小林秀雄山脈の裾野散策 

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 小林秀雄山脈の裾野散策(二十三)
       
 機械と常識
大島 一彦  
 小林秀雄の「考へるヒント」に「常識」と云ふ一篇がある。この文章を読返してみる気になつたのは、最近たまたま「AI脳クライシス」(酒井邦嘉編著、集英社インターナショナル)と云ふ本を面白く読み、この種の問題の基本的な事柄については小林が既に考へてゐたことを思ひ出したからである。勿論、小林の時代には「生成AI」だとか「チャットGPT」などと云ふ言葉はなかつたが、「電子頭脳」とか「人工頭脳」と云ふ言葉は遣はれてゐて、まあ同系統の言葉と見てよいのではないかと思はれる。要するにコムピューター、電子計算機のことである。その機能や性能が今日いよいよ複雑多岐にわたり精密の度を増してゐることは云ふまでもないが、根本原理と云ふことになれば別段当時と違つてはゐないのであらう。
「AI脳クライシス」は言語脳科学者である酒井氏の文章と、酒井氏と将棋棋士の羽生善治、ブロードキャスターのピーター・バラカン、日本画家の千住博、ノンフィクション作家の柳田邦男各氏との対談を収録した本で、酒井氏は序文で、「本書は、各界の識者との対談を中心に据えながら、紙の本による読書の必要性や『AI脳クライシス』について深掘りする一つの試み」であり、本書の題は「AI技術のとりこになった人の脳が陥るクライシス(危機)」と云ふ意味だと云ふ。近年現れたデジタル機器は利便性や効率性を重視するあまり、知的な能力を失はせる方向にかたよつてをり、その最たるものが人工知能(AI)であり、人類は尖端技術のおごりと人間軽視の風潮によつて思考力や創造力が奪はれ、自由な発想すら機械化されると云ふ危機に直面してゐる――これが本書を貫く酒井氏の危機意識である。
 小林は「常識」で、まづ自分が学生時代に翻訳したことのあるエドガー・アラン・ポウの「メールツェルの将棋差し」と云ふ作品を紹介してゐる。「将棋差し」の原語は「チェス・プレイヤー」であるが、ここでは小林の訳語をそのまま用ゐることにする。或る男が将棋を差す自働人形を発明して、興行に成功するが、まだ誰もこの連戦連勝の人形の祕密を解いた者がゐない。今はメールツェルと云ふ男が興行師になつてゐるが、或るとき人形の公開を見物したポウがその祕密を看破する。ポウの推論は常識にかなつたもので、「およそ機械である以上、それは、数学の計算と同様に、一定の既知事項の必然的な発展には、一定の結果が避けられぬ、さういふ言はば、答は最初に与ヘられてゐる、孤立したシステムでなければならぬが、将棋盤のこまの動きは、一手々々、対局者の新たな判断に基づくのだから、これを機械仕掛と考へるわけにはいかない。何処どこかに、人間が隠れてゐるに決つてゐる」と考へる。そこで「この機械の目的は、将棋を差す事にはなく、人間を隠す事にある」と云ふ考へを飽くまでも捨てず、「内部のからくりを見せるメールツェルの手順を仔細しさいに観察し、その一定の手順に応じて、内部の人間が、その姿勢と位置とを適当に変へれば、外部から決して見られないでゐる事は可能だといふ結論を、遂に引出してみせる。」
 ポウの場合は常識の勝利に終つたわけだが、小林は或るとき或る研究所に「電子頭脳」と云ふものがあつて将棋を差すさうだと云ふ話を聞いて、考へ込んでしまふ。「常識で考へれば、将棋といふ遊戯は、人間の一種の無智を条件としてゐる筈である。名人達の読みがどんなに深いと言つても、たかが知れてゐるからこそ、勝負はつくのであらう。では、読みといふものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういふ事になるのだらうか。」小林はふとそんなことを考へてみて、解らなくなつたと云ふ。「どう考へてみてもはつきりしないのが、不愉快になつて来て、原稿が一向進まない。」
 小林はここで、のちに「将棋AI」と呼ばれるものの可能性の問題にぶつかつたと云つてよいのであらう。ちやうどその頃、小林は銀座で中谷宇吉郎に出会つたので、この問題を持出してみたと云ふ。以下そのときの一問一答が続くのだが、これがたいへん面白い。全文を引用したいところだが、長くなりすぎるので、主要なところにだけ触れることにする。
 小林が「将棋の神様同士で差してみたら」どう云ふことになるか、「神様なら読み切れる筈だ」と云ふと、「そりや、駒のコンビネーションの数は一定だから、さういふ筈だが、いくら神様だつて、計算しようとなれば何億年かかるかわからない」と中谷。「何億年かからうが、一向構はぬ」と小林。「そんなら、結果は出るさ。無意味な結果が出る筈だ」と中谷。「無意味な結果とは、勝負を無意味にする結果といふ意味だな」と小林。「無論、さうだ」と中谷。「ともかく、先手必勝であるか、後手必勝であるか、それとも千日手せんにちてになるか、三つのうち、どれかになる事は判明する筈だな」と小林。「さういふ筈だ」と中谷。「仮りに、後手必勝の結果が出たら、神様は、お互ひにどうぞお先きへ、といふ事になるな」と小林。「先手を決める振り駒だけが勝負になる」と中谷。「神様なら振り駒の偶然も見透しのわけだな」と小林。「さう考へても何も悪くはない」と中谷。「すると神様を二人仮定したのが、そもそも不合理だつたわけだ」と小林。「理窟はさうだ」と中谷。「それで安心した」と小林。「何が安心したんだ」と中谷。「結論が常識に一致したからさ」と小林。
 いくら神様でも一人で勝負は出来ないから、仮定する以上二人にせざるを得なかつたわけだが、それが不合理だつたにせよ、判つたことが一つある。それは、将棋の神様には将棋と云ふ遊戯は不要だと云ふことである。結果の判つてゐることをわざわざやるのは無意味だからだ。もし将棋AIが小林の云ふ将棋の神様を目指してゐるのだとするなら、それは将棋そのものの否定を目指してゐることになる。逆に云へば、将棋と云ふ遊戯を存続させるためには、将棋の神様を存在させてはならないのである。「人間の一種の無智」だけが将棋存続の条件なのだ。
 中谷との問答のあと、小林は機械と常識と云ふ問題について考へを進めてゐる。以下、その論旨を辿つてみよう。――ポウの常識は、機械には物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ、と考へた。十八世紀の科学で現代の電子工学を論ずることは出来まいが、ポウの常識が今日ではもう古いとは誰にも云へまい。ところが「人工頭脳」と聞くと、私達の常識はすぐに揺らぐ。人工頭脳を考へ出したのは人間頭脳だが、人工頭脳は何一つ考へ出しはしない。これは決定的な事実である。私は、電子計算機の原理や構造について、はつきりしたところは何も知らないが、ポウの原理で間に合ふ筈だ。機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだらうが、その計算とは反覆運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械はなすところを知るまい。常識は、計算することと考へることとを混同してはゐない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはゐない。熟慮断行と云ふまつたく人間的な活動の純粋な姿を現してゐる。――テレビを享楽しようと、ミサイルを呪はうと、私達は機械の利用をめるわけには行かない。機械の利用享楽がすつかり身についたおかげで、機械をモデルにして物を考へると云ふ詰らぬ習慣もすつかり身についた。常識の働きが貴いのは、時時刻刻、新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するやうに考へてゐるところにある。さう云ふ考へ方の届く射程は、私達の私生活の私事を出ないであらうが、ひとたび事が公になつて、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、たちまち計算機に酷似して来るのは、どう云ふわけか。――
 私は今日のAI状況については、生成AIとかチャットGPTとか云ふ言葉を聞き知つてゐるだけで、その実情についてはまつたく何も知らない。従つて、小林の云ふところが今日どこまで通用するのかしないのか、正直云つて判らない。ただ、拙文の冒頭で紹介した「AI脳クライシス」の著者である酒井氏によると、現在の生成AIは利用者の心情や意図を解析するわけではなく、大量のデイタ・ベイスから確率的、平均的に文や画像などを合成するだけだから、むしろ「合成AI」と呼ぶべきで、何かを創造する(つまり生成する)わけではないと云ふ。「多くの人が誤解しているようですが、AIや機械が『考える』ことなど決してありません。新しい組み合わせの文章や画像を合成できるからといって、それだけでは革新的な技術と言えず、そもそも真の『生成』ではないのです。……生成AIの文章は、もっともらしく見せかけた文字列にすぎません。それは実際の人間同士の対話や、人間が生み出す創作物とはほど遠いものです。」それなら、小林が「人工頭脳」と「人間頭脳」と云ふ言葉で云はんとしてゐたことはそのまま今日でも当嵌あてはまることになる。
 酒井氏はまた、生成AIの浸透がもたらす「人間の機械化」が実に不気味だとも云つてゐる。小林は事が公になると人間の相貌が計算機に似て来ると云つてゐたが、酒井氏の現状認識はもつと深刻で、それは小林の云ふ「私生活の私事」にまで及んで来てゐるやうだ。何かにつけて楽をしたがる人間は、自分で物を考へることを億劫がるやうになり、少しでも面倒な問題は機械に預け、機械の出して来る「文字列」で気に入つたものを「正解」として受容れるやうになる。そんなことを繰返してゐればAI依存症、SNS中毒になるのは必定で、人間の思考力が低下することは火を見るより明らかである。酒井氏は云ふ、「電子機器というのは人間に楽をさせる様にデザインされているわけですが、それは同時に人間の能力を奪うことになるということに気が付かねばなりません。」(なほ、さう云ふ「人間の能力を奪う」事態の具体例については、本書の四つの対話の中で興味深い実例が幾つも採上げられてゐる。)
 人工知能と小林秀雄――これが水と油であることは、小林の読者なら誰でも知つてゐることである。小林がとにかく考へる人であることは本稿で採上げた「常識」一篇を読むだけでもよく分るであらう。ひとたび将棋の可能性について問題を得ると、飽くまでも自分の頭脳で考へ、解らなくなれば中谷宇吉郎と云ふ生きた人物と問答を交し(尤もこれは多分実際には小林の自問自答を脚色したものであらう)、考へられるところまで考へようとする。何しろ、一旦何かを考へ始めると、自分の幼い娘を連れてゐることも、妻を同伴してゐたことも忘れてしまふほどの人なのだ。小林自身どこかで、自分をかへりみて、ほかのことはともかく、考へることだけは怠つたことがない、自分に出来るのは考へることだけだと云つてゐた。
 ここまで書いて来て、ふとこんなことを考へてみた。――スポーツの世界で、極めて性能のよいロボット選手が作られて、例へば百メートルを五秒で走り、槍や砲丸などを競技場の外まで投げるやうになつたら、人間がそれらのスポーツを続ける意味はなくなるのだらうか。スポーツ選手になることは、人間が機械になることでも、機械と競争することでもないだらう。スポーツにはわざを磨くと云ふ肉体と精神の微妙な協働作業があつて、そこに、体力をきたへつつ人間生命の精神的な味はひが体験されるからこそ、人間がスポーツをやることに意味があるのであらう。今日スポーツは商業化され、経済的利益や社会的名声と深く結びついてしまつたため、記録や勝利がその目的とされてゐるが、本来、記録や勝利はさう云ふ精神的な体験を得るための一つの強力な動機だつた筈ではなからうか。――
 最後に引用文を二つ並べておく。
「人間は考へるあしだ、といふ言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落しやれだと思つたからである。或る者は、人間は考へるが、自然の力の前では葦の様に弱いものだ、といふ意味にとつた。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一とたまりもないものだが、考へる力がある、と受取つた。どちらにしても洒落を出ない。
「パスカルは、人間はあたか脆弱ぜいじやくな葦が考へる様に考へねばならぬと言つたのである。人間に考へるといふ能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従つて、考へを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなつて来る様な気がしてくる、さういふ考へ方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはさう言つたのだ。」(「パスカルの『パンセ』について」)
「考へるとは、合理的に考へる事だ。どうしてそんな馬鹿気た事が言ひたいかといふと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考へる人々の考へ方を観察してゐると、どうやら、能率的に考へる事が、合理的に考へる事だと思ひ違ひしてゐるやうに思はれるからだ。当人は考へてゐる積りだが、実は考へる手間を省いてゐる。そんな光景が到る処に見える。物を考へるとは、物をつかんだら離さぬといふ事だ。画家が、モデルを摑んだら得心の行くまで離さぬといふのと同じ事だ。だから、考へれば考へるほどわからなくなるといふのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事である。だが、これは、能率的に考へてゐる人には異常な事だらう。」(「良心」)
 どちらの引用文も小林の読者には馴染のものだが、本稿の文脈で読みなほしてみると、以前読んでゐたときとはひと味違つたニュアンスが感じられて来て、何やら今日の世の風潮に向けて最近書かれた文章のやうに読めるのではなからうか。
(この項了) 
                         

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