小林秀雄「本居宣長」を読む(三十九)
第二十章 上 「賀茂真淵に敬問、謹問、萬葉学事始め」
池田 雅延
若き日、母勝の英断で医師になるため京都に遊学、その京都で契沖の学問にも出会い、古学への目を開かれた宣長は、松坂へ帰るや医業の傍ら「源氏物語」を愛読して門人たちにも講じ、この「源氏物語」愛読という「歌のまなび」から「古事記」に分け入って「道のまなび」へと歩を進めていた宣長の前に、「冠辞考」と題した著作を掲げて賀茂真淵が現れます。当初、宣長はその「冠辞考」に違和感を覚えましたが、結局は真淵に感化され、真淵の門に入りました。第二十章は、こういう宣長初期の学問歴に立って次のように語り始められます、真淵は三十四歳の年長でした。
――宣長にしてみれば、師と頼むはただこの人と、兼ねて思っていた人に会う好機を摑み、入門を果したのであるが、真淵の方は、松坂の名も無い医師に英才を発見したのは、全く思いもかけぬ驚きだったに相違ない。恐らく彼には、この舜庵と名のる医師を、わが最大の弟子と見抜くに、一夜の歓語で足りたのであろう。真淵は、よほど嬉しかったとみえて、松坂から帰ると、門弟等を招き、祝いの宴をひらいて、宣長を讃めた(川口常文、「本居宣長大人伝」)、と伝えられている。……
そして、
――「万葉集」に関する師弟の間の文通による質疑応答が、早速始まるのだが、これは、真淵死去の前年まで五年間、「万葉集」二十巻にわたり、前後二回くり返されている。私達が、宣長全集によって読むことが出来る「万葉集問目」がその成績であり、質疑は宣長謹問、或は敬問とあって、師弟の礼は取られてはいるが、互にその薀蓄が傾けられ、厳守されているのは、雑念を交えぬ学者の良心なのである。……
続いて、――その姿は、例えば次のようなものだ(「万葉集問目」十一)。「コノ伊ノ字ノ事、前ニ問申セシニ、何カ耶カ我ノ誤ナラン、カヽル所ニ、伊ノ助辞アルベクモナシトノタマヘリ、(中略)サルヲ、オシカヘシ、二タビ三タビ申スハ、イトモイトモ カシコケレド、疑ハシキヲ云ズテ、心ニノミコメタランハ、ナカナカニ(物事の状況が不徹底であるさまをとらえ、それに対する主観的な判断の気持をこめて用いる副詞/池田註記、『精選版 日本国語大辞典』による)罪重カリヌベケレバ、又シモ問申ス」と言って「続日本紀宣命」からいろいろと例をあげ、「ソガ中ニハ、ガト云テハ、語ヲ成サヌ所見エタリ。コレラモ猶誤字ナランカ。アナカシコ アナカシコ」――真淵の応答、「かへすがへす問給へり。必助辞とおぼさば、さて有なん。おのれは、惣ての辞を思ふに、此助辞、必有まじき事と思へば、何、我、耶等の誤字とのみせり。他に某何などいふ言なきならば、さともすべし。いくらも有からは、右は誤字とす」。……
――宣長の質疑は、私案を交え、初めから難訓難釈に関していたし、真淵は、難問に接して、常に「是はむつかし」「此事、疑あり」という率直な態度をとっていたし、「問目」は尋常の問答録を越え、「万葉」の、最先端を行く共同研究という形を為した。「廿巻竟以後、又々初より御再問之事致二承知一候。万葉はとかく四十年之熟覧ならでは成落いたしがたし。既出し候冠辞考も、追々誤謬有レ之、再々改正いたす事也」(明和四年正月五日、宣長宛)、「万葉再問、此度にて終候事珍重御事也。但万葉の考は、二度三度などにて、尽べからねど、さのみ一書に泥むべからねば、先此上は、他にうつり給ふがよき事也」(明和五年六月十七日、宣長宛)、宣長の「問目」は「続日本紀宣命」にうつる。……
小林先生はここまで言って一行空け、
――真淵は明和六年十月に歿した。……
と転じて、
――宣長に会って「のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば」と語った通りになったのだが、真淵の余生は、ただもう「万葉」との戦いに明け暮れた。明和五年十月に至って、漸く「万葉六巻迄草を終候」と宣長に報じている。彼は、「万葉集」の現在所伝の形に、不信を抱いていた。今の一、二、十三、十一、十二、十四の六巻だけが、「上つ代より奈良の宮の始めまでの歌を」「此のおとゞ(橘諸兄)撰みて、のせられし物也」(「万葉集大考」)と信じていた。この「万葉集」の原形と考えられるものの訓釈だけでも、急いで仕上げて置きたかった。仕事が訖って宣長に言い送る、――「猶再見候へば、ちりを払ふが如く、改むべき事出来候。此事は、四十年来之願ながら、無レ閑且はいまだしければ、不レ開レ口候ひしを、もはや命旦暮に迫り候へば――」。宣長宛の真淵の書簡を次々に見て行くと、「衰老は年々に増候」、「老年あすもしらねば、心急ぎも申候事也」の類いの言葉が相つぎ、「学事は昼夜筆のかはく間なく候へども、諸事埒明ぬものにて、何ほどの功も出来候はず」、「世間の俗事は、一向不レ致候へ共、雅事も重り過れば、さてさて苦敷候也」とあって、「万葉考」という重荷を負い、日暮れて道遠きに悩む老学者の姿が彷彿として来るのである。……
――最後の手紙(明和六年五月九日、宣長宛)から、最後の部分を引いて置こう。――「我朝之言、古歌に残り、古事記その書ながら、歌は句調の限り有て、助辞の略あり。記も漢字に書しは、全からず。たゞ祝詞宣命に、助辞は見ゆてふ事、己いまだいはざる事にて、甚感服いたし候。此宣命考出来候はゞ、序に書れ候へ。且宣命等を先訖候て後、古事記の考を可レ被レ問との事、是則既にいひし万葉より入、歌文を得て後に、記(「古事記」/池田註記)の考をなすべきは拙が本意也。天下の人、大を好て、大を得たる人なし。故に、己は小を尽て、大に入べく、人代を尽て、神代をうかゞふべく思ひて、今まで勤たり。其小を尽、人代を尽さんとするに、先師ははやく物故、同門に無レ人、羽倉在満は、才子ながら、令律官位等、から半分之事のみ好候へば、相談に不レ全候。孤独にして、かくまでも成しかば、今老極、憶事皆失、遅才に成候て、遺恨也。併、かの宇万伎、黒生などは、御同齢ほどに候へば、向来被二仰合一て、此事成落可レ被レ成候。但令義解、職原抄、古装束、古器物等之事も、一往心得ざれば、不足に候。此事も、末には何とぞ書入候。本にても伝へ可レ申候也。是はむつかしかれど、物方なれば、得やすし。只皇朝之丸様の意こそ、得がたけれ。猶可二申述一候へども、余繁文多事故遺候也。五月九日、まぶち。宣長兄。――是も臥学灯下之状御推察可レ被レ成候。万葉巻三(「万葉考」巻三)之清書判料を、書かゝり申候。さてさて労候也」……
ここで真淵が言っている「物方なれば、得やすし。只皇朝之丸様の意こそ得がたけれ」は、第四三章に引用されている門弟宛の書簡では「異朝の道は方なり、皇朝之道は円なり」とあり、「異朝」は中国、「方」は方形すなわち四角形ですが、この文脈での「方」は堅苦しいという意味合の「四角四面」を連想させ、何事であれ四角四面の物事は単調ゆえに対処しやすいが、これに対して「皇朝」の「丸様」、すなわち日本の道は円形で押さえどころが定めにくく、おいそれとは対処しにくいと真淵は言っているようなのです。
小林先生の文は続きます。
――宣長は、入門とともに、「古事記」原本の校合を始め、ついで真淵から「古事記」の書入本を度々借覧し、「古事記伝」の仕事を着々進めていたが、上の書簡集に明らかなように、質疑の方は、「万葉」より「宣命」に入り、「古事記」を問おうとする段となって、師の訃に接したのである。宣長の「日記」(明和六年十二月四日)には、「師賀茂県主、去十月晦日酉刻卒去之由、自二同門楫取魚彦一告レ之。其状今日到来。不レ堪二哀惜一」とある。魚彦の書状には、「当年は、別而被レ衰候と被レ覚候哉、万葉考取しきり被レ考、既八月中梓行之節(巻一、巻二、同別記)宇万伎は京都に居、野生は旅行、補助之人無レ之候故、壱人にて校合等、畢竟病根は万葉集にて、生涯此事に被レ終候」とある。――真淵の力は、「万葉」に尽きたのである。……
続いて第二十章では「万葉集」の享受史、研究史に真淵がどれほど貢献したかが語られ、だからこそ真淵晩年の苦衷は並大抵ではなかった、そういう真淵の苦衷を真に理解していたのは門人中、宣長ただ一人だったのではあるまいかと小林先生は言い、それほどまでに鋭敏だった宣長の感知力は、夙に尋常ならざる苛立ちを真淵にもたらしてもいたであろうと見てこの師弟愛の逆説に注目します。
(つづく)