小林秀雄「本居宣長」を読む(七)

小林秀雄「本居宣長」を読む(七)
第四章  物まなびの力、気質の力
池田 雅延  
  物まなびの力
 
     
 
 
 前回、「第三章――町人心の学問」ですでに見ましたが、小林先生は第三章に、次のように書いていました。
 ――常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……
 これに続けて、先生は次のように言います。
 ――鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。……
 今回、第四章を読み始めるにあたって、いままた私が宣長の書斎へと立ち戻るのは、小林先生が「宣長の生涯には何の波瀾も見られない、逸話の類いさえ求め難い」と言い、「逸話を求めると、みな眼に見えぬ彼の心のうちに姿を消すような類いとなる」と言っている宣長の身のこなし、これがどこからきたかにかれるからです。「逸話はみな、彼の心のうちに姿を消す」とは、「逸話の急所はみな、彼の心のうちに潜んでいた」とも読め、「波瀾はみな、彼の心のうちで起っていた」とも読めるからです。昭和四十七年(一九七二)九月、名古屋と大阪で行った講演「宣長の源氏観」(新潮CD「小林秀雄講演」第五巻所収)では、「宣長の生涯には何の波瀾も見られない、波瀾はすべて彼の頭のなかで起っていました、その波瀾たるや実に面白い」と、話し始めるなり言っています。

 宝暦七年(一七五七)の秋、宣長は五年余りの京都遊学を終えて松坂に帰りましたが、その途次、旅日記を書き続けました。小林先生は、「そういう旅の日記の中に、例えば、こんな事を書いている彼の心も面白い」と前置きして言っています。
 ――一向に見どころもない小川の橋を渡る時、川中に、佐保川と書いた杭の立っているのが、ふと眼についた、なるほどこの辺りには、名所が限りなくあるに違いない、しかも、大方はこの類いの有様であろう、と彼の心はさわぐ。長谷寺に詣で、宿をとり、寝ようとして、女に夜着を求めたが、「よぎ」という言葉がわからぬ。「よぎ」を「ながの」と呼ぶのを知り、さまで(そんなに/池田注記)田舎でもないのに、いぶかしいと、その語源について考え込んでいる。……
 「佐保川」は、「萬葉集」にも登場する歌枕で、千鳥や蛍の名所として知られていましたが、京都からの帰途、宣長が何気なく渡った佐保川は、佐保川と書かれた杭が川中に立っているだけの小川でした、この佐保川の寂しい風情が宣長の心を騒がせます。「夜着」を「ながの」と呼ぶのは方言ですが、この「ながの」も聞き流しにはせず、宣長は語源について考えこみます。小林先生はこういうことをいちいち旅日記に記す宣長の心を面白いと言っています、これらのに「後の古学者、本居宣長」の気質が早くも脈打っているからです。佐保川の杭も、長谷寺の宿の「ながの」も、「もののあはれを知る」という宣長の思想の頂と、しっかり結ばれていると小林先生は読んだのです。

     

 さて前回、こういう宣長生来の学者気質を染めた町人気質のことを言いましたが、伊勢松坂の町人であった宣長は、主人持ちの武士とはちがって融通無碍でした。
 寛政四年(一七九二)、六十四歳の年、加賀藩から宣長に仕官の話がもたらされました。藩校明倫堂の落成に際し、国学の学頭として如何かという照会でしたが、これに対して宣長は門人の名で答えました。
 「相尋申候処、本居存心は、最早六十歳に余り、老衰致候事ゆゑ、仕官もさして好不申、まして遠国などに引越申候義、且又江戸を勤申候義などは、得致間敷いたすまじく候、乍去さりながら、やはり松坂住居、又は京住と申様成義にも御座候はば、品に寄り、御請申候義も可有之候、(中略)右之通、本居被申候義に御座候。左候へば、京住歟、又は松坂住居之まゝに御座候はゞ、被参候義可有之と奉存候。江戸勤は、甚嫌之由に、常々も被申候事に御座候、且又、御国に引越などの積りには、御相談出来申間敷候」
 本人に尋ねましたところ、もはや六十歳を超えて老い衰えていますので仕官はさほどに好まず、ましてや遠国に引っ越したり江戸で勤めたりすることはできないと思います、しかし松坂に住んだままか、京都に住んでというようなことであれば、お話次第でお受けすることがあるかも知れません……、
 まずそう言って、念を押すように、というよりとどめをさすように、
 江戸勤めはこれを甚だ嫌う由を常々申しており、御国の加賀に引っ越してというのであればご相談には応じられないでしょう。……
 
 これを読んで、小林先生は言います。
 ――加賀藩で、この返事をどう読んだかを想像してみると、こんな平凡な文も、その読み方はあんまり易しくないように思われる。当時の常識からすれば、相手は、ずい分ていのいい、あるいは横柄な断り方と受取ったであろうか。事は、そのまま沙汰止みとなった。しかし、現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える。それは、ほとんど子供らしいと言ってもいいかも知れない。先方の料簡などには頓着なく、自分の都合だけを、自分の言いたい事だけを言うのは、恐らく彼にとっては、全く自然な事であった。……
 「こんな平凡な文も、その読み方はあんまり易しくないように思われる」には、文章は、書かれた事柄の意味内容だけでなく、常にそこからそれを書いた人の心持ちを読み取ろうとする小林先生の姿勢が現れています。しかもその心持ちを、ここでは読んだ相手の側から読み取ろうとしています。
 「現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える」と言われている「文の姿」は、これまでにも何度か言及された「文体」であり、「まことに素直な正直な」は宣長の気質を言ってもいます。小林先生は、古今を問わず「素直な、正直な」文体とその書き手を高く評価していましたが、この宣長の加賀藩への返書の文体は、「当時の常識からすれば」そうそうはありえないことでした。小林先生は、その素直な、正直な文の姿は「現代人にはよく見える」と言っていますが、これは当時の、ということは封建時代の身分制度に縛られていない現代人には、というほどの意だとすればそれはそうなのです、しかしここではもう一歩踏み込んでおきましょう。宣長がこの返書を送った相手は知行石高百万石で聞こえた大藩中の大藩、加賀藩です。小林先生にしてみれば、加賀藩というだけで十分で、それが並々ならぬ大藩であったとは言うまでもないことだったのでしょう、ですが、加賀藩は、知行石高のみならず、学術面でも並みの大藩ではなかったのです。
 宣長が仕官の誘いを受けた寛政四年、藩主は第十一代治脩でしたが、その年に創設された藩校明倫堂は、第五代綱紀以来の悲願でした。綱紀は、水戸の徳川光圀の甥でしたが、光圀の感化を受けて学問に目覚め、光圀と並んで元禄期を代表する向学大名として名を馳せました。光圀は、水戸藩をあげての大事業「大日本史」の編纂と並行して「萬葉集」の校訂解読など文事の事業を続々敢行しましたが、その光圀と競うようにして綱紀は書物の蒐集、編纂、学者の招聘に努め、ついには新井白石をして「加賀は天下の書府なり」と言わしめるに至りました。しかし、藩校の設立は、諸般の事情によって第十代重教、第十一代治脩まで待たなければならず、こうしてようやく設立された明倫堂は士庶共学を標榜し、藩士の子弟に限らず庶民の入学を許しました。この四民教導の思想は当時としては画期的であったと言われています。
 加賀藩から宣長に届いた招聘状に、そこまで記されていたかどうかはわかりませんが、宣長は少なくとも五代藩主綱紀の名は聞き及び、「加賀は天下の書府なり」も仄聞はしていたでしょう。加賀藩のたっての招聘に対する宣長の辞退は、それらの大方を承知のうえでの辞退だったとも思われるのです。しかもその意思表示には、相手が大藩であることによる気後れも、「天下の書府」におもねる口吻もありません。小林先生は、「現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える」と言っていますが、ではいざこういう返書を書かねばならないとなったとき、現代人にはむしろ宣長のような素直な正直な文は書けなくなっているのではないでしょうか。したがって、素直な正直な文を素直な正直な文と見てとって、そこから素直な正直な人を素直な正直な人と認めることはできなくなっているのではないでしょうか。これに続く小林先生の文章は、そこに注意して読む必要があります。
 「先方の料簡などには頓着なく、自分の都合だけを、自分の言いたい事だけを言うのは、恐らく彼にとっては、全く自然な事であった」……。何事であれ、他人との交渉に際してこういう自分本位の態度や流儀を通すことも小林先生は高く評価しました。これは、世にいう利己主義や自己主張などではありません、自分を自分らしく現わそうとすれば、まずは他人を黙殺しなければならないということを、小林先生自身が書画骨董をはじめとする美との深い交わりを通じて会得していたからです。
 昭和十七年五月、四十歳で書いた「『ガリア戦記』」(同第14集所収)で、こう言っていました、
 ――美というものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。……
 本居宣長も、小林先生には、「加賀藩の心の動きを黙殺して、自ら足りている」人間と見えていたでしょう。 
 また『学生との対話』(新潮社刊)では、ヘーゲルにまつわるベルグソンの逸話を語っています。ヘーゲルといえば、ベルグソンから見れば約九十年の先達で、世界に知られた大哲学者でしたが、ベルグソンはある時、若い友人のクローチェに、僕はまだヘーゲルを読んだことがないのだと、恥しそうに言ったというのです。ベルグソンも哲学者でした。当時すでに、哲学者ともあろう者がヘーゲルを読んでいないなどは考えられないことでしたが、小林先生はこういう面でもベルグソンに魅かれると言います。ベルグソンは、時代の潮流とか世評とかには目もくれず、自分に切実な問題だけを考え続けていたのです。小林先生の眼には、ベルグソンもまた、「こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている」人と映っていたでしょう。

     

 こうして、加賀藩からの仕官話に関わる一件においても、宣長の「町人心」は鮮やかに躍っているのですが、ここまで語って小林先生は、新たな主題の紐を解きます。
 ――「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角けいかくも作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。そう見えるのは外観であろう。彼の思想の育ち方を見る、忍耐を欠いた観察者を惑わす外観ではなかろうか。……
 この引用文中の「そう見えるのは」は、「彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものと見えるのは」ですが、新たに紐が解かれた主題は「物まなびの力」です。この言葉は、第四章の冒頭に引かれた宣長晩年の手記、「家のむかし物語」のなかに見えています。次のようにです。
 ――のり長が、いときなかりしころなどは、家の産、やうやうにおとろへもてゆきて、まづしくて経しを、のりなが、くすしとなりぬれば、民間にまじらひながら、くすしは、世に長袖とかいふすぢにて、あき人のつらをばはなれ、殊に、近き年ごろとなりては、吾君のかたじけなき御めぐみの蔭にさへ、かくれぬれば、いさゝか先祖のしなにも、立かへりぬるうへに、物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこゝろを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなく賤き身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、皇神たちのめぐみ、君のめぐみ、先祖たち、親たちのみたまのめぐみ、浅からず、たふとくなん……
 これを承けて、小林先生は、「吾君のめぐみの蔭にかくれる」とは、寛政四年、紀州藩に仕官したことをさしていると言い、同じ年に加賀藩からも仕官の話があったと続けていて、その加賀藩からの仕官の話に私は先回りして深入りしたかたちになったのですが、紀州藩への仕官にしても加賀藩からの誘致にしても、「物まなびの力」の賜物であったことには変りがなく、そういう世間対応の言動においても宣長の「思想は戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい」のです。
 それというのも、学者としての宣長の思想そのものが、「戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なもの」であり、宣長は「自分の思想を他人に強いようとしたこともなければ他人から固守しようとしたこともない」のですが、そういう宣長の思想の性質と穏健な態度は、彼の思想がなんらかの教義や教説として打ち立てられたものではなかったことによっています。ところが、思想というものの通念からして宣長の思想もなんらかの教義や教説として打ち立てられたと解する向きが少なくありません、しかし、そういうふうに見えるのは宣長の思想の外観に過ぎない、宣長の思想はどういうふうに育ったか、そこを忍耐強く見ようとしない単なる観察者が惑わされる外観である、と小林先生は言うのです。
 ちなみに、「なんらかの教義や教説として打ち立てられた」思想、すなわち、宣長とは対極に位置する思想の典型としては、平田篤胤の「霊の真柱」を思い併せておいてもよいでしょう。篤胤の思想については第二十六章で詳述されます。

     

 では、なぜ、こういう忍耐を欠いた、外観に惑わされた解釈が横行するのでしょうか。思うに現代の学者諸氏を筆頭とする知識人、文化人諸氏は、得てして宣長に限らず思想家と見ればただちにその言説を解剖し、(以下、甚だ以て無礼千万の言い様になりますが、)そうして得られた所見を論文という名の標本箱に収めて一件落着とする、それが慣習となっているからではないでしょうか。
 しかし、小林先生は、第二章で、
 ――宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……
 と言っていましたが、ここ第四章では、次のように言います。
 ――私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。……
 自己表現、告白……、小林先生は、この二語を、ここでは特に読者の注意を促すというほどのこともなく出してきています。しかし、ここで形体、構造、型などと対置して言われているこの二語は、小林先生によって用いられるときはよほどの留意が必要です。しかもこの二語は、二語相俟あいまって「本居宣長」の全篇を貫く龍骨なのです。自己表現、告白、二語ともにここが全篇通じての初出です。
 つい先ほど、私は、現代の学者諸氏の研究論文や知識人、文化人諸氏の評論文を、子供たちが昆虫採集で用いる標本箱に譬えるという非礼を敢えて犯しました、が、この非礼も、実は下地があってのことだったのです。近現代の学問は、理科系、文科系を問わず、実証的、客観的であることを絶対条件とし、したがって研究者の自己表現や告白などはもってのほかとされています。しかし、小林先生の言う学問、学者は、まったく逆です。「本居宣長」を『新潮』に連載していた昭和五十年九月、『毎日新聞』で行った今日出海氏との「交友対談」(同第26集所収)で、先生はこう言っています、
 ――長いこと「本居宣長」をやっているが、学者ということについていろいろ考える。宣長は学者に違いないが、今の学者とは初めから育ちが違う。これが本当に考えられていない。そういうことを考えないで宣長を研究し、今日の学者根性の方へあちらを引き寄せてしまう。……
 そして、
 ――今西錦司という人の書いた『生物の世界』という本が面白いから読んでみるよう知人に推められた。読んだら面白い。彼の学問上の仮説をとやかく言うことはできないが、門外漢にも面白く読めた。今西さんは、「これは私の自画像である」と書いている。これは今の科学ではない、私の科学、いや、私の学問だ、と言っている。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉とは私でしょう。自分でしょう。だから結局、これは私の自画像であると序文で書いている。面白いことを言う学者がいるなと思った。宣長の学問も自画像を描くということだったのだ。……
 今西錦司氏は、小林先生と同じ年、明治三十五年(一九〇二)に生れた生物学者、人類学者ですが、今西氏が自分の学問の源泉を語って「私の自画像」と言っているのを承けて、小林先生は「宣長の学問も自画像を描くということだったのだ」と言っています。
 「自画像」とは、とりもなおさず「自己表現」です。先の引用文に見られるとおり、小林先生にあっては「自己表現」と「告白」とはほぼ同義ですが、先生が言う「自己表現」、「告白」は、今日一般に言われている「自己表現」「告白」とはまるで違うということもここで知っておく必要があります。
 小林先生は昭和十年、三十三歳で発表した「私小説論」(同第6集所収)で、正面から「告白」の問題に取り組みましたが、一八世紀のフランスでジャン=ジャック・ルソーが書いた「告白録」(「懺悔録」)以来、欧米でも日本でも告白は文学表現の一大主流となり、わけても日本では田山花袋や島崎藤村らの自然主義文学でさかんに「私」の告白が行われました。そこを端的に言えば、自然主義文学の告白にはまず「私」があり、その「私」が既成の「私」に閉じこもって「私」を誇示するのです。
 しかし、小林先生が言う「告白」は、そうではありません。昭和二十三年、四十六歳で手を着けた「ゴッホの手紙」(同第20集所収)で、先生はこう言いました、
 ――これ(ゴッホの手紙/池田注記)は告白文学の傑作なのだ。そして、これは、近代に於ける告白文学の無数の駄作に対して、こんな風に断言している様に思われる、いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志の結果であり、告白とは、そういう内的作業の殆ど動機そのものの表現であって、自己存在と自己認識との間の巧妙な或は拙劣な取引の写し絵ではないのだ、と。……
 ということは、自然主義文学の「告白」は、概して言えば「自己存在と自己認識との間の取引の写し絵」だったのですが、ゴッホは弟テオに宛てた何通もの手紙にそういう写し絵はいっさい描かず、常に自分が自分自身であるために自分自身を日に新たにしようとして続けた内的作業、その内的作業のほとんど動機そのものをテオに書き送った、それが彼の「告白」だったと先生は言い、「本居宣長」にあっても「告白」という言葉は「ゴッホの手紙」と同じ語感で用いています。
 したがって、「本居宣長」第四章で言われている、
 ――私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。……
 の紙背には、「宣長の学問は、宣長が常に自分自身であろうとし、そのために自分自身を日に新たにしようとして続けた内的作業の動機そのものの表現である、そこでは、自己存在と自己認識との間の整合を図るような『さかしら事』は一言も言われていない……」と書かれていると読んでよいのです。
 小林先生は、続けて言います。
 ――彼は「物まなびの力」だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえなかった。彼の確信は、この大きな力に捕えられて、その中に浸っている小さな自分という意識のうちに、育成されたように思われる。……
 こうして宣長の学問は、言うは易く行うは難い、内的作業そのものでした。先に、「鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる」と言われていたのも、宣長の生き方の基本が、徹底した内的作業だったからだと言えるでしょう。しかし、宣長の心のうちに姿を消す逸話にも、小林先生は宣長の強い意思を読み取っています。
 ――彼は、鈴の音を聞くのを妨げる者を締め出しただけだ。確信は持たぬが、意見だけは持っている人々が、彼の確信のなかに踏み込む事だけは、決して許さなかった人だ。……
 「鈴の音を聞く」は「古人の声を聞く」であり、「確信は持たぬが、意見だけは持っている人々」とは、人間であれ物であれ、何かと向きあう己れの内面を顧みて自画像を描こうなどとは夢にも思わず、での「さかしら事」を臆面もなく口にする「物知り」たちです。
 小林先生の関心は、常に人間の内面にありました。ここでまた先回りするようですが、先生はこの先、第八章で、宣長の先達の一人となった中江藤樹に言及してこう言います、
 ――彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……


気質の力
          
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 さて、小林先生は、先に宣長の思想は、忍耐強くその育ち方を見るということを行わなければ外観に惑わされる、と言いましたが、第四章の眼目は、先生自身が宣長の思想の育ち方を忍耐強く見始めるところにありました。

 先生は、まず、宣長の養子、大平が書いた「恩頼図」というものを読者に示します。この図は呼び名のとおり、宣長の学問の由来や著述、門人等を一望のもとに見渡せるようにした図解で、元はと言えば大平が同門のひとりに与えた戯れ書きなのですが、そこに見られる系譜は徳川光圀、堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家、頓阿、孔子、荻生徂徠、太宰春台、伊藤東涯、山崎闇斎と多岐にわたり、今なお宣長研究者の間で重宝されています。
 しかし、小林先生は、そういう名だたる文人たちの間に、大平が「父主念仏者ノマメ心」「母遠キオモンパカリ」とも記していることに注目し、「曖昧な言葉だが、宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた」と敢えて言っています。「父主」は宣長の父、定利、「母刀自」は宣長の母、勝ですが、大平は宣長の学問の系譜に宣長の父母も数え、宣長は仏教信者であった父定利の実直さ、母勝の深慮遠謀、そういう気質を受け継いでいるとも言っているのです。ここで先生が、「宣長の心の内側に動く宣長の気質の力」と言っている「心の内側」も、しっかり記憶に留めましょう。この「心の内側」は、第三章で言われた、数少ない宣長の逸話が最後はみな姿を消す「眼に見えぬ彼の心のうち」と同じ「心の内側」です。
 次いで先生は、宣長の随筆集「玉かつま」から引きます。
 ――おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに、十七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた、師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき、集どもも、古きちかき、これかれと見て、かたのごとく、今の世のよみざまなりき……
 そして、言います、
 ――ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。……
 先に言った「宣長の心の内側」とともに、「彼の思想の自発性」の「自発性」もしっかり心に留めましょう。宣長の思想は、「もののあはれ」の説にしても「直毘霊なおびのみたま」の論にしても、外部から示唆を受けて、あるいは働きかけを受けて成ったものではない、すべては宣長の内部に発した思想、すなわち、自発した思想であった、そういう宣長内部の自発ということの感触が、「玉かつま」に記されている「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける……」から得られると先生は言うのです。
 これが先に引いた、小林先生が今西錦司氏の言葉を踏まえて言った「私の学問がどこから出て来たかという、その源泉」です。そしてその「源泉」の底から「自発」するもの、それはすぐには掬い上げることも掴みとることもできない、ただ感触が得られるだけである……。晩年、小林先生は「微妙」ということをしばしば口にしましたが、ここで言われている「自発性というものについての感触」も、先生は「微妙」ということそのものだと言っているように私には読めます。
 したがって、
 ――これには、はっきりした言葉が欠けているという、ただそれだけの理由から、この経験を、記憶のうちに保持して置くのが、大変むつかしいのだ。……
 「この経験」とは、宣長の思想の自発性というものについて、一種の感触が得られたという経験です。ところが、この経験は、微妙であるがゆえに得た者それぞれの感触に留まって言語化できない、そのため世の宣長研究者たちはこの感触を早々と忘れてしまい、ということは宣長の思想の自発性などということは気にもかけずに念頭から消してしまい、宣長の思想の外観を手早く眺め渡すや我れ勝ちに師伝の跡だの先学の影だのを浮かび上がらせ、もうそれだけで宣長の思想は理解した気になっている、と先生は言っているのです。
 なるほど、
 ――彼の学説の中に含まれた様々な見解と、これを廻る当時の、或は過去の様々な見解との間の異同を調べてみるという事は、宣長という人間に近附くのに有力な手段であり、方法であるには違いなかろう……
 だが、この研究方法が、
 ――いつの間にか、方法の使用者を惑わす。言わば、方法が、いつの間にか、これを操る人の精神を占領する。占領して、この思想家についての明瞭正確な意識と化して居据いすわる。……
 方法というものは、いつの場合も、どんな場合も、その場しのぎのものでしょう。当面の課題に対して当面の結果を得るために、人であれ物であれ相手の一側面を測るか削り取るかができるだけのものでしょう。しかし方法の使用者は、そうこうするうちその方法を選んで駆使する自らの正当性を保持することに躍起になり、いつしか研究対象を自前の方法に従わせてしまうのです、そうなってはもう、そこに示された研究成果の中の研究対象は死物です、研究対象をこの世の存在物として存在せしめている所以も微妙そのものであり、研究者の方法の網の目には決してかからないからです。
 近現代の学問にあっては、研究対象をどう取り扱うのが望ましいかという、いわゆる方法論の議論が盛んです。この、学問における方法論の弊害ということも「本居宣長」の重要なテーマであり、第六章であらためて精しく言及されますが、「本居宣長」を『新潮』に連載していたさなか、昭和五十年三月に行った講演「信ずることと知ること」(同第26集所収)もこのテーマから入り、学問の方法がその方法を操る学者の精神を占領し、方法が研究対象についての意識と化して居坐るさまを語ったベルグソンの講演を紹介しています。

     

 さて、いま、小林先生に準じて、学問の対象をこの世の存在物として存在せしめている所以は微妙であり、それは学者が振り回す研究方法の網の目には決してかからないと言いましたが、その「学問の対象をこの世の存在物として存在せしめている所以」は研究者の心だけにかかる微妙さであり、次のような気息のものだと先生は言います。
 ――「あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに」という宣長の個人的証言の関するところは、極言すれば、抽象的記述の世界とは、全く異質な、不思議なほど単純なと言ってもいい、彼の心の動きなのであって、其処には、彼自身にとって外的なものはほとんどないのである。……
 「抽象的記述の世界」とは、大平の恩頼図などに寄りかかってなされた後世の研究論文の世界です。文学を論じても思想を論じても、研究者の論文には、研究対象にとっては「外的なもの」が必ずと言ってよいほど混じります。混じると言う以上に「外的なもの」の探索と付会が目的であるとまで言えるような論文が少なくありません。たとえば先行文献の影響云々です、時代の風潮や事件の顛末云々です。この「外的なもの」の問題も「本居宣長」の大きなテーマであり、これも先回りして言えば小林先生は第十六章で「源氏物語」の研究における准拠の説を厳しく追及しますが、いまここではこう言います、
 ――彼(宣長/池田注記)の文は、「おのが物まなびの有しやう」と題されていて、彼は、「有しやう」という過去の事実を語るのだが、過去の事実は、言わばその内部から照明を受ける。誰にとっても、思い出とは、そういうものであろう。過去を理解する為に、過去を自己から締め出す道を、決して取らぬものだ。自問自答の形でしか、過去は甦りはしないだろう。もしそうなら、宣長の思い出こそ、彼の「物まなび」の真の内容に触れているという言い方をしても、差支えないだろう。……
 一見、ここで言われている「思い出」にはさほどの意味はないように思えます。しかし、「思い出」という言葉も、小林先生の文章に現れたときは必ず立止り、目をこらしてみる必要があるのです。目をこらしてみれば、ここでもやはり先生は、「思い出」に格別の意味をこめているのがわかります。世間一般がふだん何とも思わずに使っている「思い出」という言葉は、実は人間誰もが自分自身を知るために与えられている先天的能力のひとつをさした言葉だとして先生は使っているのです。「過去の事実は、言わばその内部から照明を受ける」「過去を理解する為に、過去を自分から締め出す道を決してとらぬものだ」「自問自答の形でしか過去は甦りはしない」という言い方で言われている「過去」は、大平の「恩頼図」に見られる「外的なもの」の対極にあり、そういう、人それぞれの「過去」は、その経験をもった人にしか照らしだすことができません。「過去の事実は内部から照明を受ける」とは、過去の事実の当事者が、過去を顧みてその事実の意味や価値を認識する、見定めるということです。そうであるなら誰しも「過去を理解する為に、過去を自分から締め出す道」をとることは決してないし、当事者が過去の事実の意味を自ら問い、自ら答を手探りするという「自問自答の形でしか過去は甦りはしない」のです。念のために言い足せば、「過去を自分から締め出す道」とは、「自己表現」も「告白」も封印して、あくまでも実証的、客観的であろうとする近代学問の態度です。
 小林先生が、ここで言っているような意味合で「思い出」という言葉を取上げた最初は、昭和十四年、三十七歳の年に刊行した「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)(同第11集所収)です。
 ――歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起って了った事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。後にも先きにも唯一回限りという出来事が、どんなに深く僕等の不安定な生命に繋っているかを注意するのはいい事だ。……。
 以来、先生は、人間とは何か、人生とは何かを問うとき、必ずこの「思い出」に足をおいてきました。宣長の思想の育ち方を問い始めた第四章では「玉かつま」に記された宣長の思い出に足をおいたのです。

     

 こうして、書を読むことを何よりも面白いと思って手当り次第に読んだ宣長は、二十三歳の年、京都に上り、医師になるための学問と、そのために必要とされた儒学に身を入れたのですが、そこで宣長は、契沖を識りました。
 ――さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語せいご臆断おくだんなどをはじめ、其外そのほかもつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ……
 幼い頃から何くれとなく本を読んだが、これといった先生について意図的・意識的に学問をするということはなかった、十七、八歳の頃から歌を詠もうと思って詠み始めたが、これも先生について学ぶということはなかったと言い、そういう「物まなび」「歌まなび」のいずれにおいても独学を続けてきた宣長の前に契沖が立ったのです。
 
 契沖は、江戸時代の初期、元禄時代に生きた真言宗の僧ですが、早くから「大日本史」の編纂事業と並行して古典の保護に力を入れていた水戸光圀の委嘱を受けて「萬葉代匠記」を著し、奈良時代の末期と思われる頃に成って以来約九〇〇年、全二十巻に収録された四五〇〇首余りが今日言われる「萬葉仮名」、すなわち中国から渡来してまだのなかった漢字の特殊な用法で書かれていたため誰にもほとんどまともに読めなくなっていた「萬葉集」を、独りで、それもわずか九年ほどの間に読み解いた大学者です。宣長の文に出ている「百人一首改観抄」は「小倉百人一首」の註釈書、「余材抄」は「古今余材抄」のことで「古今和歌集」の註釈書、「勢語臆断」は「伊勢物語」の註釈書ですが、これら「萬葉代匠記」に続いた契沖の著作はすべて、現代にあってもなお研究者必見の学績とされています。

 宣長の思想の自発性に読者の注意を促し、宣長の思想は外部からの示唆を受けて、あるいは働きかけを受けて成ったものではない、すべては宣長の内部に発した思想、すなわち、自発した思想であった、と言った小林先生は、ここで再び読者の注意を促します。
 宣長が、「はじめて契沖といいし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて……」と「玉かつま」に強い口調で書いているところから、研究者諸氏の間ではいとも簡単に宣長は契沖の影響を受けたと言ってしまうのが常態となっているのですが、小林先生は、待て、そうではない、宣長は契沖の影響を受けたなどと軽々しく言ってはならない、と注意を促してこう言います。
 ――たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に甦っているのは、言わばその強い予感である。……
 「契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている」に留意しましょう。宣長は、生来、「学者の素質」もさることながら、「学者の気質」を授かっていました。「玉かつま」に見られる「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに……」という「学者の気質」です。
 それとともに契沖は、「十七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた、師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき、集どもも、古きちかき、これかれと見て、かたのごとく、今の世のよみざまなりき」という宣長の独立独歩の気質にも気づかせてくれたようなのです。契沖は、そういう意味においても宣長の自己発見の機縁となった、契沖の一連の註釈書は、ならば「自分は何を新しく産み出すことが出来るか」と、宣長が宣長自身の学問について自問自答する機縁にもなったと小林先生は言うのです。
 しかし、宣長は、
 ――これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである。……
 むろん、影響と言うなら宣長は、契沖の影響を受けるには受けたにちがいないのです。しかし、その影響がどのようなものであったかはわからない、本人にも当初はある種の「予感」があっただけで、その予感が得心に変るためには時間がかかる、「その育つのをどうしても待つ必要が」ある……。
 こうして契沖との出会いも宣長の心のうちに秘められた、と小林先生は言うのですが、これは恐らく、宣長の「在京日記」に手伝われての推察です。宣長は京都に留学中、堀景山という儒学者に師事しましたが、小林先生によれば景山はそれまでの官僚儒学や堂上歌学から解放されて自由奔放になった通人学者であり、その堀景山に宰領された塾は学問という規律さえも取り払われたかのような日常だったようで、宣長の「在京日記」を読むと、
 ――学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。無論、契沖の名さえ見えぬ。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。……
 そう小林先生は記し、さらには、
 ――境界きやうがいにつれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり。……
というような言葉さえも見られるほどだと言います。
 しかし先生は、この遊興三昧をも見過ごしにはしないのです、学問を脇へ押しのけて遊興娯楽にうつつを抜かしていたかに見える「在京日記」の記事の行間に、
 ――間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている。……
 先生はそう読むからです。「心のうちの工夫」とは、契沖によって呼び覚まされた、「自分は何を新しく産み出すことが出来るか」という自問の反芻であり、自答の模索でしょう。小林先生には、「在京日記」に記された様々な瑣事と、「もののあはれを知る」という宣長の思想の頂との間を、一本の糸がしっかり結んでいるさまがここでも見えていたにちがいありません。
 松坂へ帰って設えた書斎への階段の仕掛けや書斎で楽しんだ鈴の音の逸話と同じように、京都で契沖を識って覚えた感慨もしばし宣長の心のうちに姿を消しました。このかんの経緯も、大平にははっきり意識されていたと小林先生が受け取った「宣長の心の内側に動く気質の力」によったのでしょう。わけても、宣長が母の勝から受け継いだ「遠キオモンパカリ」という気質が自ずとそうさせたのでしょう。そして小林先生が宣長の「在京日記」に記された様々な瑣事と、「もののあはれを知る」という思想の頂との間をしっかり結んでいると見た一本の糸は、もはや紛れもなく宣長生得の「学者気質」だったと言えるでしょう。
 小林先生も、人生の大事は何事も時間をかけなければわからない、わからせてもらえない、だから急ぐな、けっして急ぐなと言い続けていました。ここで言われている「真の影響とは、そのようなものである」も、そういう小林先生自身の人生経験に拠っていると思えるのですが、ともあれここで今一度、「思想の自発性」という先生の言葉を確と思い出しておきましょう、宣長の「思想」は幼時にして早くも「書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける」と自発、内発していたのですが、小林先生はこの「自発」を、「本居宣長」に先立って発表した昭和三十一年、五十四歳の年の「ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演」では次のように言っています。
 ――精神というものは、まことに柔軟で不安定なものであるから、環境の変化を非常に鋭敏に反映する。そういう受身な精神の反映と、精神の自発的な表現とは、全く性質が違うものなのであるが、両者はいつも混同され勝ちです。……
 
     
 
 先ほどもふれたように、宣長が京都に上り、身を寄せた先は堀景山のもとでした。景山は元禄元年(一六八八)の生れでしたから宣長が上洛した宝暦二年(一七五二)には六十五歳になっていましたが、名家の儒医、すなわち儒者でありまた医者である学者として京中に聞こえ、享保四年(一七一九)、三十二歳の年からは安芸あきの国の浅野家に召され、たびたび広島に赴いて進講してもいました。
 この景山との出会いは、宣長にとって、まさに僥倖と言っていいものでした。本来なら医者に必要な知識を得るだけで十分だったはずなのですが、景山は「よのつね」の儒医ではありませんでした。小林先生によれば、景山は、
 ――当時の学問の新気運に乗じた学者であった。家学は無論朱子学だったが、朱子学に抗した新興学問にも充分の理解を持ち、特に徂徠を尊敬していた。塾生として、起居を共にした宣長が、儒学から吸収したものは、「よのつねの儒学」の型ではなかった。徂徠の主著は、遊学時代に、大方読まれていた。それよりも、この好学の塾生に幸いしたのは、景山が、国典にも通達した学者だった事だ。景山は、契沖の高弟今井かんの門人樋口宗武と親交があり、宣長の言う「百人一首改観抄」も、景山が宗武とともに刊行したものである。……
 徂徠の主著は、遊学時代に、大方読まれていた……。「本居宣長」における荻生徂徠の名の初出です。しかしここでは、宣長が京都遊学中に徂徠を知り、契沖とともに徂徠もまた自己発見の契機となって胸中に秘められた、と認識しておくだけでよいでしょう。むろんすぐにそれだけではすまなくなるのですが、契沖と並ぶ徂徠との出会いも、図らずもとはいえ景山が準備したのです。景山の許に寄寓していた五年間が、契沖、徂徠を知ってこの二人を熟読する歳月となったことの意義は無限大と言っていいほどでした。
 と、こういうふうに見ていく先に、またしても頭をもたげてくるのが影響という言葉です、景山の宣長への影響如何という議論です。しかし小林先生は、こう言っています。
 ――景山に「不尽ふじんげん」という著作がある。宣長が、これを読んでいた事には確証があり、研究者によっては、宣長の思想の種本はここにあるという風に、その宣長への影響を強調する向きもあるが、私は、「不尽言」を読んでみて、むしろ、そういう考え方、影響という便利な言葉を乱用する空しさを思った。……
 ――「不尽言」から、宣長のものに酷似した見解を拾い出すのは容易な事である。古典の意を得るには、理による解を捨て、先ず古文の字義語勢から入るべき事、詩歌は人情の上に立つという事、和歌という大道に伝授の道はない事、わが国の神道というものも、日本の古語を極めて知るべきものであり、面白く附会して、神道を売り出すのは怪しからぬという事、等々。しかし、このような見解は、すべて徂徠のものであると言う事も出来るし、これに酷似した見解を、仁斎や契沖の著作から拾うのもまた容易なのである。……
 ――見解を集めて人間を創る事は出来ない。「不尽言」が現しているのは、景山という人間である。例えば、「総ジテ何ニヨラズ、物ノ臭気ノスルハ、ワルキモノニテ、味噌ノ味噌クサキ、鰹節ノカツヲクサキ、人デ、学者ノ学者クサキ、武士ノ武士クサキガ、大方ハ胸ノワルイ気味ガスルモノナリ」、そういう語勢で語る景山であって、その他の人ではない。……
 「見解を集めて人間を創る事は出来ない」は、「不尽言」に見られる「古典の意を得るには理による解を捨て…」以下の景山の見解をそれらしく組合せ、これが景山という人間だとは言えない、ということです。私たちは、小林先生にこう言われて、なるほど、それはそうだと思いはしますが、そのそれはそうだを私たちはしょっちゅう踏み外していないでしょうか。またしても相手の口から出る見解だけを組合せて相手の人間像を拵え上げてしまっていないでしょうか。小林先生がここで敢えてこれを言ったのは、読者に対する警告です、景山は宣長に学問への便宜は与えたが、人間として影響を及ぼしたなどとはとても言えない、見解の相似に眼を眩まされて宣長を見誤ってくれるなと言いたいがためです。景山という人の人間性は、「不尽言」に見られる学者としての教説よりも本音に現れており、小林先生は「物ノ臭気」を嫌った学問上の通人、景山に、宣長が驚きを感じたことはなかっただろうと言っています。要するに景山は、「物ノ臭気ノスルハ、ワルキモノニテ……」などと俗受けするような世間知を言いたがる学者であり、それだけに新興学問の享受、喧伝などには素早かったが、人生や学問に対する洞見、創見はかけらも見られない、と先生は言っているのです。
 とはいえ先ほど見たように、それまでの官僚儒学や堂上歌学から解放されて自由奔放になっていた景山の塾は、学問という規律さえも取り払われたかのような日常で、景山のこの放任ぶりも宣長には僥倖でした、こういう景山の塾にいたればこそ、宣長は契沖との出会いの感慨を心に秘め、「心のうちの工夫」に打ちこむことができたのです、契沖と出会ったことの意味が心の中で熟するときを黙って待つことができたのです。

     

 宣長の思想の育ち方を見ていくにあたり、第四章で「外的なもの」の峻拒を強く訴えた小林先生は、最後をこう結びます。
 ――歴史の資料は、宣長の思想が立っていた教養の複雑な地盤について、はっきり語るし、これに準じて、宣長の思想を分析する事は、宣長の思想の様々な特色を説明するが、彼のような創造的な思想家には、このやり方は、あまり効果はあるまい。私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れている或るものを想像するのも、又、これを、かりに、よく信じられた彼の自己と、呼べるように考えるのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自な魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。……
 ――この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私のねがいは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家に用いられる有力な方法とは、全く逆な向きに働く。これは致し方のない事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私達の努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。……
 ここで言われている「歴史に正しく質問する」の「質問する」にも事改めての注意が要ります。一般に「質問する」というと、誰かに何かを尋ねてそれなりのことを教えてもらうことを言いますが、小林先生の言う「質問する」は、そうではありません、何事によらず「これはなぜか」「これはどういうことか」といった問い、すなわち問題を自ら見出し、その自ら見出した問題の答えも自ら引き出そうと歯を食いしばる、辛抱強く自問自答を繰り返す、この一連の思惟思索を指してこれこそが「質問する」ということなのだと先生は言い、昭和四十年八月、「本居宣長」の連載開始直後に数学者の岡潔氏と行った対談「人間の建設」(同第25集所収)で次のように言っています、
 ――ベルグソンは若いころにこういうことを言っています。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている……。
 このベルグソンの言葉を敷衍し、昭和四十九年八月には九州での全国学生青年合宿教室でこう言いました、
 ――僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる。質問するというのは、自分で考えることだ。おそらく人間にできるのは、人生に対して、うまく質問することだけだ。答えるなんてことは、とてもできやしないのではないかな……。(新潮文庫『学生との対話』より)
 したがって「本居宣長」の第四章を締めくくる「歴史に正しく質問しようとする」も、同じ含みで言われています。歴史家は「宣長に与えられた環境という原因から宣長の思想という結果を明らめよう」としますが、先生は歴史家に用いられるこういう方法とは全く逆の方向を向き、本居宣長という「歴史」に初手から質問します、本居宣長という「歴史」を創った本居宣長という人の「自己」を信じ、宣長の「自己」の他者には見られない魅力の源泉を彼の「心のうち」に訪ねていき、その「心のうち」で沸きたっている先天、後天、両方の気質と自発の思想を汲み上げます、これが先生の「歴史に正しく質問する」ということです。

 また「心のうち」ということは、「本居宣長」の第四章で何度も言われていますが、この「心のうち」ということこそは小林先生の批評術の、延いては人間観の足場です。
 先生は、「様々なる意匠」を書いて批評家としてデビューする昭和四年九月の二年前、二十五歳の年の昭和二年八月に「『悪の華』一面」を書き、これをその年の十一月、『仏蘭西文学研究』に発表しました。『悪の華』は一九世紀フランスの詩人ボードレールの詩集で、今日、象徴詩と呼ばれている詩型の先駆けとなった詩集ですが、小林先生は後年、四十八歳の年の昭和二十五年四月に発表した「詩について」(同第18集所収)でこう言っています。
 ――私は学生時代、詩から、特にフランス象徴派詩人の作品から非常な影響を受けたので、詩について何か語ろうとすると、その影響の性質について語る他はないという事になる様である。私が象徴派詩人によって啓示されたものは、批評精神というものであった。これは、私の青年期の決定的な事件であって、若し、ボオドレエルという人に出会わなかったなら、今日の私の批評もなかったであろうと思われるくらいなものである。……
 『悪の華』を掲げてボードレールが登場するまで、詩壇は詩本来の志を失い、歴史や哲学や伝説やといった、詩ではなくて散文で書けばいいような事柄を平気でもちこんでいました。ボードレールはそこに異を立て、詩は詩でなくては表せないことをなんとしてでも表さねばならないとして画期的な言葉の使い方を編み出し、今日、象徴詩と呼ばれている詩型を創り出したのですが、その「詩でなくては表せないこと」を一言で言えば眼には見えない思想や情緒や神秘などです、そしてそれらのなかでも一番の課題は「人間の心のうち」でした。そこを評して小林先生は、「ボオドレエル以後の象徴派詩人達の運動は、文学の散文化による自我の拡散に抗して、個性的な内的な現実を守りつづけて来た運動だと言えます」と言っていますが、ここで言われている「自我の拡散に抗して、個性的な内的な現実を守り続ける」という精神、この精神が小林先生にあってはまず「『悪の華』一面」で「十九世紀に於ける最も深刻なる人間の情熱は恐らく自意識の化学という事であろう」と言わせ、文壇デビュー作の批評論「様々なる意匠」で、
 ――人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!……
 と言わせたのです。
 自意識とは、『広辞苑』には「自分自身がどうであるか、どう思われているかについての意識」と言われていますが、「『悪の華』一面」と「様々なる意匠」の文脈からは、小林先生は人それぞれが自分自身を知ろうとする意識、自分はどういう人間として生まれてきているかを知ろうとする意識、それを自意識と呼んでいると解せます。すなわち自意識とは、まさに「個性的な内的な現実」です。
 以後、先生は、三十七歳の年の昭和十四年五月に刊行した「ドストエフスキイの生活」ではドストエフスキイの、四十五歳の年の昭和二十二年七月に刊行した「モオツァルト」ではモオツァルトの、五十歳の年の昭和二十七年六月に刊行した「ゴッホの手紙」ではゴッホの、それぞれ「個性的な内的な現実」を見守り見極め、こうして人間の「個性的な内的な現実」は小林先生の批評の不動の主題となっていったのですが、その「個性的な内的な現実」が、「本居宣長」第四章では宣長の「思想の自発性」という言葉で言われているのです。
(第四章 了)