳順」をテーマの中心に据えられました。
「還暦」でも、「耳順」を面白い言葉で、「どうにでも解されようが、人間円熟の或る形式だと考えたのは間違いない」とされ、また、長寿や延寿や天寿の「寿という言葉も、経験による円熟という意味に使われて来たに相違ない」と言われ、円熟という言葉に思いを致されます。そこで、「円熟するには絶対に忍耐が要る」として、忍耐とは「時間というものの扱い方」であり、「忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である」と言われ、「円熟」と「忍耐」とが、人の一生において不可分にあると示されます。
池田塾頭の肉声を耳にしながら「還暦」のこの箇所を読んでいて、現代では軽んじられる「円熟」、「忍耐」という言葉が、「人の一生という含蓄のある言葉」の土台を支えているのが、しかと感じられました。
人生如何に生くべきかを生涯のテーマとされた小林先生は、ご自身の一生を通して「忍耐」と「円熟」を実践し、これを体現されたのだと思います。
続いて、「科学的な見方、考え方という現代の迷信」です。
小林先生は、「科学的な見方」に限らず、凡そ「物の見方」というものは物を見えなくすると、これを峻拒されていたと池田塾頭は冒頭に述べられます。
昭和二十四年、四十七歳で発表された「私の人生観」の中で、「科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と検証との間を非常な忍耐力をもって、往ったり来たりする勤労であって、今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的な物の見方とか考え方とかいうものとは関係がない」と、「科学」と「科学的な物の見方」を峻別されていました。
「還暦」では、「科学は合理的な仕事だが、科学の口真似による知性の自負となれば、非合理的な心理事実に属するのであり、これを趣味の一形式と呼んで少しも差し支えない」、そして、「この広く行渉った趣味が、現代の知識人を、本当は無意識な人間に仕立て上げ」ており、「彼等の、本質的な意味で反省を欠いた、又その為に多忙な意識は、言わば見掛けだけのものだ」と糾弾され、そこには「能率的な生き方という一つの道が開かれているだけだ」と読者に警鐘を鳴らされます。
「還暦」が発表されてから六十年が経過した現在、科学的な物の見方は一層蔓延り、能率の追求に血眼となって、科学の成果に遅れまいと右往左往しているように思われます。
●大江 公樹
令和五年(二〇二三)七月六日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十章 上 天武天皇の哀しみ
第三十章前半では、国語表記のあり方を模索する日本人の経験が、二十八、九章に引き続き改めて述べられてゐます。しかし同じ主題が述べられてゐるといふやうには全く感じられません。寧ろ一文一文が新鮮で、日本語を守らうとする天武天皇、阿礼、安万侶の切実な思ひが浮かびあがつてくるやうです。「彼(安万侶)が、直ちに、漢字による國語表記の、未だ誰も手がけなかつた、大規模な實驗に躍り込んだのも、漢字を使つてでも、日本の文章が書きたいといふ、言はば、火を附けられゝば、直ぐにでも燃えあがるやうな、ひそかな想ひを、内心抱いてゐたが爲であらう」といふ部分を読みますと、漢語と日本語の狭間で苦しむ中で、己が母語の感覚を何とかして貫きたいと考へる古代日本人の気持ちが、安万侶に象徴されてゐるかのやうに感じました。
ご講義の中で、『古事記』編纂の政治的な目的はあくまで二次的なものであり、そこには古語を残さうといふ強い思ひがあつた、さう宣長は考へてゐた、といふお話がありました。現代におけるものの見方に染まつてゐると、思ひ至らない考へだと思ひます。先人がどういふ思ひで『古事記』を残したのか、小林先生、宣長のやうに、先人に寄り添ひ考へて参りたいです。
●小島 由紀子
令和五年(二〇二三)二月九日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は
今夜は鳴かず 寐ねにけらしも
(舒明天皇/巻第八 秋雑歌 1511番歌)
泊瀬川 夕渡り来て 我妹子が
家のかな門に 近づきにけり
(人麻呂歌集/巻第九 相聞 1775番歌)
今回の一首目は、巻第八「秋雑歌」の冒頭を飾る古歌であった。
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐ねにけらしも
池田塾頭は、この歌の作者である、第三十四代舒明天皇(天智天皇と天武天皇の父)について、詳しくお話ししてくださった。
「『萬葉集』は巻第一の冒頭に、古代の天皇で最も敬われた第二十一代雄略天皇の歌が置かれ、その次に第三十四代舒明天皇の歌が置かれています。これは皇統の正統性を示すとともに、国の創成に貢献した雄略天皇と文化の形成に貢献した舒明天皇が、特別な存在であることを表しています。『萬葉集』は、舒明天皇の孫にあたる持統天皇の発意によって編纂が進められましたが、実質的には舒明天皇の時代頃からの歌が集められているので、舒明天皇こそ『萬葉集』の創始者的存在といえるでしょう。」
池田塾頭は、さらにこの時代と歌との関係について語られた。
「先代の推古天皇や舒明天皇の頃から、日本は国家という一つの大きな集団体制を確立していく時代となり、それを構成する個人には命令や禁止事項などさまざまな制約が強いられました。苦しい生活の中で、人々は矛盾を感じ、時に喜びを見出し、自分の感情というものを自覚して、それを歌に詠んでいきました。歌は人々の生活に馴染んでいき、まさに豊かな抒情詩が生まれた時代となったのです。そして、持統天皇は、母親の感性を働かせて、国民のために尽くす立場にある皇子や皇女たちに、歌を通じて国民の生活を教えようとして、歌を集め、歌を読ませ、今この世に生まれた自分は何を為すべきかを考えさせようとしました。『萬葉集』という題名は、『たくさんの言葉を集めた歌集』を意味するという説もありますが、持統天皇の思いをふまえると、『萬代までも末長く続く世を願って』という意味が込められているという説の方が適していて、伊藤博先生もそちらの説を取られています」
池田塾頭のお話をお聞きして、日本文化の夜明けは、萬葉人の歌によって豊かな曙色に彩られているイメージが湧いてきた。そして、舒明天皇の「大和には 群山あれど……うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」という、『萬葉集』巻第一の2番歌の国見の歌が思い出された。
「萬葉人にとって特別な存在であった舒明天皇の歌が、巻第八『秋雑歌』で巻頭に置かれた意義を知るために、まずはご自身で何度も読んでみてください。この歌は斎藤茂吉はじめ専門家から『萬葉集』最高の名歌の一つとして高い評価を得ています。それをふまえた上で、伊藤博先生は『歌そのものを心ゆくまで朗誦する以外に真価を知るすべのないような品格がある』と仰っています。ぜひ声に出して読み味わってください。」
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐ねにけらしも
――夕暮れになるといつも小倉の山で鳴くあの鹿は、どうしてか、今夜は鳴かない。妻にめぐり逢えて共寝をしているのであろう。
伊藤博先生はこの歌の境地に参入するために、鹿の声を実際に聞きに、秋の夜、京都高雄の奥山まで行かれたという。「萬葉集釋註 四」(集英社)にはその体験が綴られている。
「奥深い山々は森閑として暗く物音一つ聞こえない。そのうち、十時近くなって全山を響かせて鳴く鹿の声を聞いた。『カーヒョーーー』。長く尾を引き、澄んで高いその声は哀調を帯び余音を残しつつ、一声だけで終わる。そして、四分ばかりの間を置いて鹿はまた『カーヒョーーー』の高鳴りをしみ入るように響かせた。その間隔は規則的で寸分の狂いもない」
ときに弦楽器の高音が、人の嘆きの極まりゆく声に聞こえて驚くことがあるが、この『カーヒョーーー』という音も、鹿の切ない心の声として迫ってくるようで、高く澄んだ子音や長音符「ー」にも、文字にできない微細な変転の響きがあるように感じられてきた。
この声を夕暮れ時に聞き続けていたら、実際には聞こえない日も、耳の奥から、我が身を包むように鳴り響いてくるのではないだろうか……。
伊藤博先生は「舒明天皇が鹿の哀韻に心を動かした経験の持ち主」であることを感得され、この歌について「荘重簡古な調べの中に深遠な思いやりがこもる」と仰っている。「新潮日本古典集成」の註釈にも、「宵々ごとに鳴いていた鹿が、今夜に限って鳴かないことに対するいぶかりを、愛隣の情をこめて歌ったもの」と書かれている。
こういった舒明天皇の心の奥行きについては、他の訳書ではほとんど触れられていないが、伊藤博先生はじめ『新潮日本古典集成 萬葉集』の先生方は、雄鹿がひとり切なく鳴く姿、そして雌鹿と寄り添い合う姿を思い描き、鹿に心を寄せ続ける舒明天皇の、その慈愛の深さまでも訳し出されている。
「この歌の『小倉の山』の場所は詳しくは分かっていませんが、奈良県桜井市今井谷の付近といわれています。山奥で鳴く鹿の声になれ親しんできた萬葉人たちは、舒明天皇とこの歌に心を寄せ続けていたことでしょう。」
池田塾頭のお言葉で、舒明天皇を仰ぎ見た萬葉人の思いと、この歌を巻第八「秋雑歌」の冒頭に掲げた編纂者たちの思いが、今も山奥に息づいているように感じられてきた。
いつかこの歌が詠まれた奈良の山、そして伊藤博先生が行かれた京都高尾の山で、鹿の鳴く声を実際に聞いてみたい。たとえ真っ暗な山奥でも、この歌を思い出せば、この国の礎には歌がある、という安心感も得られるような気がしている……。
次の二首目は、巻第九の「相聞」に置かれた、「人麻呂歌集」からの1775番歌であった。
この歌は、前の1773、1774番歌と三首一連で、人麻呂が宴会の席で、恋を主題にした戯れ歌として、天武天皇の息子の弓削皇子と舎人皇子に献じたものだという。
一首目の1773番歌は、弓削皇子に献じられた歌である。
神なびの 神依せ板に する杉の 思ひも過ぎず 恋の繁きに
――神なび山の神依せの板にする杉の名のように、胸の思いが過ぎてなくなることはあるまい。あまり激しく恋心が身を責めるので。
「伊藤博先生は、これは男の立場から詠まれた歌であるとして、女との間に『何か障害があるゆえの苦悶』があることを読み取られています。それを受けた1774番歌は女からの返歌で、さらにそれを受けた男の歌が1775番歌になっています。この二首は舎人皇子に献じられています」
池田塾頭は歌の構成を説明されると、二首目の1774番歌を読まれた。
たらちねの 母の命の 言にあらば 年の緒長く 頼め過ぎむや
――お母様じきじきのお声がかりさえ頂けたなら、このまま何年もずるずると、お気を持たせたままで過ぎることにはならないはずです。
「『母の命』とは、母親に対する神名的な敬称です。女は母親の気高さを敬い、従うべき絶対的な存在として畏怖の念を抱いています。そして、母親から結婚を認める一言が欲しい、それが得られたらすぐにでも結婚するのにと、その許しが近いことを匂わせます。」
池田塾頭はそう仰ると、三首目の1775番歌をお読みになった。
泊瀬川 夕渡り来て 我妹子が 家のかな門に 近づきにけり
――初瀬川を夕方に渡って来て、いとしい人の家の戸口にとうとう近づいた。
「普通、妻問いは夜に出かけるものですが、『夕渡り来て』とあり、男は夕方に出立しています。これは初めて訪ねる女の家までの道のりの遠さを示していますが、やっと結婚が許されて、女のもとへ早く行きたいという男の気持ちが伝わってきます。そして、いよいよ女の家の門を目の前にして、第五句で「近づきにけり」となった時の、男の胸の高鳴りをぜひ聞き取ってみてください。そして、三首をもう一度続けて読んでみてください」
池田塾頭のお言葉に促され、三首を声に出して読んでみると、五七五七七の限られた文字の間から、男と女の切実な思いが充満しているのが見えてきた。
「伊藤博先生は『萬葉』秀歌百首の一首に1775番を選ばれましたが、『一首を孤立して味わっても男の心の高鳴りは充分に聞こえてくるけれども、三首一連の物語的構成の中に置いて味わえば、なおさら光彩を放つことが知られよう』と仰っています。1775番歌の口語訳だけでは、この歌の何が面白いのかと思われるかもしれませんが、三首を続けて読むと、男の純情さや健気さが迫ってきます。この三首を宴の場で、遊び心をもって読み連ねた人麻呂の手腕を、伊藤博先生は讃えていらっしゃいます。」
池田塾頭はこう仰ると、伊藤博先生の釋註を読まれた。
「家のかな門に近づきにけり」——その向こうに何があるか。すべては万人の理解のうちにある。歌は余情を限りなく残して、終わるべきところで終わっている。
このお言葉を聞いた瞬間、人麻呂の歌を宴席で直接聞いた、弓削皇子や舎人皇子、同席の人々が、皆うっとりと余韻に浸る様子が目の前に浮かんできた。そして、自分も知らぬ間に、彼らと同じ表情をしているように感じて、はっとした。
池田塾頭のご講義によって、この日もまた萬葉人と時空をともにすることができました。あらためて心より感謝の念をお伝えさせていただきます。本当にいつも豊かでかけがえのないひと時をありがとうございます。
令和五年七月刊行号掲載
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)七月六日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十章 上 天武天皇の哀しみ
「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第三十章を前半と後半に分け、七月六日に「天武天皇の哀しみ」と題して前半を読みました。歴史と言葉の姿をしっかり掴みたいという願いが、私の心の中に次第に強まっていきます。七月から八月、ふた月をかけて読む第三十章、池田塾頭がお話された、「歴史とは思い出である」という小林先生の言葉を噛みしめながら、この章で語られる物語を、耳と身体で存分に味わいたいと思います。
「そのかみ世のならひとして、万ノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、漢文章に牽れて、本の語は漸クに違ひもてゆく故に、如此ては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看し哀みたまへるなり」(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.337)
宣長の言葉を読み重ねるうちに、天武天皇の御心に寄り添う宣長の「思い出」が、滲むように私の心に染み入り、天武天皇が目の前に立っていらっしゃって、その厳かな表情までもが感じられるような気持ちになりました。その姿は、史家によって明かされた「歴史上の人物」ではなく、国を一身に背負う強さ、大和言葉の命を捉える繊細さ、伝統の危機を察知する鋭さを、溢れんばかりその身体に湛えられている天武天皇の生きた姿です。宣長の「思い出」を辿って私のなかに直に呼び出された天武天皇の姿は、亡くなった父の姿が心に浮かんでくるのに似て、親しさと厳しさ、憂いや激しさもその声に滲ませて、すぐそばで語りかけているように感じられます。
史実を語る書物から歴史を学んできたこれまでの私に、小林先生は「思い出」を繋いで直に歴史に入っていくその仕方を教えてくださいます。同じ時を生きた天武天皇、阿礼、安万侶の三人の「まことに幸運な廻り合い」、そして、「自国の言葉の伝統的な姿」を残すために結ばれた三人の覚悟を、この三十章前半で感じることができました。豊かな「思い出」を湛えた川が互いに合わさり、大きな大きな海になっていきます。「古事記」誕生の壮大なドラマ、そして、古語の生きた姿を、「歴史とは思い出である」という小林先生の言葉とともに、第三十章後半でも深く味わって読んでいきたいと思います。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)六月二十二日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
行き行きて 逢はぬ妹ゆゑ ひさかたの
天の露霜に 濡れにけるかも
(人麻呂歌集/巻第十一 正述心緒 2395番歌)
燈火の 影にかがよふ うつせみの
妹が笑まひし 面影に見ゆ
(作者未詳/巻第十一 寄物陳思 2642番歌)
令和五年六月二十二日には「新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜りありがとうございました。
今回の鑑賞歌の2395番歌は、「物に寄せずに直接思いを述べた歌」を意味する「正述心緒」に配列され、2642番歌は、「物に寄せて思いを陳べる歌」を意味する「寄物陳思」に配列されています。「萬葉集」の歌はそういう「萬葉」編者の意図を汲み、それぞれの歌の配列形態に即して読むことによってこそ正しく鑑賞できるのです、と、池田塾頭は契沖の教えと、その教えを踏襲された「新潮萬葉」の先生方の読み方、味わい方に則ってお話し下さいました。
そして、巻第十一の「正述心緒」、「寄物陳思」という表現手法は、柿本人麻呂の考案らしいという「新潮萬葉」の先生方の見解を紹介され、その観点から、人麻呂は「萬葉集」の一大歌人に留まらず、歌に新しい広がりをもたらしたいわばプロデューサーでありディレクターでもあったようだと言われ、萬葉歌の世界で果たした人麻呂の大きな役割の一面を浮き彫りにされました。
2642番歌については、伊藤博先生の、「きわめて印象鮮明な歌である。事象だけを述べた歌の強みである」、「燈火の中にいる女の姿は浮き立つがごとくである」(集英社刊『萬葉集釋注 六』、285頁)という釋文を紹介され、今回も伊藤先生の鑑賞力に絶大な賛同と敬意を示されました。そのうえで、「女のさような情景を、美しいものとして何回も見た男の詠であることはまちがいない」という伊藤先生の釋文については、池田塾頭ご自身の直観から、この燈火の中にいる女の姿という情景は、「初めて会ったころ、ふと目交いに立ってはっとさせられた笑顔の美しさ」とも読み取れますと、ご自身の読みを率直に伝えられました。そして、塾生たちに、独善に走ることは十分警戒しながらも自分の直観的な読みも大切にする、そうすることによって自分もその場にいるかのような臨場感が得られると勧められました。私もこの歌を読み直してみて、詠み込まれた燈火の中の女の笑顔は、作者の繰り返しの経験によって上書きされないただ一度の経験であるからこそこの歌の魅力の源泉を成しているように思われました。
●齋藤 崇宏
令和五年(二〇二三)六月十五日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「読書週間」
(「小林秀雄全作品」第21集所収)
「経験という言葉」
読書百遍とは、本当のことがわかる本をわかるまで読むことなのだろう、書店には偽物の本が多く置いてあって、それを読んでも経験したことにはならないのだろうと思いました。
小林先生がおっしゃっていた当時の流行は、海外旅行に行ったり、仕事を変えたり、恋愛の相手を変えたりですが、それは本当のことがわかる経験にはならないのだと思いました。
正岡子規は読んだことはありませんでしたが、小林先生の言われることを聴いて、本当のことが書かれていると思いましたので本を買いました。
ありがとうございました。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)六月十五日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「読書週間」
(「小林秀雄全作品」第21集所収)
「経験という言葉」
令和五年六月十五日には、「読書週間」のご講義を賜り有難うございました。
今から七十年も前の昭和二九年に発表された「読書週間」で、小林先生はもう「本が多すぎる」と洞見されています。先生は昭和一一年の末頃から「創元社」の編集顧問をされていましたが、その経験から出版社は新刊書を出し続けなければならないのだという苦しい業態事情にも言及され、「本が多すぎる」という状況はそういう業態のやむを得ざる必然とも言われていますが、池田塾頭はご自身が新潮社の編集者として五十年間、出版界に身を置かれていた立場から、一冊の本の成り立ちについても詳らかに語ってくださいました。
昭和四十年代までの活版印刷の時代、ということは何から何まで手仕事であった時代は、原稿が著者から編集者に渡され、その原稿が本となって書店に並ぶまで、新潮社の場合は一点あたり四か月という時間がかけられていました。
その間に原稿は印刷所に渡って校正刷となり、校正刷は校正者と編集者によって丹念に閲読され、その校正刷が著者に届けられて綿密な著者校正が施され、と、作品は著者と出版社の間を往復することによって一段と密度をあげ、熟成していきました。
ところが、昭和五十年代の幕開きに印刷業界にもコンピューターが導入され、これによって本造りの工程がコンピューターの組版能力を基準として割り出されるようになったため、ある一定の時間がかかることによって保証されていた作品の密度と熟成がほとんど期待できなくなってしまったと池田塾頭は嘆かれ、したがって小林先生の言われる「本が多すぎる」も、もはや先生の時代の「本が多すぎる」どころではなくなっています、現代の読者はそのことまでもよく心得て先生の「読書週間」を読む必要があります、そういう意味では先生の「読書週間」は、今こそ読まれるべき作品ですと言われました。
そのうえで、池田塾頭は、しかし自分は今日のコンピューター製版を否定したり敵視したりするものではない、なぜなら日本で出版されたコンピューター製版書籍の第一号は、池田塾頭も編集スタッフのひとりであった「新潮日本古典集成」の『源氏物語(一)』であり、この「新潮日本古典集成」の第一回配本『源氏物語(一)』が昭和五十一年六月に刊行されるまでの約五年間、池田塾頭たちは大日本印刷のコンピューター技師たちと日本で初めてのコンピューター製版の実用化に向けて水面下で知恵を絞り続けられ、今日、読書界でも国文学界でも高く評価されている「新潮日本古典集成」の傍注方式は、このコンピューター製版の実用化に成功したからこそ可能となったもので、印刷業界が旧来の活版印刷のままであったなら「新潮日本古典集成」は世に出ていなかったと話されました。
二十数年前になりますが、私は日本の古典を読みたいと思い、古文が読めない自分でも読めそうな本をと探していた時、手にした「新潮日本古典集成」の傍注が心強く、これなら原文のままで読めるのではないかと思われ、「平家物語」を皮切りに「源氏物語」「徒然草」等を読み始めました。日本の古典にとにもかくにも触れられたのがとても有難く、私は「新潮日本古典集成」の多大な恩恵に浴した一人です。それだけに、池田塾頭がお話し下さったコンピューター製版による新しい本の創出のドラマは大変興味深く、感銘しました。
●大江 公樹
令和五年(二〇二三)六月一日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第二十九章 「古の実のありさま」は古語にこそ
第二十九章は津田左右吉氏による本居宣長批判で幕を開ける。津田氏の立場は、いはゆる「客觀的な歷史事實」を重んじたものであり、この概念に慣れ親しんでゐる我々読者からすると、二十九章冒頭は非常にスリリングなものである。津田氏による「理詰め」の考へ方に対して、小林氏がどのやうな反論をするのかと期待しながら読むと、小林氏は「問ふ人の問ひ方に應じて、平氣で、いろいろに答へもするところに、歷史といふものゝ本質的な難解性があるのであらうか」と述べて、津田氏の意見を軽やかにかはしてしまふ。その後、宣長に寄り添ふやうにして、「言語生活上の、どうにもならぬ条件」に立ち向かふ古代人に思ひを致し、古代人がどのやうに漢語を自分たちの生活に吸収し、かつ自国語を意識したのかを想像する。そして、この想像が、津田氏に対する壮大な反論となつてゐるのである。
第二十九章を読むと、想像力を働かせることにより、歴史は見え方がかうも変はるものかと思はされる。本章で、争点として書かれてゐるのは、「辞」といふ言葉の解釈である。「帝紀及び本辞」といふ記述をはじめとして、『古事記』序文において何度か登場する「辞」を、津田氏は「事」だと解釈するが、本居氏は「古語」と密接に結びついたものと考へる。『古事記』に至るまでの、古代人の思ひを想像しなければ、我々は「辞」といふ言葉を簡単に読み流してしまふだらうし、津田氏の考へをあつさり受け入れて終はつてしまふだらう。しかし、本居氏、小林氏に倣つて、「漢字によつてわが身が実験され」てゐた古代人の思ひを想像すると、「辞」といふたつた一文字が、古語を守ろうとする古代人の姿を物語るやうになる。想像力により、小さな形跡が、その背後に巨きく深い歴史の姿を見せてくれるのである。
第二十九章からは、歴史に向き合ふ望ましい姿勢とはどういふものかを教へられたやうに思ふ。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)六月一日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第二十九章 「古の実のありさま」は古語にこそ
「小林秀雄『本居宣長』を読む」六月のご講義では、第二十九章を読みました。私たちはどのように歴史に入ってゆけばよいのか。小林先生は、宣長が上代の人々の努力の内側に入って行ったその道筋を、糸をほぐすように辿って行かれます。その味わいは深く、何度も読み返すうちに、文章の奥にある、上代の人々の苦心、天武天皇の志、宣長の感情の波立ちが、私の心に触れます。「学問」とは何か。池田塾頭のご講義を受講し、宣長が実践した歴史との出会い方、そして、小林先生が私たちに表してくださる歴史との出会い方が、本当の「学問」なのだと教えられました。
今回、ご講義のあとに、池田塾頭に質問をさせていただきました。「口頭言語の曖昧な力」という言葉に、ふと足が止まったためでした。「一緒に考えてみましょう。」と池田塾頭がお答えくださり、口頭言語について、池田塾頭のお話を手掛かりに、じっくりと考えを廻らせました。口頭言語は話した瞬間から消えていき、頭脳や視力によってその形を留めることがありません。しかし、時に、発せられた言葉が心のひだに足跡を残し、その姿が心の眼にはっきりと映り、いつまでも留まることもあります。この、どちらにも振れる口頭言語のありようは、曖昧で不安定な、しかし、豊潤で広がりのある生きた姿にも見えます。「口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて、漢文の格に書かれると、変質して死んで了う」という小林先生の言葉にも「直に人の口に言ヒ伝へ、耳に聴伝はり来ぬる」古語の生きた姿が感じられてきます。言葉に宿っている命、その命が伝統であり、私たち日本人の歴史そのものである。池田塾頭のお話を聴きながら、素性の確かな古語、話しことばを残そうとした天武天皇の強い思いも、この命を確かに手にしたからなのだと感じました。
この第二十九章で、小林先生は、私たちに、目に見えることだけを頼りにしてはいけない、そう仰っているように思えます。ご講義で池田塾頭がお話された、「学問」とは何か。目に見えることの奥にある、目に見えないものに心を重ね、誰もが知っていることをより詳しく深く考えてよく味わうこと、見過ごしている微妙な味わいを感じることを、私なりに実践していければと思います。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)六月一日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第二十九章 「古の実のありさま」は古語にこそ
令和五年六月一日には「小林秀雄『本居宣長』を読む」第二十九章「『古の実のありさま』は古語にこそ」のご講義を賜り有難うございました。
現代で学問とは、自然科学の立場から、新しい発見をする謂いとなり、新たな発見の先陣争いの様相を呈していますが、小林先生は、「誰もが知っている事をより深く考え、味わい知る、それこそが学問である」と説かれます。池田塾頭は、「本居宣長」第二十九章で、その「学問」を小林先生自身が実践され、漢字を日本語に取り込むという日本人の歴史劇を、想像力の限りを尽くしてご自身の内に再現されています、したがって「本居宣長」の第二十九章は、そういう歴史劇の台本を読むつもりで味読するように、と勧められました。
外国から文字がもたらされたという、誰もが知識としては知っている歴史事実について、「幾百年の間、何とかして漢字で日本語を表現しようとした上代日本人の努力、悪戦苦闘と言っていいような経験を誰も想い描こうとはしない、想い描こうにも、そんな力を、私達現代人は、殆ど失って了っている」と、小林先生は歴史に対する現代人の態度に注意を喚起されます。一方、「これを想い描くという事が、宣長にとっては、『古事記伝』を書くという」事であり、「古事記」の「複雑な『文体』を分析して、その『訓法』を判定する仕事は、上代人の努力の内部に入込む道を行って、上代文化に直かに推参するという事に他ならない」と、宣長の「古事記伝」の仕事の性質を明示されます。
次いで小林先生は、「日本の文明は、漢文明の模倣で始まった、と誰も口先きだけで言っている言葉の中身を成すもの」を「学問」していかれます。
「模倣は発明の母というまともな道」の極まる処、「模倣の上で自在を得て、漢文の文体にも熟達し、正式な文章と言えば、漢文の事と、誰もが思うような事になる。其処までやってみて、知識人の反省的意識に、初めて自国語の姿が、はっきり映じて来るという事」が起り、遂に「漢字の扱いに熟練するというその事が、漢字は日本語を書く為に作られた文字ではない、という意識を磨ぐ事でもあった。口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて、漢文の格に書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める」、「この日本語に関する、日本人の最初の反省が『古事記』を書かせた」と言われ、天武天皇の「古事記」撰録の理由について、「既違正実、多加虚偽」が引用されます。今までよく呑み込めないまま、素通りしていたこの箇所が、第二十九章の核心とも言える位置を占めているのに思い至りました。
これに続いて、「天皇の意は『古語』の問題にあった。『古語』が失われれば、それと一緒に『古の実のありさま』も失われるという問題にあった、宣長は、そう直ちに見て取った」。小林先生は、この宣長の見解は正しいとされ、「ただ、正しいと言い切るのを、現代人はためらうだけであろう。『ふるごと』とは『古事』でもあるし、『古言』でもある、という宣長の真っ正直な考えが、何となく子供じみて映るのも、事実を重んじ、言語を軽んずる現代風の通念から眺めるからである。だが、この通念が養われたのも、客観的な歴史事実というような、慎重に巧まれた現代語の力を信用すればこそだ、と気附いている人は極めて少い」と言われ、現代も言葉という圧倒的な力の下にあることに何ら変わる処はないと、読者に自省を促され、気附きを求めて、第二十九章を閉じられます。
●大江 公樹
令和五年(二〇二三)五月二十五日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
我が背子を 今か今かと 出で見れば
沫雪降れり 庭もほどろに
(作者未詳/巻第十 冬雑歌 2323番歌)
朝影に 我が身はなりぬ 玉かきる
ほのかに見えて 去にし子ゆゑに
(人麻呂歌集/巻第十一 正述心緒 2394番歌)
「我が背子を」について、この歌が冬雑歌にある以上、相聞歌ではなく雪について詠んだ歌として読むべきだ、といふ契沖の考へ方を知り、『萬葉集』は歌の並び方、編纂の方針を踏まえなくてはならないといふことを、改めて考へさせられました。その上で歌を読み直してみると、庭もほどろに降つた沫雪が、最初に読んだ時以上にリアリティをもつて目の前に浮かび上がつてきました。それと同時に、その情景の味はひは、歌の前半で詠まれる、今か今かと背子を待つ心情に支へられてゐるやうに感じます。講義を経て、この歌がもつ重層性について思ふやうになりました。
「朝影に」の歌については、感慨は後半にありとする斎藤茂吉の評をご紹介頂き、歌に向き合ふあるべき姿を教へられました。
次回の講座も楽しみにしてをります。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)五月十八日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「『白痴』についてⅡ」
(「小林秀雄全作品」第19集所収)
「直観という言葉」
「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、五月に「『白痴』についてⅡ」を取り上げました。「様々なる意匠」で批評家として文壇に出た小林先生は、三十歳の昭和七年、休む間なく書き続けた文芸時評と手を切り、その翌年からドストエフスキイの作品論に取り掛かります。それから六十二歳に至るまでの三十年間、小林先生のドストエフスキイに対する情熱は冷めることなく、幾つもの作品論をお書きになりました。ご講義のご案内文には「この「『白痴』についてⅡ」は、執筆にかかるやここぞという要所は原作をまったく見ずに書き上げたと言います、あたかも手練れのヴァイオリニストが楽譜に目をやることなく大曲を弾ききるようにです」とあり、池田塾頭のこの一文からも、小林先生の並々ならぬ思いが伝わってくるように感じました。ご講義では、「ぜひ皆さんも『白痴』を読んでください」と池田塾頭が背中を押してくださり、少し時間がかかりましたが、原作に触れ、ひと呼吸置いて、あらためて小林先生の弾く旋律、音の深さを味わう気持ちで、この作品に向かいました。
「白痴」のなかで、心の深淵を孤独に歩いていくムイシュキン公爵の姿は、私たち読者の前に現れては沈黙し、また現れては沈黙します。そこに公爵が確かに居て、目を開いて静かに見ているような感覚が度々私に降りかかります。それは、小林先生の語る、「気絶することのない意識」が、「意識たる事を決して止めない」ままに立ちはだかっているような苦しい感覚に似て、拭っても拭っても消えない、空恐ろしい感覚です。池田塾頭がご講義で仰った、「小林先生のドストエフスキイへの思いはただならぬものであった」というお言葉が、何度も私の頭を駆け巡ります。小林先生は、ドストエフスキイの「苦しい意識」、人々の言う真理や救いなどではなく、自分自身でなんとかしなければならない「意識の限界経験」を直に手にされ、この「『白痴』についてⅡ」という作品で、その深く苦しい心の淵の感触を表現されているように感じました。
「理想や心理で自己防衛を行うのは、もう厭だ、自分は、裸で不安で生きて行く。そんな男の生きる理由とは、単に、気絶することが出来ずにいるという事だろう。よろしい、充分な理由だ。他人にはどんなに奇妙な言草と聞こえようと自分は敢えて言う、自分は絶望の力を信じている、と。若し何かが生起するとすれば、何か新しい意味が生ずるとすれば、ただ其処からだ。」
「或る一点」を奥底に抱いて生きる苦しみ、そうして生きていることの絶望、しかし、それがあるがままの「私」の生存の意味である以上、ひたすらに歩いていくしかない。ムイシュキン公爵の姿は、ドストエフスキイの思想を映し、小林先生の奏でる音色は深く、私の心の奥底を震わせます。ご講義で、「ドストエフスキイは久しく私の思想の淵源であった」と小林先生の言葉を池田塾頭が繰り返されました。私には、小林先生の作品を読むのにもまだまだ時間が必要ですが、先生が深く読んでいらっしゃったドストエフスキイ作品にも、必ず時間を作って直に触れていきたいと、今回のご講義を受講し、強く感じました。
令和五年六月刊行号掲載
●久保田 美穂
令和五年(二〇二三)六月十五日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「読書週間」
(「小林秀雄全作品」第21集所収)
「経験という言葉」
昭和四十年代、第二次世界大戦の痛手から日本が立ち直り、人々は様々な国へ旅行に出かけ、見聞したことを「経験」として語る風潮が世間にあふれていました。
そのような折り、小林秀雄先生は、「経験というものは数の問題ではないのだ。正岡子規はひとつところに何年も寝ていた、あれが経験というものなのだ」と池田雅延塾頭に話されたそうです。
ひとつところでひとつのことに向き合い、時間をかけて知識や思索が熟すのを待つ、それこそが「経験」なのだ、と。
正岡子規は、晩年、結核菌が脊髄を冒し脊椎カリエスを発症し、床で過ごす日々が多くなります。六尺という床のなかで、ひたすら短歌、俳句と「身交ふ」ことを最後まで続けました。
この機会を得て、正岡子規の歌を読んでみようと思い、明治三十年から三十五年までの歌をながめてみました。すこやかでユーモアを交えた歌があり、自然を織り込んだ、慈しみに充ちた歌がありました。そうして、病を痛む歌には、正岡子規の潔癖さがあらわれていました。
明治三十五年、正岡子規が亡くなった年に詠んだ歌があります。
紅梅の下に土筆など植ゑたる盆栽一つ、左千夫の贈り来しをながめて、
朝な夕なに作れりし歌の中に
まくらべに 友なき時は 鉢植えの 梅に向ひて ひとり伏し居り
この年の九月、正岡子規は亡くなりました。
ひとり伏し居り……さいごの言葉は祈りの姿のように思えます。
言葉を玩味することなく、とおり一遍にとらえたまま生活していますと、小林秀雄先生の指摘にハッとするのです。
この講座から、そのような言葉の発見も、いただいています。
●齋藤 崇宏
令和五年(二〇二三)五月二十五日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
我が背子を 今か今かと 出で見れば
沫雪降れり 庭もほどろに
(作者未詳/巻第十 冬雑歌 2323番歌)
朝影に 我が身はなりぬ 玉かきる
ほのかに見えて 去にし子ゆゑに
(人麻呂歌集/巻第十一 正述心緒 2394番歌)
令和五年四月二十九日に奈良の檜原神社に参拝いたしました。
崇神天皇の時代に疫病が発生し、その疫病が国民の大半に及んだのは、崇神天皇が自分の家で天照大神を祀っているのが原因と考え、より清々しいところを見つけてお祀りしたのが檜原神社なのですが、天照大神は最終的には伊勢神宮に祀られましたから、檜原神社は元伊勢神社といわれています、というお話を久野潤先生からお聞きしました。
私が勤めている会社も、令和二年四月にコロナの影響を直接受けて一ヶ月休業せざるを得ませんでした。その休日を利用して、令和二年四月二十五日に初参拝いたしました。
その時は、小林秀雄と書かれた小さな石碑と、佐美雄と書かれた大きな石碑には気づきませんでしたが、今回は違いました。
小さな石碑には、「山邊道」とだけ書いてあり、その周辺は薄暗く松の木が生い茂っていて薄気味悪かったので、初めて通ったときは走って抜けたのですが、今回はゆっくり松の木を見ながら歩いたり立ち止まったりして見ました。
大きな石碑には、「春がすみ いよよ濃くなる まひる間の なにも見えねば 大和と思へ」と書いてあり、曇りで大和三山は見えませんでしたが、大和三山があると思えました。
檜原神社に初参拝した時は、来たという記念にお守りを購入したのですが、今回は子持ち勾玉守りやお札を購入しました。「小林秀雄講演 第8巻」の講演内容の意味がやっと分かった気がします。
池田塾頭、講座を開いてくださり、ありがとうございます。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)五月二十五日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
我が背子を 今か今かと 出で見れば
沫雪降れり 庭もほどろに
(作者未詳/巻第十 冬雑歌 2323番歌)
朝影に 我が身はなりぬ 玉かきる
ほのかに見えて 去にし子ゆゑに
(人麻呂歌集/巻第十一 正述心緒 2394番歌)
令和五年五月二十五日には「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜りありがとうございました。
今回の鑑賞歌の2323番歌:「我が背子を 今か今かと 出で見れば 沫雪降れり 庭もほどろに」は、「冬雑歌」の「雪を詠む」という題のもとに九首を配列した編纂者の意図を汲み、雪景色を詠んだ九首のなかの一首として味わう、それがこの歌を鑑賞する要諦であると説き起こされました。
そして、「新潮日本古典集成」の『萬葉集 三』に記されている「庭に薄く積もった雪を詠んでいる」という一読しただけでは言われるまでもないと思えるこの歌の釈注は、この歌が「冬雑歌」という部立ての下に配され、「雪を詠む」という題詞を立てて置かれていることから、雪は雪でもどういう雪に主眼をおいて詠まれているかに注目を促すとともに、一方ではこの歌は相聞歌とも読めるが「冬相聞」という部立ての下には配列されていない、したがってこの歌は、冬の叙景歌として味わうべきであるという、契沖が示した「萬葉集」や「古今集」収録歌の鑑賞態度の表明ともなっています……、と話されました。
伊藤博先生は『萬葉集釋註』で、この歌を「編者は、『沫雪降れり庭もほどろに』の景に重点を置いて『冬雑歌』の中に収めたのであろう」と言われ、窪田空穂、鴻巣盛広、安藤正次、土屋文明各氏の注釈を紹介して、「諸注、一首をむしろ相聞歌と解している、それでいいのだと思う」、「待つ人の来てくれぬ悲しみは奥にひそめた含蓄の深い歌だから、こういう待遇を受ける運命を持っていたというべきか」と言われています。池田塾頭はこの伊藤先生の釋註を引いて、歌を読み味わう態度といったものを示されました。すなわち、「萬葉集」や「古今集」など古典となっている歌集の収録歌は、編纂者の編纂意図に沿って読み味わうことの大切さを指摘されました。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)五月十八日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「『白痴』についてⅡ」
(「小林秀雄全作品」第19集所収)
「直観という言葉」
令和五年五月十八日には「『白痴』についてⅡ」のご講義を賜りありがとうございました。
ドストエフスキーの作品は、「人生如何に行くべきか」のテーマで貫かれている、そう小林先生は見ていたと言われ、端的な例として、「『罪と罰』についてⅡ」(「小林秀雄全作品」第16集所収)からの引用、「これは犯罪小説でも心理小説でもない。如何に生くべきかを問うた或る『猛り狂った良心』の記録なのである」を挙げられました。 このテーマは「白痴」にも、そして他のドストエフスキーの作品にも通じていると指摘され、ドストエフスーを読む根幹の視点を与えてくださいました。
そしていま、日本でドストエフスキーが広く読まれるようになっていることについて、小林先生のドストエフスキーの仕事の決定的な貢献もお話し下さいました。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)五月十一日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第二十八章 下 あやしき言霊のさだまり
「小林秀雄『本居宣長』を読む」五月のご講義は、第二十八章後半に入りました。小林先生が宣長の「古事記伝」と身交われる第二十八章の前半から後半へ、言語の伝統に直に迫る文章が続きます。小林先生の言葉は私の心を揺さぶり、日本語という母国語の、その奥底に流れる生命の繋がりを、この第二十八章で感じとることができました。
ご講義の冒頭では、二十八章前半部を振り返り、「記の起り」について、池田塾頭が現代の私たちに親しい言葉でお話しくださいました。「自分たちはこう生きた」という古人の物語を、いま、古人の言葉で残さなければ……と天武天皇は、若き稗田阿礼に「誦み習はし」て、古人の言葉を語り継ぎます。後半部では、阿礼の語り言葉を「古事記」として書き表した、太安万侶の創意工夫のドラマが語られます。宣長は、安万侶が書いた「古事記」序文から古語の躍動を受け取り、小林先生は、想像力の限りを尽くして「宣長の心の喜びと嘆きとの大きなうねり」に身交います。体当たりのドラマが響き合い、一つの大きな連なりが見えてくる第二十八章、池田塾頭が「創意工夫の三重奏」と表現されたことが深く心に残りました。
阿礼から安万侶へ引き継がれた「古語の掛け代えのない『姿』」は、安万侶から宣長へ、宣長から小林先生へと手渡されます。
宣長の註には、「上古之時云々、此文を以テ見れば、阿礼が誦る語のいと古かりけむほど知られて貴し」とあり、又「言のみならず、意も朴なりとあるをよく思ふべし」と言う。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.318)
自国の文字をまだ持たなかった日本人に、外来の文字が降り注ぎます。上代の知識人は、「明言し難い悩みに堪え」て、「漢字」を自分たちの内に取り込みました。難事にぶつかり、苦しみを乗り越えた先に、安万侶は、日本語という母国語の姿を掴みます。漢文の書きざまに自分たちを当てはめて初めて気がついた、母国語の「朴」とした有りよう。彼が掴み直した日本語の「味わい」こそが、私たち日本人が身を預け、互いに語り交わし、知らず知らずのうちに培ってきた日本語の伝統、つまり、歴史の姿なのだと、感じました。
安万侶の創意工夫は、小林先生に捉えられ、阿礼の「誦習」が物語の文を成していること、安万侶が「古事記」を書き表したその表記法を決定したものは、「与えられた古語の散文性であった」ことが語られます。さらに、小林先生は、宣長が着目していた「祝詞と宣命」に目を向け、祝詞、宣命に現れた助辞を辿り、「古事記」に息づく「言霊」に身交った宣長に、心を重ねます。「言霊」の働きは、古代から現代へ、時を超えて、私たち日本人を互いに結び、言語の伝統を紡いでいきます。天武天皇の志が絶えることなく継がれ、宣長から小林先生へ、そして私たちに真っ直ぐに届けられていることに、宣長の「貴し」という言葉が染み渡り、私の心は感謝の気持ちでいっぱいになりました。
小林先生は、私たちが古人に出会える道を大きく開いてくださっています。耳を澄ませて小林先生の声を聞き、「私たちは日本語を使わせてもらっている」と仰った池田塾頭の言葉に、一歩ずつ近づけることを願いながら、これからも「本居宣長」という作品に身交い続けたいと思います。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)四月六日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第二十八章 上 宣長の「学問の本意」
「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第二十八章に入り、四月にその前半を読みました。
昨年四月の第十九章から受講を始めて一年、よちよち歩きだった私の足も、小林先生の言葉のうちに入り、宣長の心の動きに触れる毎に、しっかりとした土の感触を感じて歩けるほどに変わってきたように思います。小林先生がいよいよ宣長の「古事記伝」と身交われる第二十八章、道の先に見える初めての景色に、私の心は早くも感動で一杯になりそうですが、向こうに立っていらっしゃる小林先生の目をしっかりと見つめて、小林先生の言葉のなかに生きている宣長の心を感じながら、大切に読んでいきたいと思います。
なぜたった三十五年で宣長は「古事記」を読めたのか。宣長に身交ふ小林先生の思いを、池田塾頭がご講義の冒頭でこのように私たちに投げかけられました。三十五年の歳月、一人きりで「古事記」のなかに入り、古代人たちの思いを汲んで「古事記伝」を完成させた宣長。小林先生は「古事記序」の註釈のうちに現れる「宣長の心の喜びと嘆きとの大きなうねり」に眼を向けました。註釈に記された宣長の言葉は、古人の言葉をただ眺めたり聞いたりして生まれたものではない。古人の心と一体になり、自らの心をぴったりと離さず重ね合わせて、古人の心の波立ちを直に身に受けて生まれたものだ。宣長のこの「気質」、これこそが「古事記」への道を開く鍵となったのだ。小林先生は、宣長の「気質」に真っ直ぐに眼を向け、傍観者になることなく古人と一体となる宣長の心こそが「学問の本意」への道を開いたのだということを見抜かれました。小林先生の姿は、「古事記」の本質を素早く掴んだ宣長の姿と重なり、私の心に強く訴えかけます。
古人と一体となるとはどういうことなのか。私は、生まれたばかりの我が子と、朝も晩もなくぴったりと離れずに過ごした日々をふと思い返しました。まだ言葉を話さない我が子と一体となり、あらゆる自分の感覚を集めて、我が子のことを知りたいと願いながら過ごした時間。日々暮らしているうちに、なぜ泣いているのかなぜ笑っているのか、僅かな表情の変化、声の色合いの違いも次第に分かるようになり、我が子と心が通い、この子も言葉を話そうとしているのだと気がついたときの感動と驚き。私は、宣長が古人と暮らした三十五年の月日を思いながら、我が子との日々を心に浮かべていました。
「彼は『古事記』のうちにいて、これと合体していた」という小林先生の一文は、「古事記」の言葉は古人の心そのものであり、この言葉、この心が、まさしくこの国の歴史なのだ、という宣長のはっきりとした思想を私たちに伝えています。宣長の「学問の本意」とは、そして、人間にとって言葉とは何か、小林先生が示される問いに、私なりの答えを、来た道を振り返って考え、一歩ずつ地面の感触を確かめながらまた歩いて、この先の道を時間をかけて進んでいきたいと思います。
令和五年五月刊行号新掲載
●冨部 久
令和五年(二〇二三)四月二十七日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
巻向の 檜原もいまだ 雲居ねば
小松が末ゆ 沫雪流る
(人麻呂歌集 巻第十 2314番歌)
この歌の妙味は前半の静と後半の動、しかも激しい動との対比であろう。即ち、前半では雲のない静かな空が描かれているが、そこから一転、視線を松の梢に移すと、白く細かい泡のような雪が風に吹かれて横なぐりに降っているというのである。人麻呂は「その順序を踏まない天候の急変に興を示して」歌ったと、伊藤博氏の『萬葉集釋注 五』(集英社)にあるが、この歌の名手は何とも雄大かつ繊細にその不思議な世界を描き出していると感じた。
実はこの歌の世界には既視感があった。
これは人麻呂が住んでいた巻向山の麓の檜原あたりのことを歌っているが、私も十代は比叡山の麓である一乗寺に住んでいて、空は晴れているのに、冬の冷たい空気がどこからともなく粉雪を運んでくるという景色を何度か見たことがあった。恐らくは比叡山の反対側あたりに雪雲があって、そこから粉雪は飛ばされて来るのであろう。そんな山の様子をじっと見ていると、やがて山頂が雲に覆われ、それが次第に麓まで降りて来る、すると本格的な雪が降り出すのだった。自分のかつての経験も相伴って、この歌は二重に心に沁みた。
また、新潮社で小林秀雄先生の本と新潮日本古典集成の「萬葉集」、その編集を同時に担当されていた池田雅延塾頭によると、「新潮萬葉」の校註者の一人であった伊藤博氏は小林先生から古典の読み方を教わったと言われていたそうである。その伊藤博氏が、この歌に絡めてこう言われている。
「すぐれた存在を讃美することは身命を縮めるような厳粛な行為であることを思わないわけにはゆかない。(中略)批評とはほめることであり、ほめることが創造につながるのである」
「萬葉」の世界と現在は直に繋がっていると、改めて今回の歌でも感じた。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)四月二十七日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
萩の花 咲けるを見れば 君に逢はず
まことも久に なりにけるかも
(作者未詳 巻第十 2280番歌)
巻向の 檜原もいまだ 雲居ねば
小松が末ゆ 沫雪流る
(人麻呂歌集 巻第十 2314番歌)
令和五年四月二十七日には「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜り有難うございました。
今回は、「萬葉集」全二十巻の収録歌四千五百首超のなかから秀歌百首を抜き出して味わう意味合についてもお話し下さいました。
質屋の主人は、小僧さんの目を育てるのに超一流品だけを毎日見せる、一切の講釈なしにひたすら見せる、こうして、一流品を見る目をしっかり養っていれば、二流品や偽物はすぐ見抜けるようになると言われています……。
これを聞いて、小林秀雄先生が「作家志願者への助言」(「小林秀雄全作品」第4集所収)のなかで、「読むことに関する助言」の第一に挙げられた、「つねに第一流作品のみを読め」に続く文が思い起こされました。小林先生はこう言われています。
「質屋の主人が小僧の鑑賞眼教育に、先ず一流品ばかりを毎日見せることから始めるのを法とする」、「いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。惟うに私達の眼の天性である。この天性を文学鑑賞上にも出来るだけ利用しないのは愚だと考える。こうして育まれる直観的な尺度こそ後年一番ものをいう。」
学生の頃から愛読してきたこの文章で言われていることは、萬葉歌の鑑賞についても当然同じことが言えるということで、それに思い至らなかった迂闊さに恥じ入りました。
「萬葉」秀歌百首とは、「萬葉集」に留まらず日本の和歌の歴史の中でも超一級品である、従って、萬葉秀歌百首で鑑賞力を養えば、他の歌も的確に鑑賞できると伺い、得心しました。
また、京都大学の教授で「萬葉学」の大家だった澤瀉久孝先生は、自分の選んだ萬葉歌百首でカルタをつくり、正月には学生たちをこの萬葉カルタで遊ばせるのを恒例にされていましたが、それに参加していた弟子の伊藤博先生は、後年、この澤瀉百首のカルタ拾いを通して萬葉秀歌を諳んじたことが自分自身の萬葉理解にどれほど有益であったか測り知れない、と言われていたとのことで、「こうして育まれる直観的な尺度こそ後年一番ものをいう」という、小林先生の言葉そのものと合点しました。
今回の鑑賞歌は、
2280番歌「萩の花 咲けるを見れば 君に逢はず まことも久に なりにけるかも」
2314番歌「巻向の 檜原もいまだ 雲居ねば 小松が末ゆ 沫雪流る」
いずれも一人で読んでいただけでは、他の歌と紛れて読み過ごしていたに違いなく、ご講義を通じ、伊藤博先生の釋注に導かれてではありますが、超一流品を前にした質屋の小僧の修行を体験する思いです。
2280番歌では「まことも久に云々」が確かに伊藤先生の言われるとおり「何とも言えずいい」と感じ、2314番歌では「小松が末ゆ 沫雪流る」が読むごとに魅力を増すように感じられます。
この2314番歌の調べについて伊藤先生は、『萬葉集釋注 五』(集英社)で「人麻呂声調の極致を示しているといってよい」、「表現の神秘をすら感じさせる」と激賞された後、このような名歌に接すると、「この世において、物をほめることのむつかしさを痛感せざるをえない。すぐれた存在を讃美することは身命を縮めるような厳粛な行為であることを思わないわけにはゆかない。比べて、対象を貶めて言うことなど、何と軽々しく安易な営みであることか。批評とはほめることであり、ほめることが人間の創造につながるのである」と言われます。
池田塾頭は新潮社に入社した二年目の春に「新潮日本古典集成」の「萬葉集」の係となって伊藤博先生と出会われ、その年の夏からは小林秀雄先生の本の係にもなったと話されて、伊藤先生は古典の読み方を小林先生に教わったと言われていた旨を紹介されました。
伊藤先生は、ほめることを「身命を縮めるような厳粛な行為である」と強い表現で語られていますが、ほめるとは安易な営みではなく、ほめる対象に「身交い」、真価をしっかりと感受してこそ成り立つ行為であり、そうであってこそ「ほめることが創造につながる」のだと思われました。
伊藤先生の「萬葉集」の釋文は、そのまま小林先生が「批評」と題された文章で言われている「批評とは人をほめる特殊の技術だ」という言葉についての第一級の釈文ともなっているのを覚え、その含意の深さをも池田塾頭は教えてくださいました。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)四月二十日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「年 齢」
(『小林秀雄全作品』第18集所収)
四月の「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、小林先生が四十八歳で書かれた作品「年齢」でした。書き出しは「私は、今まで自分の年齢という様なものを殆ど気にした事がない」という一文から始まります。私自身は若い頃から、今よりも上の歳になりたいと願ってばかりいたため、小林先生が年齢についてどのようにお考えになられたか大変興味深く感じ、この作品を読みました。
小林先生は、「論語」の一節から、「六十にして耳順う 」という言葉を取り上げます。ご講義では池田塾頭が、「耳順」についての仁斎、徂徠、吉川幸次郎氏それぞれの解釈をお話しくださり、それらの解釈を踏まえて、小林先生の洞察といえる文章を読んでくださいました。言葉の一つひとつを大切に読まれる池田塾頭の声は、小林先生の心に寄り添いながら様々な調子を帯びていき、孔子の言葉のうちに入り、己れを語る小林先生の姿が、池田塾頭に重なって見えてくるように感じられます。
批評家として「書き言葉」に向かい続けていらっしゃった小林先生が、この作品をターニングポイントとして、人間の「声」から生み出される「話し言葉」に心を向けられたこと、そして、「古事記」は日本古代の話し言葉がそのまま文字化されていると見て「古事記」を読み解き、「古事記伝」を著した本居宣長について書こうという思いを胸にこの年から翌年にかけての頃、折口信夫氏を訪ねられたのだと思うと話される池田塾頭のご講義を聴きながら、小林先生の心の躍動が伝わってくるようで、胸がじんと熱くなりました。私たち受講者は、それぞれの耳で、小林先生の文章と池田塾頭の声が生み出す調べを聞いています。この「交差点」の場で、受講者の皆さんがどのような思いを持たれたのかを知るのも、最近の楽しみの一つとなりました。
この作品で小林先生は、谷崎潤一郎の「細雪」に触れ、「月並みとか通俗とか言ってはいけないだろうが、美しいものには、何かしら分り切った大変当り前なものがある様で、それを知覚し自覚するには、どうも年齢の作用に俟つ他はないのではあるまいか」と仰っています。人間の感覚は磨かれ、年齢とともにまろやかになっていくこと、ものごと本来の姿を捉えるのにはその成熟した感覚が必要なこと、そしてそれは、年齢を重ねなければ、真の意味では分からないのだということを、この作品を読み、自分に重ね合わせて深く考えさせられました。早く歳を取りたいと闇雲に焦っていた若い自分にはおそらく掴めていなかったであろう「細雪」の美の姿。年齢を重ねたいま、谷崎潤一郎の名文はどのような姿に見えるのだろうか。五月の休みは、喧騒から離れて、久し振りに開く「細雪」に自分を映しながら、「年齢」について、もうしばらく考えを廻らせてみたいと思っています。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)四月二十日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「年 齢」
(『小林秀雄全作品』第18集所収)
「思想という言葉」
令和五年四月二十日には「年齢」「思想という言葉」のご講義を賜わり有難うございました。
「年 齢」
「年齢」では孔子の「耳順」という言葉に焦点を絞ってお話し下さいました。
孔子についての三人の大学者、仁斎、徂徠、吉川幸次郎の各人が「耳順」という言葉をどう理解していたかを示され、そのうえで小林先生は、「恐らく孔子が音楽家であった事に大いに関係がある言葉だろう」と、小林先生自身が読み取った意味合いを提示されます。池田塾頭はこの本文を読み上げられ、孔子と同じく非常に音楽が好きで感覚を修練された小林先生ご自身に重なるとして注目されました。それは、「すると、耳順とはこういう意味合いに受取れる」に始まる、二十五の読点からなる一文で一気に語られます。四月の講座の案内には全文が引用されていますが、後半で、小林先生は話し言葉の重要性に移っていかれます。先生は、批評家として、書くことによってこそ自分の伝えたいものが言えると、一貫して書き言葉を磨いてこられましたが、昭和二十五年に発表されたこの作品で、肉声に託した話し言葉が持つ、言葉本来の力に着目されます。それは「本居宣長」を書くと決意された時と軌を一にしていると池田塾頭は指摘されました。
そこからさらに、「耳順」が「本居宣長」の原点に、中心軸にあると敷衍され、小林先生が「耳順」という言葉に捉えた奥行の深さを示されました。
余談ですが、私塾レコダ l'ecodaの池田塾頭の「小林秀雄『本居宣長』を読む」の講座で「古事記伝」に取り掛かる本年度から、地元の神社の氏子総代を、人手払底のため引き受けることになり、「窃に奇しみ思」っています。今回のご講義の前日に、春の祭事を十数人で準備をして、湯立という神事に臨みました。式次第のなかで宮司の祝詞を聞き、幾度となく聞いてきた祝詞の奏上が、初めて肉声として伝わって来るのが実感されました。神社の神事という、折に触れて習慣のようになっている身近な経験にも、少しばかり想像力を働かせ、その発生へと思いを致すなら、意外と「古事記」への道に通じているのが感じられました。四月六日の「本居宣長」第二十八章のご講義で、宣長は「古事記」を文字で書かれる前の音声を写し取った話し言葉として読んだ、と拝聴した(今回も言及されましたが)からこその経験でした。
「思想という言葉」
「思想とは実生活の写し絵ではない、現実を超えようとする意志の力、新しい人生を模索して新しい人生を始めようとする意志の力である」というお話しから、小林先生の正宗白鳥とのいわゆる「思想と実生活論争」にも触れられました。
「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」という、心に響きながらも得心するまでに至っていなかった、小林先生のこの言葉の核心をつく註釈、そう捉えて良いのではないかと思いました。
また、小林先生が「本居宣長」を書かれた際、荻生徂徠の文章を諸橋轍次の『大漢和辞典』で引きながら一語一語読まれた並々ならぬ忍耐と苦労を聞かせて頂きました。文は人なりの読書を実践されてきた小林先生の長年の孤独な仕事の基底にある、作者に対する敬愛の念の大きさに、改めて目を開かれました。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)三月十六日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「蘇我馬子の墓」
(『小林秀雄全作品』第17集所収)
三月の「小林秀雄と人生を読む夕べ」は「蘇我馬子の墓」でした。この作品は、読み重ねるごとに、私のなかで、色合いが変化していくように思われ、池田塾頭のご講義を聴いて、その色合いはまた新たなものとなり、深く心に残る作品となりました。
武内宿禰は、大和朝廷に仕え、齢三百歳を越えた記紀伝承の政治家で、蘇我馬子の先祖と伝えられています。記紀に現れるその姿は、国家の枢機を握りながら、得体が知れず、気味の悪いものであり、大陸文明が、日本を飲み込む前夜の、波立つ海面の無気味さを思わせます。
蘇我一族の権力は、学問と宗教の渡来と密に結び合い、日本に外来思想の大きな波が押し寄せます。荒波を我が身に取り込み、日本の歩む道筋を見出そうとしたのは、「日本最初の思想家」聖徳太子でした。「思想の嵐」に身を投げ入れた彼の裡で、仏典は、精神の普遍性に関する明瞭な自覚となって燃え、彼はただひたすら正しく徹底的に考えようと努めましたが、その孤独はどれほどだったか。「彼の悲しみは、彼の思想の色だ」と小林先生は太子の想いに心を重ねます。
聖徳太子の伝説は、私たちの記憶のなかに確かに息づいています。そして、菟道稚郎子や日本武尊、武内宿禰の伝説もすべて、人々の心に脈々と受け継がれてきたものです。
「私達は、思い出という手仕事で、めいめい歴史を織っている」と小林先生は仰っています。私たちは、古代から語り継がれた物語に出会い、自分自身の強さや弱さを織り合わせて、歴史を紡いでいるのです。
強い精神は、それぞれの時代により、それぞれの国により、各自の盃を命の酒で一っぱいにしていたであろう。
小林先生のこの言葉は、歴史に息づく精神を生き生きと甦らせ、命の手触りや味わいを教えてくださっているように感じます。私というひとりの人間を育んできた、数々の物語、緑の山々、広がる平野、大小の古墳、古代から続くその景色のすべてを信じることが、歴史を信じるということなのだと、小林先生の言葉からも、池田塾頭のご講義からも、強く感じとることができました。
石舞台と呼ばれている馬子の墓。小林先生は、バスを求めて歩く帰りの田舎道で、美しい大和三山に出会います。
「万葉」の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分達の感覚や思想を調整したであろう。取り止めもない空想の危険を、僅かに抽象的論理によって、支えている私達現代人にとって、それは大きな教訓に思われる。
次々と押し寄せてくる外来思想の波に足元を掬われそうになっても、私たちには、強く頑丈な精神、古典という精神がある。堅牢な石の建造物の色合いを映し出しながら、この作品は、私に静かに語りかけます。悩み、躓く人生の折々で、この作品は私にとっての支えとなるだろうと思います。
●小島 由紀子
令和五年(二〇二三)一月二十六日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
かはづ鳴く 神なび川に 影見えて
今か咲くらむ 山吹の花
(厚見王 巻第八 1435番歌)
夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の
知らえぬ恋は 苦しきものぞ
(大伴坂上郎女 巻第八 1500番歌)
今回の一首目は、巻第八「春雑歌」の歌で、四月から五月にかけて、黄色の小さな花が枝一面に咲く「山吹の花」が詠み込まれている。
かはづ鳴く 神なび川に 影見えて 今か咲くらむ 山吹の花
――河鹿の鳴く神なび川に、姿を映して今ごろは咲いているであろうか、岸の山吹の花は。
「神なび川」については、新潮日本古典集成『萬葉集 二』の註釈に、「神なびの地を流れる川の意。飛鳥川のこととも龍田川のことともいう」とあるが、池田塾頭はこれについて詳しく語ってくださった。
「『神なび川』とは、ある一つの川を示す固有名詞ではありません。『神なび』とは『神霊がいますところ』という意味ですから、『神なび川』は水が澄み、厳かな気配をたたえた、自ずと心が清らかになるような川のことです。そのイメージとともに、『神なび川』という言葉の響きも味わってみてください」
声に出して読んでみると、「神なび川(かんなびがわ)」という音から、澄みやかで奥行きのある響きが感じられ、「かはづ鳴く 神なび川に 影見えて」の各句冒頭「か」の音も、より引き立つように聞こえてきた。そして、「今か咲くらむ」の疑問の係助詞「か」から、「今ごろは咲いているであろうか」と、思いを馳せている作者の横顔が浮かんできて、ここで初めて、実際には作者は山吹の花を見ていないのだ、という事実を認識した気がした。
伊藤博先生は、これについて、『萬葉集釋注 四』(集英社)で次のように書かれている。
「清流に山吹の黄色い花を配して、その景を想像した歌。…神なび川の春の時節以前に目にした山吹の様子を背景に据えているのであろう。作者の心の中では、古色と新色とが織り重なっているはずである」
池田塾頭は、この箇所をお読みになると、その情景を描き出していかれた。
「作者は、この時、山吹の花を目にしていません。けれど、かつて見たあの山吹の花が、時が巡り、今ごろまた咲いているだろうかと想像することで、過去と現在の両方の花を目の当たりにしています。過去にたしかに咲いていた花のイメージが、新たに咲き始めた花のイメージを視覚的に呼び覚まし、それぞれの黄色い花が作者の心の中で鮮やかに織り重なっているのです」
池田塾頭は、さらに、伊藤博先生が、初句の「かはづ鳴く」も実景ではないと示唆されていることを教えてくださった。
「伊藤先生は、初句の『かはづ鳴く』は夏の情景で、結句の『山吹の花』は春の情景なので、季節的にずれがあると指摘されています」
この解説を聞く前は、「かはづ」(青蛙)が「河鹿」と訳されていたので、あの秋の雄鹿に似た、竹笛の音のような蛙の声が、川辺に鳴り響く様子を想像していた。だが、たしかに「河鹿」は夏に繁殖期を迎えるので、春先にしきりに鳴くわけはない。
「つまり、伊藤先生は、『かはづ鳴く』は実際に起きていることではなく、清流を好む『かはづ』の声が辺りに鳴り響くほど、清らかな『神なび川』であることを印象づけるために、枕詞的に用いたのであろうと仰っているのです」
この池田塾頭のお話を聞いて、実際には「かはづの声」も「神なび川」も「山吹の花」もそこには無いのに、眼前に、澄み切った川面と、そこにたくさんの小さな黄色い花を映して咲く山吹を、鮮やかに描き出してくれる、この歌の力に驚いた。その黄色の色は、現実よりも仮想空間よりもリアルに輝くように感じられ、この歌の作者にたいへん興味が湧いた。
だが、作者の厚見王は、『続日本紀』によると、少納言、従五位上であったようだが、家系や経歴は未詳で、「萬葉集」にもこの歌を含めてたった三首しか残していないという。それでも、伊藤博先生はそのうちの一首を「萬葉百首」に撰ばれ、「印象が鮮明で、調子もなめらかなので、平安朝の歌人に愛誦され、本歌として多く採られた」と仰って、この歌を本歌とした平安朝の歌を四首も紹介されている。
今もかも 咲きにほふらむ 橘の 小島の崎の 山吹の花
(『古今集』春歌下、2 一二一)
逢坂の 関の清水に かげ見えて 今や引くらむ 望月の駒
(『拾遺集』秋、3 一七〇)
春ふかみ 神なび川に かげ見えて うつろひにけり 山吹の花
(『金葉集』春部、1 七八)
かはづ鳴く 神なび川に 咲く花の いはぬ色をも 人のとへかし
(『新勅撰集』恋歌一、11 六九一)
「いずれも厚見王の歌から一句または二句を引き、そのイメージを背景にして、新たな世界を描き出しています。これらの歌を読み、あらためて厚見王の歌に立ち返ると、歌の姿も歌の生気も際立っていて、溌剌とした存在感があることを実感します。後の時代の歌人たちも、この萬葉歌人の大先輩の歌に、どれほど強く心を動かす力があるかを実感し、驚いていたことでしょう」
池田塾頭のこのお話を聞き、ご講義後に調べてみると、この厚見王の歌は、平安時代の「新撰和歌集」(紀貫之撰)や「和漢朗詠集」(藤原公任撰)、鎌倉時代の「古来風体抄」(藤原俊成撰)や「新古今和歌集」(藤原定家ほか撰)にも収められているという。
「優れた歌は、作者の手を離れても、歌そのものの生気や活気が、後の人々の心に宿り、後世にもずっと生き続けていきます」
撰者の大歌人たちの名前を見て、池田塾頭のこのお言葉が蘇り、また一人深く頷くこととなった。
次の二首目は、一首目と同じく巻第八の夏の歌であったが、部立は「夏雑歌」から「夏相聞」へと移り、「姫百合」の花に思いを託した恋の歌であった。
夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ
――夏の野の草むらにひっそり咲いている姫百合のように、あの人に知ってもらえない恋は何とも苦しいものだ。
この歌の上三句を読んだ瞬間、かつて夏山を歩き、姫百合の花を接写レンズで撮った時のことが思い出された。植物図鑑で見るより、朱赤の花は濃くも澄みやかで、背丈も低く、花弁も小ぶりで、控えめな印象を受けた。
伊藤博先生は、この上三句について、次のように解説されている。
「上三句の清新な序詞によって輝く歌である。濃緑の夏の草むらに咲く一点朱色の可憐な姫百合は、片恋に沈む女そのものの姿をも象徴しているようだ」
これを受け、池田塾頭はまず「序詞」の技法について、「萬葉集」巻第十一の2802番歌と類似歌の二首を挙げて説明してくださった。(※下線部が「序詞」)
① 思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を
或る本の歌に曰く
② あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
②の歌は、今では柿本人麻呂の名歌として非常に有名だが、奈良時代の「萬葉集」においては、①も②も作者不明で、②は①の異伝として「或る本」に載っていたため書き添えられたという。だが、次第に②の歌の評価が高まり、人麻呂の作とされて、平安時代には「拾遺和歌集」に、鎌倉時代には藤原定家によって「百人一首」に撰ばれ、特に定家は夜長の独り寝の侘しさを詠んだこの歌をたいへん好んでいたという。
池田塾頭は、①と②の序詞を指摘され(下線部/それぞれ直後の「長き」「長々し」を導く)、②の歌が「序詞」の優れた代表例となった経緯を次のように語ってくださった。
「日本の古代歌謡には、まず目の前の景色や風物をしっかりと見て、具体的に提示し、それによって自分の心がどう動いたかを詠い上げていくという手法があります。萬葉人には、『山鳥の尾は長い』という共通認識があったので、『あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の』(山鳥の尾の、その垂れ下がった長い尾のように)と聞くと、『長々し夜を ひとりかも寝む』(何とも長たらしい夜なのに、私は独りのまま過すことになるのか)という、作者の思いに、なるほどたしかに独り寝の夜は、山鳥の尾のように長く辛いものだと共感したことでしょう。この序詞の着想の見事さ、独創性によって、この歌は人麻呂の作とされ有名になりました。枕詞は使い方に制約がありますが、序詞は、視覚や聴覚を働かせて、二句、三句と連ね、独自の美の世界を作り上げながら、自分の思いを伝えていくということが可能ですから、まさに歌人の腕の見せどころとなっています」
このお話を聞いて、「姫百合」の歌についての、「上三句は序。次の『知らえぬ』を起す。姫百合が夏草の深い茂みにおおわれて人に気づかれないので言う」という註釈(新潮日本古典集成「萬葉集 二」)と、伊藤博先生の「上三句の清新な序詞によって輝く歌である」というお言葉が、やっと腑に落ちてきたような気がした。そして、作者の大伴坂上郎女が「知らえぬ恋」に苦しみ、目を伏せて俯いているような姿が浮かんできた。
作者の大伴坂上郎女は、大伴旅人の異母妹で、「萬葉集」の女性歌人の中では、最も多い八十三首もの名歌を残し、伊藤博先生も「額田王と並ぶ万葉女流歌人」と讃えている。恋多き女性であったようで、最初は穂積皇子(天武天皇の第五皇子)と結婚し、その没後は藤原麻呂(藤原不比等の四男)と恋仲となり、後に異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となった。娘の坂上大嬢が大伴家持の妻となると、家持とも和歌を贈り合ったという。
だが、この「姫百合」の歌は、伊藤博先生も「いつ頃の誰に対する歌であるかはわからない」と仰り、弟子にあたる渡辺護氏の考察を引かれている。それによると、「知らえぬ恋」という表現には、「世間の人に知られない秘めた恋」という意味と、「相手に知られない“片恋”」という二つの意味があり、この歌ではその両方と解釈され、それによって歌の魅力も倍加しているという。
これについて、池田塾頭は次のように説明してくださった。
「女性はある男性に恋をしていますが、その思いを世間に知られないようにじっと心に秘める苦しさと、その男性に思いを知ってもらえない苦しさを抱えています。そんな自分を、夏の野の草むらで人知れずひっそりと咲く姫百合に託して詠んだ歌ですが、結句の『苦しきものぞ』にも注目してみましょう」
池田塾頭は、そう仰ると、この歌の第五句の訓みとしては「苦しきものぞ」のほかに「苦しきものを」もあります、これは萬葉仮名で「苦物曾」となっている写本に拠ったか、「苦物乎」となっている写本に拠ったかのちがいなのですが、「新潮萬葉」の先生方は「苦物曾」が「萬葉集」の原形に近いと見て「苦しきものぞ」と訓まれています、しかし契沖は「萬葉代匠記」で「苦物乎」を採って「クルシキモノヲ」と訓み、「乎」は別の写本では「曾」となっているという旨を小字で注記しています、と言われた。
この契沖の「苦しきものを」という訓みは、今ではほとんど知られていないが、池田塾頭はこの最後の一文字についてさらに迫っていかれた。
「最後が『ぞ』か『を』か、『ぞ』は一文を強く言いきるため文末に用いられる係助詞、『を』は文末にあって詠嘆の気持ちを表す間投助詞ですが、この最後のたった一文字で歌の印象が全く変わってくると思いませんか? 『苦しきものぞ』は、『とても苦しいものなの』と語気強く言いきってしまっていますから、こちらも『そうですか、それはお気の毒に…』と言うしかないような気持ちになってきます。ところが、『苦しきものを』とあると、『この恋心、苦しいの、逃れようとしても逃れられないの』という困窮の余韻が醸し出されているため、こちらも一緒になって恋の苦しさをかみしめる思いがします、だから私としては契沖の『苦しきものを』の方に惹かれています」
たしかに「苦しきものを」とあった方が、語感も消え入るような儚さが醸され、苦しさだけでなく、切なさ、哀しさ、やるせなさ、思わず湧いてくる相手への恨み、それでもやはり恋しくてならないといった気持ちも感じられてくる。
「皆さんも、今回のように萬葉仮名の表記が二種以上あり、それに伴って訓み方も二種以上ある場合は、自分の感性を自由に働かせて、萬葉歌人との交感を楽しんでみてください。時代は違っても、萬葉歌人と同じ人間として、自分だったら恋心をどう表そうかと思いを巡らせ、自分自身の心の波立ちを味わってみてください」
「萬葉歌人との交感」という池田塾頭のお声が耳の中に響き続けながらも、次のお言葉の時は、池田塾頭のお声に、小林先生と伊藤博先生のお声も重なっているように聞こえた。
「自分の読み方で読み、自分自身で人間はどうあるべきか、ということを見つけ、そのあり方に沿って生きようとする、それが古典を読む醍醐味です」
その大事と難しさを実感しながらも、たった三十一文字で人生の糧となることをさまざまに教えてくれる歌、それを四千五百首も集めた「萬葉集」、そしてその魅力と肝要を存分に教えてくださる池田塾頭のご講義に、まさに有り難いとはこのことと、あらためて感じるばかりであった。
令和五年四月刊行号新掲載
●大江 公樹
令和五年(二〇二三)四月六日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第二十八章(上)/ 宣長の「学問の本意」
(『小林秀雄全作品』第27集)
池田塾頭が「宣長が『序』の漢文体のこの部分に聞き別けたのは、安万侶の肉声だったのだ」といふ箇所を読まれた時、引用されてゐた「古事記」の「序」から本当に太安万侶の肉聲が聞こえてきたやうでした。
「『記の起り』を語る安万侶にとって、阿礼の存命は貴重な事実であり、天武天皇が、阿礼の才能を認められた時、阿礼が未だ若かったとは、まことに幸運な事であった、と考えざるを得なかったであろう。でなければ、どうして『年是れ廿八』などと特に断っただろう」といふ、部分を読みますと、「古事記」といふ書が現代に残つてゐること自体が、まさに字義通りの意味に於いて「有難い」ことだと思はされます。
今日の講義で抱いた感動を胸に、小林先生の「本居宣長」、本居宣長の著作、そして「古事記」を読んで参りたいと思ひます。
●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)三月二十三日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
我が子羽ぐくめ 天の鶴群
(遣唐使の母 巻第九 1791番歌)
令和五年三月二十三日には「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜わり有難うございました。
1791番歌「旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群」
「天平五年癸酉に、遣唐使の船難波を発ちて海に入る時に、親母の子に贈る歌一首 并せて短歌」と題詞のある、長反歌の反歌が今回の鑑賞歌です。
伊藤博先生は「萬葉集釋注」で、「当時、渡唐の船はしばしば難破した。渡唐は生命の保証を期しがたい危険な旅であった。この長反歌には、愛児の無事をひたすら願う母心が切実に詠まれており、けだし、遣唐使を送る古今の歌の中での秀逸である」と言われ、前の長歌(1790番歌)について、独り子の危険な遠い旅を「母親としてまた女としてなしうる神祭りに精魂を傾けることで子の幸を祈る」と釋注されています。
遣唐使一行は約二年後に帰朝しますが、「帰り着いた人の中に、この母親の子が存在しなかったことを想像するのは惨酷に過ぎる」と結ばれた釋文から、無事に帰って来れたのだろうと安易にこの歌を読んでいました。ご講義ではそうではないという読みを示され、厳しい現実を突きつけられたように感じ、また、萬葉歌に臨む姿勢をも教わったように思いました。
この過酷な視点に立ってこそ、伊藤先生が釋注に、「子は母親にとって永遠に胎児であり、分化を許さないその心情は解説の言葉を寄せつけない」という、子の誕生という命の起源に立ち返るような言葉で、母子一体の強い表現とされた必然を思いました。
「愛児の無事をひたすら願う母心」が、「神祭りに精魂を傾ける」行為と詠歌とに駆り立てます。歌の形にととのえ、歌い上げることによって、母は不安に耐え、心を静め得たでしょうか。母の子を想うという普遍的な情愛が、この歌によって個性的な唯一無二の姿として刻印され、現代まで鮮明に伝わってくる、萬葉歌の力を思いました。
ちなみに、この歌の「我」の読みは、母親の心情を想うに、「わ」ではなく断然「あ」でなくてはかなわないとの気持ちに導かれます。
講座に先立って読んだだけでは到底感じ取れなかった、この歌の持つ重みと意義を教えていただき、有難うございました。
●大江 公樹
令和五年(二〇二三)三月二十三日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
我が子羽ぐくめ 天の鶴群
(遣唐使の母 巻第九 1791番歌)
ひさかたの 天の香具山 この夕
霞たなびく 春立つらしも
(人麻呂歌集 巻第十 1812番歌)
「旅人の 宿りせむ野に」の歌については、「解説といふもののむなしさを感じる」と述べられ、息子は結局帰ることがなかつたと想像する伊藤博先生のお話を伺ひ、歌を愛するといふのはかういふことかと思はされました。
「ひさかたの 天の香具山」に始まる七首については、国見の場に女性が多くあり、その上での歌だつたのではないかといふお話を伺ひましたが、講座を聴く今がまさに歌の季節と重なることもあり、ほのぼのとした愉し気な春の国見の様子を目の前に見てゐる気分になりました。
●鬼原祐也
令和五年(二〇二三)三月十六日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「わかるということ」
「肉声を磨く」
人の話を聞くということは、その人の人生劇の役者としての芝居を身をもって吸収することだと思う。
手に入れた芝居は、言い換えるなら食材のようなもので、そこからどう下ごしらえして、切り揃え、調理して、口に入れるか、それは各々に委ねられているが、基となる食材は新鮮なほどよい。そう考えると、池田雅延塾頭は鮮度抜群の食材と言える。
三月十六日の「小林秀雄と人生を読む夕べ」の第二部「小林秀雄 生き方の徵」では「わかるということ」と題して池田塾頭が話された。
この回は特に熱が込められていたように感じた。私自身その熱に打ちのめされ、魂が震え、涙が溢れた。
それでも池田塾頭は言葉の槌で私の心を打ち続ける。まるで鍛冶屋が鉄を熱して包丁を叩き形成するように。
私は池田塾頭ほど、言葉を正確に捉え、微妙に使い分け、それを最終的に人の心に届くように創意工夫して肉声に乗せる人に会ったことがない。
池田塾頭の肉声には何度も苦労して叩き直し、考え練られた、下ごしらえの美しい手仕事の跡がくっきりと残されている。そのひだや、でこぼこが私の心に触れ、まるでヤスリのように作用する。その感触は痛気持ちいいというか、少しヒリヒリする時もあるが、池田塾頭独自の感触なのだ。
そう思ってみると、池田塾頭の講義時間は、人と話をする時には常に自分の心を開いておかなければならないな、と思い改める時間とも言える。
講義をする人によってはもっと聞く人に気を使ってヤスリの目を細かくし、槌も木製やゴム製にするかもしれない。打つ力ももっとやさしいかもしれない。しかし池田塾頭は自らの道具はどのくらいの力で使うのがよいか、よくよく熟知されているのである。
今回の生き方の徵では、小林先生が「文科の学生諸君へ」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第9集所収)の中で、学生時代に志賀直哉氏から「君等の年頃では、いくら自惚れても自惚れ過ぎるという事はない。自惚れ過ぎていて丁度いいのだ。やがてそうはいかない時は必ず来るのだから」と言われ、これを聞いて小林先生は、「以来僕は自惚れる事にかけては人後に落ちまいと心掛けた。何が何やら解らなくなっても、この位物事が解らなくなるのは大した事だと自惚れる事にしていた」と書かれている、と言われたあと、池田塾頭は次のように話された。「私も後期高齢者になったがまだまだ自惚れる。まだ自惚れられる。まだまだ自惚れ足りない」。その言葉はまるで寺の境内の鐘を鳴らしたように、ゴーンゴーンと鳴り響き、私の心はまるでたくさんの粒子の集合体のように感じられ、その一粒一粒が鐘の音に共鳴し静かに熱を帯びて来るのを感じた。
するとしだいにこみ上がってくる感動が涙とともにあふれてきた。
私の理性は、これはまずいと思ったが止めることはできなかった。まさかそこで、池田塾頭が寺の鐘を持ち出してくるとは思いもよらなかった。しかし塾頭はこの鐘を、あのレコダの小さな教室に用意されていたのだ。自らの磨き上げられた肉声と言葉の姿を借りて。
ここまで、筆が走る感動のままに書き連ねてきたが、池田塾頭は毎回心を開いてお話され、その準備に創意工夫をこらされている。特にその肉声の力、話すリズムに独自の魅力があり、それが回を重ねるごとに熟成され、それに加え極めて稀有なことに、回を重ねるごとに鮮度は増しているように感じる。
言うならば私たちは、池田塾頭が小林先生の本文を肉声に乗せる時、言葉と言葉の間、文章と文章の間に空気を入れてほぐされた小林先生の本文を聴くことになるのである。
私はその、振り仮名や解説や言い換えが行われながら前に進み独自のリズムを奏でる池田塾頭の読みから生じるほぐされた空気の中に、自分の心を入れる余白ができるから魅力を感じる。
つまり小林先生の本文を通して小林先生と池田塾頭と私が一体となれる感覚がとても魅力的なのだ。
私もこれから様々な人に出会うだろうが、日々鮮度のよい心持ちで人と接し、自分の肉声を磨く努力をしつづけることが大切だなと思う。
●千頭敏史
令和五年(二〇二三)三月十六日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「蘇我馬子の墓」
(『小林秀雄全作品』第17集所収)
令和五年三月十六日には「蘇我馬子の墓」のご講義を賜わり、有難うございました。
「蘇我馬子の墓」は「記紀」の叙述に始まり「日本書紀」からの引用文もあって、敷居の高い作品でしたが、この作品を読む指針を与えてくださいました。
講座の案内文の通り、まず最後の段落に目を留めるよう勧められました。小林先生は石舞台を訪れて「記紀」の世界に想像を巡らせ、その帰り、大和三山を目にして、「萬葉」の歌人等がこの山の美しい姿によって「自分達の感覚や思想を調整したであろう」と、思いを馳せられます。池田塾頭の挙げられた、石川啄木の歌「ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」によって、ふるさとの山が精神の拠り所として、古代から連綿と続いているのが、身近に感じられました。
小林先生が歴史書を読む、その読み方も示されました。「蘇我馬子の墓」では、「日本書紀」の原文を味読して、書いた人の心の波立ちを感じ取るべく、想像力を働かせて歴史に推参する。この歴史書の読みが「蘇我馬子の墓」で実践されているとお話し下さいました。
「百済から、学問と宗教とが渡来した時」、日本人の動揺は先ず政治や経済の面に引き起され、次いで、外来思想を我がものにしようとする「思想の嵐」が到来します。それが聖徳太子の姿であり、太子に宿った思想のドラマこそが、「蘇我馬子の墓」のメインテーマであると指摘されました。
小林先生は、太子の「経疏」を読んで「あんな未開な時代の一体何処に、この様に高度な思想をはめ込んだらいいのか」と、「異様な感に襲われ」ます。そして太子の裡で、「仏典は、精神の普遍性に関する明瞭な自覚となって燃えた」、「日本最初の思想家」を読み取られるのです。
武内宿禰から馬子、そして聖徳太子の「思想の嵐」へと思索を進めた小林先生の想念の先には、萬葉歌人も視野に入っていたでしょう。大和三山を目にした光景は実景であるとともに、小林先生が萬葉歌人を出迎えた姿でもあったのではないでしょうか。
●大江 公樹
令和五年(二〇二三)三月十六日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「蘇我馬子の墓」
(『小林秀雄全作品』第17集所収)
「わかるということ」
「蘇我馬子の墓」は、武内宿禰をめぐる歴史の梗概から、聖徳太子に対する小林先生の見方、さらには歴史とは何かといふところまで展開して行きながら、最後の一段落で墓からの帰り道の小林秀雄へと戻つてきます。古代から現在といふ時間、自分の座る椅子から明日香村といふ地理的空間、さらには観念と現実といふ思想的空間を行き来させられる壮大な作品でした。
最近、小林先生の文章中にある古典の引用について、難解で註を見たいと思つても、あへて読まないやうにしてをります。註を読む方が解釈に間違ひは無いかも知れませんが、自分のやうな怠惰な人間の場合、どういふ意味かと考へることをしなくなると思つたからです。そのため、池田先生が、小林先生の「古典をめぐりて」(折口信夫氏との対談)から引かれた、「古典というものは理解するのに苦労する処に面白味がある」といふお話は、大いに勇気づけられるところがありました。
ご講義後半で、「わかることには無数の階段がある」と仰つてゐたことも、古典の話と繋がり、学びの姿勢を新たにさせられました。
次回もどうぞよろしくお願ひ致します。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)三月二日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第二十七章(下)/ 紀貫之、和文を創る
(「小林秀雄全作品」第27集)
三月の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第二十七章後半を読みました。池田塾頭のご案内文には、「紀貫之による和文の創出という日本文化の大転換劇を、小林先生の和文によって体感します」とあり、とても楽しみに三月のご講義に臨みました。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(仮名序) と、貫之は言ったが、歌の種になる心とは、物のあわれを知るという働きでなければならない、と宣長は考えた。そして、彼は、「物のあはれ」という言葉を、「土佐日記」の中から拾い上げたのも、先ず確かな事である。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.304~305)
宣長は、「物のあはれ」という言葉を「土佐日記」から取り上げ、その起点を「仮名序」に求めました。「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と記した貫之は、どのように日本語に向き合い、はじめての和文日記である「土佐日記」を書き上げたのか。私たちが当たり前に使っている、日本語の文字による文体は、貫之によって生み出されたものだと、小林先生の文章を読み、あらためてその創出のドラマに驚き、感動いたしました。
貫之は「古今集」の勅撰という機会を得て、「やまと歌」の本質や価値や歴史を説く、漢文で書かれた序文「真名序」を、日本語に翻訳した和風の文章に作り上げました。時勢を察知し、好機を捉えて事に挑んだ貫之。「仮名序」は、「鋭敏に時宜を計った、大胆な試みである」という小林先生の文章に、和文の誕生という、時勢の本質をいち早く掴んだ貫之の資質そのものを感じ取ることができました。小林先生は貫之の資質を、「歌人のものというより、むしろ批評家のものだったのではあるまいか」と評されています。
貫之は、才学有って、善く和歌を作るという人であったが、彼のような微官には、才学は出世の道を開く代りに、言霊の営みに関する批評的意識を研いだであろう。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.307)
貫之の置かれた境遇と彼の才学は、「批評家」の資質を磨いていきます。「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という貫之の言葉は、「やまと歌」に息づく「言霊」の鼓動と、次々と生まれ出る「言の葉」に対する驚きと感慨が込められて、その奥底には、日本人の心の原点があるのだ、と語りかけてくるように感じました。「仮名序」からおよそ三十年、時勢は、平仮名の誕生から普及へ、日本の文化が女性たちの間で急速に歩みを進めていきます。
女手といわれているくらいで、国字は女性の間に発生し、女性に常用されていたのだから、国文が女性の手で完成したのも当然な事であった。「土佐日記」の作者には、はっきりした予感があったと見ていいのではあるまいか。「女もしてみむとてするなり」という言葉には、この鋭敏な批評家の切実な感じが籠められていただろう。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.308)
「はっきりした予感」が動力となったかのごとく、はじめての和文日記である「土佐日記」が貫之の手で書き上げられました。「言霊」が環境に応じて己れを掴み直したように、貫之も、漢文の日本語への翻訳という困難な仕事に全身をぶつけ、自国語と懸命に向き合い、己れを掴み直したのではないだろうか…。小林先生の文章から、貫之の心の奮闘や情熱までもが見えてくるように思われます。「和歌」では現すことのできない「心余る」その心のうちを、和文で表現しようとした貫之。「やまと歌」に息づく「言霊」の営みに心を重ね、和文を創出した貫之の、鋭い直感と切実な思い、「人生いかに生きるべきか」を、この第二十七章後半から感じ取ることができました。
いくつもの大きなテーマが据えられた第二十七章をなんとか読み進めることができ、ほっとしています。池田塾頭の貴重なご講義に心から感謝をいたします。
●大江 公樹
令和五年(二〇二三)三月二日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第二十七章(下)/紀貫之、和文を創る
(『小林秀雄全作品』第27集)
和文発生のドラマが描かれた第二十七章でしたが、「言葉が、己れに還り、己れを知る動き」といふ一説にも見られる通り、言葉があたかも生命を有してゐるかのやうに書かれてゐることが印象的でした。『本居宣長』に現れる言霊の力を感じながら、引き続き読み進めて参りたく存じます。
●壇 陽一
令和五年(二〇二三)二月十六日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「信じるという言葉」
『身交ふ』や『好・信・楽』に寄せられる皆さまの文章は、御自身の感じたこと、考えたことをかくも上手に文章に表現できるものだといつも感心させられています。この「交差点」に投稿することは私などには遠く及ばないこととためらいながらも、僭越ですが少し感じたことを書かせていただこうと思います。
私が小林秀雄先生の作品を初めて目にしましたのは入試問題の出題文となった「無常という事」や「考えるヒント」等だったと記憶しています。その数十年後、新潮文庫「モオツァルト・無常という事」を手に取りましたが、中途で読むことを止めてしまいました。
そして数年後、新潮CD小林秀雄講演第二巻「信ずることと考えること」に出会ったのです。手に取った理由は全く記憶にございません。直感だったかもしれません。聞き始めるやいなやみるみるうちに心が満たされ、潤っていきました。講演の中で小林先生が「魂があるなんて解りきった常識ですよ」と言われた時には雷が落ちました。「霊魂は不滅か」「輪廻転生するのか」「人はなぜ生まれてくるのか」「神は存在するのか」……長年の疑問を解く手がかりがここにある、との思いから小林秀雄先生に学びたいと思い始めました。
その後、web雑誌『好・信・楽』で吉田宏さんが池田雅延塾頭を講師とする「小林秀雄に学ぶ塾」のサテライト塾、広島塾を運営されているのを知り、令和二年秋より「小林秀雄に学ぶ塾」のすべてのオンライン講義にて学ばせていただています。
さて、二月十六日の「小林秀雄と人生を読む夕べ」の第二部「生き方の徴」は「信じるという言葉」でした。
私が小林秀雄先生に学びたい動機に「見えも触れもしない存在(魂、霊魂、お化け)を解く手がかりを求めたい」ということがありました。しかし、それは何か証拠がなければその存在を信じることができないという疑念から発していたのですが、小林先生が言われる「信じること」の本意を池田塾頭から伝えられたとき、さらに「生きる」ことに直結していくことへと理解が深まっていきました。池田塾頭は次のようにお話されました。
「あらゆる信じるという行為は、人間が生きていく上で一番大事な仕事をするための内から湧きおこってくる智慧によるものです。この信じるという智慧を授かることによって、どう生きていったらよいかを思い描くことができるのです」
受講後間もない日のことでした。私は知人から「現在、とても辛い状況にあり、将来の不安や病気のことで眠れなかったり、途方に暮れたりする日もある」と聞かされました。その方は困難な重圧に押しつぶされそうになっても、それを天が与えた試練と捉え、乗り越えていこうと決心されていました。また、見えも触れもしない存在を信じ、生きていこうとされていて、その姿に心打たれました。
私はそのころ小林先生とも御縁のある福田恆存氏の著作「私の幸福論」を読んでいて、文中の「自分や人間を超えるより大いなるものを信じればこそ、どんな不幸のうちにあっても、なお幸福でありうるでしょうし、また不幸の原因とも戦う力も出てくるでしょう」の一文が心に刺さり、知人にこの一文をさっそく伝えることにしました。
今回の池田塾頭の「信じるという言葉」という講義を聴いて思いを巡らせていなければ、この一文を知人には送らなかったかもしれません。
自分の思いを表現することが苦手な私ですが、これからの自分の「標」にするつもりで投稿させていただきました。今後も「見えも触れもしない存在を信じること」、「幸福」についてさらに自問自答をつづけて参りたいと思います。ありがとうございました。
●金森 いず美
令和五年(二〇二三)二月二日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第二十七章(上)/心余りて言葉足らず
(『小林秀雄全作品』第27集)
「小林秀雄『本居宣長』を読む」のご講義は、第二十七章に入り、二月にその前半を読みました。私たちが身を預けている日本語という母国語の発展の道筋を、宣長がどのように捉えたのか、紀貫之が「古今集」の「仮名序」に記した「心余りて、言葉足らず」という言葉を取り上げて、小林先生の文章は、深く大きく広がる言語の伝統の内側に入っていきます。
「言霊のさきはふ国」や「言霊のたすくる国」と詠まれているように、萬葉歌人は、「鋭敏な愛着、深い信頼の情」を持って、母国の言葉に心を託してきました。ところが、平安遷都以降、朝廷が推し進めた唐風模倣の政策により、才学の中心は、和歌から漢詩へと移ります。和歌は才学の表舞台からはじき出され、生活という舞台裏に身を置くことになります。
生活のただ中で、環境と折り合いをつけて己れの姿を整えていく「言霊」の不思議な営み。宣長は、この営みが和歌史を一貫する流れを形成していると直感しました。「逆境にあって、はじめて自己を知る」という小林先生の言葉は、もし順境にあったならば、日本語の目覚めと発展はなかったかもしれない、ということをも想像させます。日本語が、大陸文化に押し潰されて衰退することなく、発展という道に進んだのは、人々が共有する「言霊」が、自らの衝動を持ち、才に対する生きる知慧を発揮し、環境を乗り越えて、新たなる形を得たからこそなのだと、感じました。
盛時から百年以上の時を経て、和歌は、勅撰和歌集として、再び表舞台に引き出されます。「古今集」の編者である貫之は、六歌仙である業平の歌「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」をあげ、「在原業平は、その心余りて、言葉足らず、しぼめる花の色なくて、匂ひ残れるが如し」(仮名序) と、歌に反省や批評が込められる様を「心余る」と評しました。「言霊」の鼓動は歌の奥底で力強く鳴り、歌は「心余る」姿となって、表舞台に現れます。宣長は、逆境を乗り越えていく「言霊」の営みを辿り、「古今集」でその発展した姿を捉えました。小林先生はこの「心余りて」という言葉の広がりの向こうにさらに進んでいきます。
この「月やあらぬ」の歌は、やはり、「古今」で読むより「伊勢」で読んだ方がいいように思われる。なるほど詞書は附いているが、歌集の中に入れられると、歌は、いかにも「言葉足らず」という姿に見えるのだが、「伊勢」のうちで同じ歌に出会うと、そうは感じないのが面白い。「心余りて」物語る、その物語の姿を追った上で、歌に出会うが為であろうか。この微妙な歌物語の手法が、「源氏」で、大きく完成するのである。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.304)
小林先生の文章が私にこう語りかけます。私たちのうちに生きる日本語の長い伝統は、「言霊」の営みの積み重ねが、網の目のように繋がったものだと。そしてそれは、海のようにどこまでも深く広く、私たちは安心してその広がりに身を預け、考え、お互いに言葉を交わし、物語り、心を繋いでいるのだと。私はこの章を読みながら、以前に池田塾頭がお話してくださった、「私たちは日本語という母国語を使わせてもらっている」という言葉を繰り返し思い出し、あらためて自分の身に重ねて、私たちの母国語の奥底に流れる鼓動に耳を澄ませました。
●小島 由紀子
令和四年(二〇二二)十二月二十二日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の
川音高しも あらしかも疾き
(人麻呂歌集 巻第七 1101番歌)
石走る 垂水の上の さわらびの
萌え出づる春に なりにけるかも
(志貴皇子 巻第八 1418番歌)
今回の一首目は、前回に引き続き、巻第七の柿本人麻呂の歌で、池田塾頭はまず題詞について、再度ご説明してくださった。
「巻七の雑歌では、題詞は『天』『地』『人』に分類され、さらに『天』は天、月、雲、雨に、『地』は山、岡、川、露、花、葉、こけ、草、鳥に、『人』は故郷、井、倭琴に分けられています。萬葉人に身近な自然や事物を、『萬葉集』の編者がどのように見据えて企画を立て、配列していったかを意識して味わっていきましょう。今回は『川を詠む』という題詞の歌です」
池田塾頭はそう仰ると、伊藤博先生が「萬葉百首」にお撰びになった1101番歌と、直前にある1100番歌を読まれた。
巻向の 穴師の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む (1100番歌)
――巻向の穴師の川を、流れる水が絶えないように繰り返し繰り返し、何度も来て眺めよう。
ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも あらしかも疾き (1101番歌)
――夜になると、巻向川の川音がひときわ高く聞える。山の嵐が激しく吹き下ろしているのか。
いずれも前回の二首(題詞「雲を詠む」1087、1088番歌)と同じく、奈良の巻向山沿いを流れる「穴師川」(巻向川)を詠んでいる。
1100番歌は、「新潮日本古典集成」には「穴師の川辺への愛着を、旅の歌の国讃め形式に託して詠んだ」とあり、伊藤博先生も「巻向讃歌である」と言われている。人麻呂がこの近辺をよく訪れ、時に足を止めて穴師の川の流れを見つめる姿が浮かんでくる。
「今回の歌も表面的にとらえると、川の様子を詠んだ平俗な歌と思われるかもしれませんが、伊藤博先生のお言葉を聞いて、ご自身の聴覚を働かせて味わってみてください」
池田塾頭はそう仰ると、「萬葉集釋注 四」(集英社)の1101番歌についての解説を読まれた。
「聴覚によって川の流れの激しさをとらえた歌。聴覚に訴える部分を第四句で『川音高しも』と切り、その原因に対する推量を小きざみに『あらしかも疾き』と添えたところが魅力。急ぐようなその結びは、嵐の鋭さに対応しているように感じられる。もとより計算してのことではなかろうが、二音節『疾き』で押さえてそれが盤石の坐りを見せている手腕には驚かざるを得ない」
池田塾頭は読み終えると、「歌の最後を二音節の『疾き』で押さえて、ぱっと切ったことで、川音がより大きく耳に達するように聴こえてきませんか。伊藤博先生のように、『萬葉集』の歌は、そこに鳴っている音を耳で聴き取るという意識で読んでいきましょう」と仰った。
このお言葉を聞き、自分はこの歌を抑揚のない平坦な流れで読んでいたことに気付いた。そっと声に出し、まず「ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の」を語尾を伸ばして徐々に音を上げていくと、暗闇の山の中で足がすくむような心地がした。「川音高しも」を一語ずつ駆け上るように読み、「あらしかも 疾き」と強く言い切ると、激しい川音が暗闇の奥から響いてくるような気がした。
「伊藤博先生はこの歌を、『人麻呂集歌』および『萬葉集』中の『傑作の一つ』と仰っています。このような言い方は主観であるとして、現代の学会においては批判されます。今や註釈や解説は客観的にしか述べられず、無味乾燥でカサカサとしたつまらないものになっています。伊藤先生は学会のタブーを犯してまで、主観的な感想を語られました。そこには血が通い、体温が感じられ、歌人と出会い、握手をしたという確かな実感があります。『新潮日本古典集成』の編集会議や講演会では、『萬葉集』の歌を朗詠され、時に皆で合唱するように読んで、身をもって味わうことを大切にされていました」
池田塾頭はそう仰ると、今回の題詞「川を詠む」の十六首(1100〜1115番歌)をすべて朗詠してくださった。次第に、そのお声には、萬葉人の声、伊藤博先生の声も重なっているように聞こえてきた。
人麻呂の穴師川の二首の後は、御笠山を流れる細谷川(能登川)、吉野川、泊瀬川、檜隈川、布留川、率川、結八川など、奈良の各地の川を詠み込んだ歌が続き、川音のさやけさや水の清らかさ、流れの速さ、その川を訪れた喜びや、川で出会う男女の恋心など、さまざまな思いが溢れ出てくる。
「同じ題詞の一連の歌を声に出して読むと、どういう世界が立ち上がってくるか、お分かりいただけたでしょうか。萬葉人の心の昂り、躍動が強く伝わってきたのではないでしょうか。これらの歌は、宴の席や祭りの場で、川が題詠となった時に披露され、その後、『萬葉集』の編者が、巻第七で題詞ごとに分類するという企画を立てた時、選び抜かれて配列されたとも考えられます。この十六首の冒頭に、人麻呂という大歌人の歌を二首置いたことからも、編者の意気込みが強く感じられます」
池田塾頭は、歌の作者となり編者となって、萬葉の自然が描かれた、巻第七という長編連作の魅力を語っていかれた。そして、再び作者となって、こう仰った。
「歌を披露する時は、川に寄せる思いを作曲するように朗誦したことでしょう。萬葉人は、歌を通じて、人間に備わっている、音楽を聴くことで得られる安らぎを分かち合い、交換し合い、生活の潤いとしていたことでしょう」
萬葉人の心の中に響いていた歌の音が、時を超え、現在にまた鳴り響き出したような余韻が続く中、池田塾頭は、「今日の二首目から、巻第八に入ります」と仰って、その新たな編纂法についてお話しくださった。
「巻第八は、春夏秋冬の四季に分類され、それぞれ雑歌と相聞に分かれています。この新しいスタイルの部立が、後世の『古今和歌集』をはじめ、和歌の重要な分類法となったので、まさに画期的な試みと言えます。その巻頭『春雑歌』のトップを飾るのが、今回の志貴皇子の歌です」
石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
池田塾頭は春の到来を喜ぶ歌として有名なこの歌を読み上げられ、伊藤博先生がなぜ「萬葉百首」に撰ばれたかを、「萬葉集釋注 四」の解説とともに詳しく話してくださった。
まず伊藤博先生は、「石走る 垂水の上の さわらびの」の三つの「の」について、次のように言及される。
「助詞『の』を上三句に立てつづけに畳みこんで、『さわらびの萌え出づる春になりにけるかも』と一気に歌い上げた明るく力強い調べが春の躍動そのものに調和しており、韻律豊かな気品の高い歌である」
これについて池田塾頭は、「私たちは日本語という言葉とその音を授かり、子供の頃から音の響きを記憶に刻んでいます。たった一語の助詞の『の』にも敏感で、それが連なる音を聞いただけで、そのあり方や情景を直観できるでしょう。『石走る 垂水の上の さわらびの』と聞くと、自分の体内にある、日本語の音楽性を感知するツボが自然と反応して、その緊密さから自然の躍動感というものを、食べ物の味を味わうように、耳で味わうことができるのです」と仰った。そして、志貴皇子が見た情景を伊藤先生の「釋注」に拠って次々と描き出されていった。
「枕詞の『石走る』は、普通は語調を整えるだけで意味を持たないのですが、この歌では、目の前に見えている実景の『垂水』を修飾して、『岩にぶつかってしぶきをあげる』という意味になっています。また、『走る』とは、普通は平地を横に移動する運動を表しますが、志貴皇子は、水が下に流れ落ちる運動を『走る』としてとらえています。つまり『石走る 垂水の上』とは、川の水が勢いよく流れ落ちる滝壺の周辺のことで、地面とほぼ水平にある位置にちょうど芽ぶいたばかりの『さわらび』が生えていたというわけです」
さらに、池田塾頭は、その小さな「さわらび」の姿を、これもやはり伊藤先生の「釋注」に拠って接写レンズで迫るように映し出していかれた。
「『さ』という接頭語がついた『さわらび』という言葉が『萬葉集』に登場するのは、この歌のみです。『さ』を一言添えると、『狭衣』『小枝』『小夜』といったように、何かしら心惹かれるものが感じられますが、『さわらび』の『さ』は、生き生きと萌え出したばかりという強い生命力や、目に見えない力が十分に発揮されているという充足感を感じさせます。志貴皇子は萬葉人に愛用された『わらび』に『さ』を付けて、新しい歌語を生み出したのです。また、『なりにけるかも』は、今まさに『さわらび』が地上に現れ、新たな生命を得た若者の姿を我々の目の前に見せているという力強さを感じさせます」
池田塾頭のこのお言葉を聞いて、実際に地面に生えるわらびを見たことはないものの、眼前に、小さく丸まった緑色の穂先や、細やかな産毛が浮かんできて、思わず手を伸ばして摘んでみたくなった。
そして、池田塾頭は、結句について、「『なりにけるかも』で結ぶ歌は、集中、このほかに六首ある、一様に一気呵成の流れるような調べが感動を誘う。その中で、志貴皇子の歌は最も古いと見なされ、一首が詠まれた折の鮮度が偲ばれる」という、伊藤先生の言葉を引かれ、さらに詳しく説明してくださった。
「この『なりにけるかも』という言葉は、結句に据えると格好がつくため次第にお手軽に使われ、手垢の付いた言い回しとなってかえって感動を呼ばなくなるとさえ言われるようになりました。ですが、志貴皇子は『石走る 垂水の上の さわらび』を見て春の到来を感じ、その思いの深さから自分の心に生まれ出た『なりにけるかも』という言葉をこれは歌語として使えると直感し、『萬葉集』で最初に詠み込んだのです。それぞれの歌の『なりにけるかも』も、その調べやテンポ、また短調か長調かなど違いがあります。意識して聞き分けてみてください。志貴皇子が、この味わい深い言葉を、歌の歴史に留めてくれたのです」
志貴皇子は、天智天皇の第七皇子であったため、天武天皇の時代には政治的に恵まれなかったが、文学的素養が豊かで、「萬葉集」には六首のみながら優れた歌を残し、子孫にも萬葉歌人が多いという。そして、晩年になって生まれた第六子の白壁王は、後に光仁天皇となって、再び天智天皇の皇統に戻ることとなったという。
伊藤博先生は「萬葉集釋注 四」の中で、志貴皇子の生涯を仔細にわたって書かれている。
この箇所を読んでいると、奈良市郊外の白毫寺山門の写真が思い出された。高円山の西麓にあるその寺は、志貴皇子の山荘跡に建てられたという言い伝えがある。「万葉散策」(新潮社/とんぼの本)で見たその写真は、山門への石段を塞ぐように咲きこぼれる、紫と白の萩の花が美しくも哀しげで、強く印象に残っていた。
この残像と伊藤博先生が志貴皇子に寄せられた思いが重なり、巻第二に戻って、志貴皇子の薨去に際して詠まれた歌(230〜234番歌)と伊藤博先生の解説を読んだ。伊藤博先生が萬葉人とともに志貴皇子の葬儀に臨まれているようで、事実を辿る抑えた筆致から、深い哀悼の意を湛えたお姿が浮かんできた。
この日の池田塾頭の「伊藤先生の註釈は、その他の註釈と全く違います」というお言葉が思い出され、ただうなずくばかりであった。
●森本ゆかり
令和四年(二〇二二)十二月十五日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「文化という言葉 教養という言葉」
人生に迷うということは、私に教養がないことが原因だと思ってきました。
これまでろくに勉強をしてこなかった私には、小林秀雄さんの本は外国語のように難しく、なかなか読み進めることのできないまま、日常生活を送り、イライラしながら子育てをしている自分自身を情け無く思う気持ちがあり、こんなに教養のない自分を早く変えなければと焦っていました。
しかし、昨年十二月十五日の第二部「小林秀雄 生き方の徴」の講義で、
教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう。これは、生活体
験に基いて得られるもので、書物もこの場合多少は参考になる、という次第のものだと思
う。教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかに、自ら現れる言い難
い性質が、その特徴であって、教養のあるところを見せようという様な筋のものではある
まい。
という小林秀雄さんの「読書週間」(『小林秀雄全作品』第21集所収)にある言葉を池田塾頭に教えていただき、今まで無駄だと感じてきた、日々の生活の中に、私の身の丈に合った学びがあるのではないかと感じました。