小林秀雄「本居宣長」を読む(三十二)
第十七章中/続 詞花言葉を翫ぶべし
池田 雅延
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小林先生は、第十七章の主題を、――源氏という人物の、辛辣な品定めをした最初の人は契沖であった。……と言って始められましたが、この「源氏という人物の品定め」という言い方で先生が言わんとされたところは、「源氏物語」の教戒書的価値、すなわち、「源氏物語」は暗に儒教や仏教の倫理道徳を教えようとしたものであるというような古来の教条主義的物語観を排し、光源氏という一人の人間に「美悪相まじはれる」さまを多角的に描き出そうとした紫式部の筆法の吟味と評価だったのであり、それを小林先生は「光源氏という人物の辛辣な品定め」と言われ、そういう「品定め」の先駆けとなったのが契沖だったと言われたのですが……と前回、私は言って、では、
――此の物語を、どう読んだらいいかという事になると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ。……
と記された小林先生の言葉を引き、次回は(と言うことは今回は)、この定家卿、すなわち藤原定家が残した言葉、「可翫詞花言葉」に焦点を合わせます、と言いました。
しかし、小林先生は、この後に、
――この公平な研究家(契沖/池田注記)には、「源氏」を軽んずる心は少しもなかったが、「万葉代匠記」に精神は集中され、「源氏」研究は余技に属した。必ずしも卑下して、「拾遺」と呼んだわけではなかった。ところが、真淵となると大変様子が変って来る。この熱烈な万葉主義者は、はっきりと「源氏」を軽んじた。……
と言って筆鋒を「光源氏の品定め」の二番手、賀茂真淵に転じられ、以後、小林先生は「定家卿云、可翫詞花言葉」には言及されないまま「契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った」と第十八章の冒頭で言われて宣長はこの「可翫詞花言葉」をどう受け止め、どう応じたかが語られるのですが、契沖に続いた賀茂真淵には「可翫詞花言葉」は片言に過ぎないと見えていたばかりか「源氏物語」自体を真淵はまったく認めていなかったのです。そういう真淵のそれこそ辛辣な「『源氏物語』の品定め」に第十七章でかなりの語数を充てられ、最後に、――ただ、宣長を語る上で、無視するのが不可能な真淵である、という理由から、真淵の「源氏観」に触れた……と言われている小林先生の意図を読み取っていくためにも、「可翫詞花言葉」とはどういうことなのか、大凡ではあれこの段階で承知しておこうと思うのです。
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「詞花」とは、 たとえば『精選版 日本国語大辞典』では「詩や文章で、美しく巧みに表現したことば。詞藻。文藻。言葉の花」と言われ、「詞藻」は「文章の修辞。言葉のあや」と、また「文藻」は「文章のあや」と言われ、「あや」は「言葉や文章の飾った言い回し、表現上の技巧」と言われて、「翫ぶ」は「手に持って遊ぶ。手でいじって興じる。また、なぐさみの対象として興じる」と言われていますが、定家がこの「可翫詞花言葉」という言葉を残しているのはどこだろうと、私が国会図書館で追ってみたかぎりでは定家自身による「伊勢物語」の写本の奥書中でした。と言うことは、「可翫詞花言葉」ということを定家は「伊勢物語」に関して言ったのであり、「源氏物語」に関しても言っているかどうかは未詳ということなのですが、契沖には『源註拾遺』と並んで「伊勢物語」の注釈書『勢語臆断』もありますから、「伊勢物語」の写本に定家が「可翫詞花言葉」と書き残しているのを目にしていた契沖は、定家は「源氏物語」も「可翫詞花言葉」と思っていたにちがいないと推量し、「源氏物語」の註釈書『源註拾遺』の「大意」に、「定家卿云、可翫詞花言葉、かくのごとくなるべし」と書き残したのであろうとひとまずは思われるのです。
ところが、この契沖の「定家卿云、可翫詞花言葉、かくのごとくなるべし」は、『源註拾遺』の「大意」で、「源氏物語」に関わる事柄を長短ありとは言え箇条書きにした第十八項で次のように現れます。
――毛詩には后妃の徳化を示し、鄭衛の詩は淫放をいましむ。美悪水火のごとし。但し文章においては鄭衛の詩もおとるべからず。此物語は人々の上に美悪雑乱せり。もろこしの文などに准らへては説くべからず。<定家卿云、可翫詞花言葉、かくのごとくなるべし>……。
ここで言われている「毛詩」は「詩経」の別名で、「后妃の徳化を示し」は、王侯の妻は徳によって人民を教化し、であり、「鄭衛の詩」の「鄭衛」は鄭と衛の二国で、この二国の音楽は淫らで人心を乱すものであったが、同じ二国の鄭と衛の詩はそういう自国の音楽の淫靡放縦を戒めており、彼の地では火と水のように相対する悪と美、すなわち淫靡と節操という人間界の倫理道徳に適合しない面と適合する面は截然と区別して論評されている、だがわが国の「源氏物語」では一人の人物に美と悪が共存しているさまが描かれている、だから「源氏物語」は、中国の書物と同一に扱ってはならないのだと契沖はまず言うのです。この引用文中に見えている「文章においては」の「文章」は、散文だけでなく何らかの統一感を帯びている言語表現すべてを含み、それ自体で表現が完結していれば詩や和歌や俳句等々も含んで言われる「文章」ですが、契沖はこれだけのことを言いきった最後に、< >で括って「定家卿云、可翫詞花言葉、かくのごとくなるべし」と言っているのです、と言うより、付言しているのです。と言うことは、契沖が定家の「可翫詞花言葉」を『源註拾遺』に引いた第一の狙いは「物語は詞花言葉を翫べ」にあったのではなく、「物語を前にして倫理道徳を云々するな」にあったと言えるのですが、こういうふうに読んできてみれば、今回懸案としている「定家卿云、可翫詞花言葉」は、前回引いた『源註拾遺』「大意」の「源氏物語 薄雲の巻」を論じた次の件、
――春秋の褒貶は、善人の善行、悪人の悪行を、面〻にしるして、これはよし、かれはあしと見せたればこそ、勧善懲悪あきらかなれ。此物語は、一人の上に、美悪相まじはれる事をしるせり。何ぞこれを春秋等に比せん」……
と同じ見解が示されているのです。下世話に言えば、< >で括って駄目押しするかのように示されているのですが、これを受けて言われた小林先生の言、「それなら此の物語を、どう読んだらいいかという事になると、『定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし』と言っただけで、契沖は口を噤んだ」には別角度からの註解が要ります。
定家の遺訓「可翫詞花言葉」を、契沖はどういう思いで『源註拾遺』に引いたのかは第十七章では語られず、そのまま第十八章まで棚上げされるのですが、この間、小林先生の脳裡には、第十六章で述べられた次の条が蘇っていたと思われます。
――「源氏」についての、まともな文学上の評価は、俊成の有名な歌合判詞、「源氏見ざる歌詠みは、遺恨の事なり」から始まったと言われるが、彼が「源氏」に動かされて、苦境に立たなかったのは、歌道という堅固な防壁のうちに居たからだ。無論、防壁などと、彼自身夢にも考えていたわけはない。わが国の正統文学の指導者を以て任じていた人に、たまたま「源氏」が目にとまったというに過ぎない。王朝文化総崩れの期に際し、「古今」以来の勅撰集の流れに、新生命を吹込もうと、心を砕いていた俊成の審美眼は、ひどく気難かしいものであったが、「源氏」の高度の文体は、これに充分に答えるものと見えた、ただそれだけの事であった。低級な物語の類いのうち、何故「源氏」だけが格別なものなのか。何故、作者は、日常生活の起伏を物語るのに、あれほど精緻な文体を必要としたのか。この種の疑問は、俊成には、少しも必要ではなかった。詠歌の資料として、歌学の参考書として、「源氏」が部分的に利用出来れば、足りたのであった。言うまでもなく、定家も父親の流儀に従ったのであり、当時の歌宗によって始められたこの「源氏」評価の流儀は、宣長が、「今世中に、あまねく用ふるは湖月抄也」(「玉のをぐし」一の巻)と言った、江戸期の「湖月抄」まで続くのである。……
見てのとおり、「源氏物語」の最も早い文学的評価は定家の父、藤原俊成によってなされたのでしたが、俊成は平安末期から鎌倉初期にかけての歌人、歌学者で、後白河院の命によって『千載和歌集』を撰進するなど斯界の第一人者でしたから、「源氏物語」も詠歌、歌学の参考資料としてのみ評価し、この評価軸は子の定家にも継承されたと小林先生は言っています。と言うことは、定家の言う「詞花言葉」は「美しく巧みに表現された、詠歌に役立つ言葉遣い」の意であり、したがって定家は「伊勢物語」に関しても「可翫詞花言葉」は歌を詠む人たちに向けて言ったのであって、物語を読む人たちに言ったのではないと思われるのですが、そういう定家の内心を契沖は早くに感じ取っていました。
小林先生は、――それなら此の物語を、どう読んだらいいかという事になると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ。……と言われていますが、ここで言われている「契沖は口を噤んだ」はそれこそ第十八章で精しく言及される本居宣長へと橋を架けるための小林先生の言葉の文であって、契沖は「源氏物語」をどう読むかについて、『源註拾遺』の「大意」ではたしかに今日の方法論的なことは言っていないものの、『源註拾遺』の本篇に入ると「口を噤む」どころか「此の物語を、どう読むか」を「源氏物語」本文の一行ごとにと言ってもいいほど丹念に示しているのです。因みに、ここに、前回引いた、契沖が「源氏物語」の教条主義的な読み方を鋭く咎めた「薄雲」の巻から、そういう教条主義的な読み方を論難するのではない箇所に施されている註釈文を引いてみます。次の引用文の一行目は「源氏物語」の一節と契沖の覚書で、たとえば「今案」は、今、考えている、の意、「蝉丸」は平安時代前期の歌人の名、そして二行目は一行目の文中に見えている言葉を含む和歌などです、と言うことは、二行目は、これが紫式部が当該箇所を書くにあたって依拠したか連想したかの「詞花言葉」だと、契沖が可能な限り記憶を繙き、手近な歌集や書物を閲見して行き当った「詞花言葉」が示されています。
一 わかみはとてもかくても同しこと〇今案、蝉丸
世の中はとてもかくても同しこと宮もわらやもはてしなけれは
一 又手をはなちてうしろめたからんこと〇今案 万葉十一
たらちねのはゝか手はなれかくはかりすへなきことはいまたせなくに
一 中々にをちかた人は心おくとも〇今案、此心おくとは
露ならぬ心を花に置そめて人に心をおきつしらなみ
此置なり。隔心するをいふにはあらず
こうして契沖は定家の遺訓を逸早く受け止め、『源註拾遺』の全篇を通して「源氏物語」の「詞花言葉」を翫んだのです。
なおまた小林先生は、「契沖は口を噤んだ」と言われた直後に、――この公平な研究家には、「源氏」を軽んずる心は少しもなかったが、「万葉代匠記」に精神は集中され、「源氏」研究は余技に属した。必ずしも卑下して、『拾遺』と呼んだわけではなかった。……と言われていますが、昭和四十九年四月に岩波書店から出た『契沖全集』第九巻の解説で、久松潜一氏は『源註拾遺』には『湖月抄』の拾遺というべき性質があると言われていて、その『湖月抄』は先ほど、本居宣長が「今世中に、あまねく用ふるは湖月抄也」と書き残していると言われていた「源氏物語」の先行註釈書ですが、契沖の『源註拾遺』が久松氏の言われるとおりであるなら、『源註拾遺』の「拾遺」は『湖月抄』に敬意を表する意味合もこめて契沖自身の註釈の実態を率直に言った言葉とも思われます。
(第十七章中続 了)