小林秀雄「本居宣長」を読む(三十一)
第十七章中 光源氏の品定め 契沖
池田 雅延
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第十七章は、中ほどで、
――源氏という人物の、辛辣な品定めをした最初の人は契沖であった(「源註拾遺」大意)。……
と言って場面が転換されます。
ここで言われる「品定め」は、先に、
――光源氏の心中も知らぬ「物言ひさがなき」人の言うところを、真に受けてくれるな、「をかしき方」に語られた「交野少将」並みの人物と思ってくれるな、源氏という人を一番よく知っている自分の語るところを信じて欲しい、……
と、紫式部が古女房になりすまして読者に語りかけた言葉を受ける形で始められていると言ってよく、小林先生は契沖に続いて賀茂真淵、上田秋成、森鷗外、谷崎潤一郎、正宗白鳥……と、近代にまで及ぶ諸家の光源氏評を見ていくのですが、この「品定め」の先駆者と先生が位置づけた契沖については契沖が残した「源氏物語」の註釈書『源註拾遺』の「大意」から引かれます。
――源氏の薄雲にことありしは、父子に付ていはゞ、何の道ぞ。君臣に付ていはゞ、又何の道ぞ。匂兵部卿の浮舟におしたち給へるは(我を通して無理押しなさるのは/池田注記)、朋友に付て、何の道ぞ。夕霧薫のふたりは、共にまめ人に似たれど、夕霧は落葉宮におしたちて、柏木の霊に信なく、かほるの宇治中君の匂兵部卿に迎られての後、度〻たはぶれしも、罪すくなからず。春秋の褒貶は、善人の善行、悪人の悪行を、面〻にしるして、これはよし、かれはあしと見せたればこそ、勧善懲悪あきらかなれ。此物語は、一人の上に、美悪相まじはれる事をしるせり。何ぞこれを春秋等に比せん」……、
これを受けて、小林先生は言います。
――言葉が烈しくなっているのは、幾百年の間固定していた、「源氏」のもつ教誡的価値という考えと、絶縁せざるを得なかったが為だ。「式部が、此物語をかくに、人を引てあしくせんとは思ふまじけれど、其身女にて、一部始終、好色に付てかけるに、損ぜらるゝ人も有べし。又聖主賢臣などに准らへてかける所に、叶はずして、罪を得たればにや、地獄には入にけん」……、物語を在りのままに読みたがらぬ註家達の卓説よりも、世間の俗説の方が増しだと言うのである。だが、それなら、此の物語を、どう読んだらいいかという事になると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ。……
こうして「源氏物語」の享受史上、最も早い光源氏の論評者として引かれた契沖は、夙に「萬葉集」の註釈書『萬葉代匠記』で知られ、『百人一首改観抄』『勢語臆断』等によって宣長に歌学の眼を開かせたばかりか学者として生きる道とは何かまでをも会得させた大先達として第六章以下、「本居宣長」の随所で言及されていますが、ここに小林先生が引いている『源註拾遺』の「大意」は巻頭に置かれている序説あるいは総論と言えるもので、先生が言った「源氏という人物の、辛辣な品定めをした最初の人は契沖であった」の「源氏という人物の品定め」という言葉遣いは、「源氏物語」の作者、紫式部が古女房に託して読者に望んだ「源氏という人を一番よく知っている自分の語るところを信じて欲しい」に応じて光源氏は後代の目利き読者の目にはどう映ったかを見ようとした先生の思惑が先走りしたとも言え、先生は契沖のあとに賀茂真淵、上田秋成、森鷗外、谷崎潤一郎、正宗白鳥……と、近世から近代に至るまでも諸家の光源氏評を見ていくのですが、『源註拾遺』の「大意」で契沖が言っているなかに「光源氏の品定め」と直接通じあうような文言はなく、そこで言われている「源氏の薄雲」とは「源氏物語」の「薄雲」の巻で、この「薄雲」の巻は光源氏三十二歳の年の冬に始まり、年が改まって三月、光源氏の父である桐壺帝の中宮(皇后より後に入内した天皇の妃)、藤壺の宮が崩御しますが、藤壺の宮は光源氏と関係をもって冷泉帝を生んでおり、藤壺の宮家に古くから仕える夜居の僧都の奏上によって自分の実の父は光源氏であると知った冷泉帝は、年明けから頻々と続く天変地異は帝である自分が父である源氏に子としての礼を尽さぬ故であると烈しく自省して光源氏に帝位を譲ろうとまで思いつめます、しかし源氏は帝を諫め、秋の司召(司召の除目、京の諸司の官吏を任命する儀式)には源氏を太政大臣にという帝の提言も固辞します。
したがって、『源註拾遺』の「大意」で契沖が言っている「源氏の薄雲にことありしは」は、「源氏物語」の「薄雲」の巻に描かれている光源氏と冷泉帝との間の父子関係、君臣関係をさしてのことであり、「父子に付ていはゞ、何の道ぞ。君臣に付ていはゞ、又何の道ぞ。」と契沖が「道」という言葉を畳みかけているのは小林先生が後文で言っているのと同じく「幾百年の間固定していた、『源氏』のもつ教誡的価値という考え」に強く異を唱えようとしてのことだったのです。
そして、これに続いて、
――匂兵部卿の浮舟におしたち給へるは、朋友に付て、何の道ぞ。夕霧薫のふたりは、共にまめ人に似たれど、夕霧は落葉宮におしたちて、柏木の霊に信なく、かほるの宇治中君の匂兵部卿に迎られての後、度〻たはぶれしも、罪すくなからず。……
と言われている匂兵部卿、浮舟、夕霧、薫、落葉の宮、柏木も「源氏物語」の作中人物であり、ここでも「何の道ぞ」、「罪すくなからず」と言われていますが、契沖はこの後すぐに次のように言っています。
――春秋の褒貶は、善人の善行、悪人の悪行を、面〻にしるして、これはよし、かれはあしと見せたればこそ、勧善懲悪あきらかなれ。此物語は、一人の上に、美悪相まじはれる事をしるせり。何ぞこれを春秋等に比せん、……
「春秋」は中国の史書で孔子の編集に成ると伝えられ、今日では「春秋の筆法」と呼ばれている筆致で歴史への批判を行ったとされていますが、契沖が言っている「春秋の褒貶」もこれと同一と解してよく、その「褒貶」すなわち良し悪しの評定は「春秋」にあっては人物に対してであれ物事に対してであれ個々別々に行われている、それゆえ「勧善懲悪」、善をすすめ悪をこらしめるという編者の意図は明瞭に読み取れて善悪の判断ができるのだが、「此物語は、一人の上に、美悪相まじはれる事をしるせり」……、「源氏物語」は光源氏をはじめとして一人の人間に美点も難点も交錯して見られることが書かれている、ゆえに「何ぞこれを春秋等に比せん」……、「源氏物語」は「春秋」などと同列に論じることはできないのだ……、すなわち「源氏物語」は教戒の書ではないのだと契沖は言うのです。
これを承けて小林先生は、
――言葉が烈しくなっているのは、幾百年の間固定していた、「源氏」のもつ教誡的価値という考えと、絶縁せざるを得なかったが為だ。……
と言い、続いて、
――式部が、此物語をかくに、人を引てあしくせんとは思ふまじけれど、其身女にて、一部始終、好色に付てかけるに、損ぜらるゝ人も有べし。又聖主賢臣などに准らへてかける所に、叶はずして、罪を得たればにや、地獄には入にけん」……、この「源氏物語」を書くにあたって紫式部は実在の誰かを登場させて非難しようなどとは思いもしなかっただろうが、女の身でありながら最初から最後まで好色の物語としたについては作中の人物を指して「自分が素材にされている、世間体を傷つけられた」と難癖をつけてくる女性も少なからずいたろうし、冷泉帝と光源氏を有徳の君主と聡明な臣下にいくらかなりともなぞらえたについては本意を誤解され、式部はそれらの「罪」によって地獄に堕ちたと言われたのであろう……、
契沖はそう言っていると小林先生は言い、
――物語を在りのままに読みたがらぬ註家達の卓説よりも、世間の俗説の方が増しだと契沖は言うのである。だが、それなら、此の物語を、どう読んだらいいかという事になると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ。……
と言って行を変え、
――この公平な研究家には、「源氏」を軽んずる心は少しもなかったが、『万葉代匠記』に精神は集中され、「源氏」研究は余技に属した。必ずしも卑下して、「拾遺」と呼んだわけではなかった。ところが、真淵となると大変様子が変って来る。この熱烈な万葉主義者は、はっきりと「源氏」を軽んじた。……
と、視線が賀茂真淵に転じられますが、先生の視線の向かうところは先ほど見たように賀茂真淵のあとは上田秋成、森鷗外、谷崎潤一郎、正宗白鳥……と諸家の光源氏評であって、今回の冒頭に引いた小林先生の言葉、
――源氏という人物の、辛辣な品定めをした最初の人は契沖であった。……
に見合う契沖の「光源氏の品定め」は第十七章ではほとんど示されていないのです。しかし、「源氏という人物の品定め」という言い方で小林先生が言わんとしたところは「源氏物語」の教誡的価値、すなわち儒教的、仏教的倫理道徳の物語化という古来の抽象的な先入観を敢然と排し、光源氏という一人の人間に「美悪相まじはれる」さまを具体的に描きだそうとした紫式部の筆法の吟味と毅然たる評価、それを小林先生は「光源氏という人物の辛辣な品定め」と言い、そういう品定めの先駆けとなったのも契沖だったと言ったのです。
しかし、先ほども引いたように、
――此の物語を、どう読んだらいいかという事になると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ。……
次回はこの「可翫詞花言葉」に焦点を合わせます。
(第十七章中 了)