小林秀雄「本居宣長」を読む(三十八)

小林秀雄「本居宣長」を読む(三十八)
第十九章
 おもふこと、ひたぶるなるときは、ことたらず
池田 雅延  
         

  今回は、第十九章の後半です、小林先生は言います、 
 ――さて、宣長が回想文で、われ知らず追っているものは、言わば書物という対象のうちに、己れを捨ててのめり込む精神の弾力性であり、その動きの中で、真淵の「冠辞考」が、あたかも思いもかけず生じた事件の如く、語られている。そして、それが「歌まなび」から、「道のまなび」に転ずる切っかけを作ったと言うのだが、事件の性質については、はっきりした説明を欠いている。一体何が起ったのか。……
 そして、言います、
 ――真淵の呼ぶ冠辞とは、言うまでもなく、今日普通枕詞まくらことばと言われているもので、「記紀」「万葉」等から、枕詞三百四十余りを取り出し、これを五十音に排列はいれつ集成して、その語義を説いたのが「冠辞考」である。既に長流も契沖もこの特殊な措辞そじを枕詞と呼んで、その研究に手を染めてはいたが、真淵の仕事は、長年の苦心経営に成る綿密な組織的なもので、この研究に期を劃した。板行はんこうとともに、早速松坂に居た宣長が、これを読んだと言うのだから、余程評判の新刊書だったに相違ない。事実、語義考証の是非について、いろいろな議論が、学界をにぎわしたのである。ところが、宣長の回想によると、彼のこの書の受取り方には、この書の評判の外にある、何か孤独なものが感じられる。彼は、これを一読して、「さらに思ひもかけぬ」「あまりこととほく、あやしき」ものと見たが、この「さらに信ずる心はあらざりし」という著作が、次第に信じられ、遂に、かの契沖の「万葉」研究も、「なほいまだしきこと」と言えるようになるまで、長い間の熟読を要したと言うのは、どういう意味であろう。……
 かつて真淵には「冠辞」と呼ばれ、今日では一般に「枕詞」と呼ばれている歌語で私たちにも比較的馴染みがあるのは「山」や「峰」などにかかる「あしびきの」、「母」にかかる「たらちねの」、「内」や「命」にかかる「たまきはる」などですが、たとえばそれらのひとつ、「たまきはる」を真淵はどう解しているでしょうか、小林先生の問いを頭において、『冠辞考』巻五「多ノ部」を開いてみます、真淵はこう言っています、
 ――たまきはる、うち、いくよ、いのち 
 古事記に、(建内の宿禰に賜ふ仁徳の大御歌)多麻岐波流タマキハル宇知能阿曾ウチノアソ那許曾波ナコソハ余能那賀乃比登ヨノナカノヒト、云云、(仁徳紀には豫能等保臂等ヨノトホヒトとあり、)萬葉巻五に、タマキハル内限者ウチノカギリハ平気タヒラケ、巻六に、霊剋タマキハル寿者イノチハ不知シラズ、巻十一に、玉切タマキハル命者棄イノチハステツ、云云、(此外さまざま借字して書る多かれど意は同じ、)こは多麻タマタマ也、岐波流キハルキハマルにて、人の生れしより、ながらふるカギリを遥にかけていふ語なり、故に内の限とも息内イノチとも幾代ともつゞけたり、さるを後の人命の今終るキハみをいふとのみ思へるは、此冠辞の本の意にあらず、いかにぞなれば右の霊剋タマキハル内限者ウチノカギリハタヒラてふ歌の憶良の自序に、膽浮洲人、壽百二十歳、謹案此数非必不得過此、云云、といひて、遥に百二十を、凡の生涯イキノカギリとするを合せ見よ、且言忌コトイミせぬ上つ世といへど、今死に臨むをいふ語ならませば、其人の名に冠らしめてはのたまはせじ、又内の限りは平らけくと末かけていふのみならず、幾代経ぬらむと、前を遥におもへるさへ有を見よ、〇巻一に、(舒明の遊猟給ふ時)玉刻タマキハル内大野ウチノオホヌニ、云云、この玉刻春三字は借字にて、意は右に同じ、訓も同じく玉き留と唱へよ(と唱ふるは、音便の半濁なり、)後の人此字に泥みて、タマキを春打とつゞけたりなどいふは、云にもたらず、古歌の冠辞に、玉と春と打となど様に言多くいひつむる事はなし、【後世正月はぶりぶりてふ童あそびの有をもていふとし、又はま弓てふ弓して射る事も有故に、射ともつゞくなどいふよ、】……
 この後、「巻十一に、……」「巻十二に、……」と続き、「〇巻十に、」「〇又巻十五に……」と『萬葉集』に見える「たまきはる」に同様の考察が加えられて次の冠辞「たまのをの」に移り、こうして『冠辞考』は巻十まで、これに『続冠辞考上』『続冠辞考下』『続冠辞考別記』が続いています。

 小林先生はこれを読んで、――彼は(宣長は/池田註記)、これを一読して、「さらに思ひもかけぬ」「あまりこととほく、あやしき」ものと見たが、この「さらに信ずる心はあらざりし」という著作が、次第に信じられ、遂に、かの契沖の「万葉」研究も、「なほいまだしきこと」と言えるようになるまで、長い間の熟読を要したと言うのは、どういう意味であろう。……
 と言ったのです。先生は、宣長に倣って真淵の『冠辞考』を熟読し、宣長の心中に、終始、思いを馳せていました。
 そして、幾度かの熟読の後に言います、
 ――恐らく、宣長の関心は、紙背しはいに感じられた真淵の精神にあった。書中から真淵の強い精神が現れるのが見えて来るには手間がかかった、と語っていると解する他はないように思う。「冠辞考」には、専門家の調査によると、例えば、延約略通の音韻おんいん変化というような、大変無理な法則が用いられていて、「冠辞考」を信じた宣長は、その為に、後日、多くの失考を「古事記伝」の中に持ち込む事となったという(大野晋氏、「古事記伝解題」)。そうには違いないとしても、私の興味は、無理を信じさせた真淵の根本思想の方に向く。仕事の企図を説いてはいるが、直観と情熱とに駆られて、走るが如き難解な、真淵の序文を、くり返し読みながら、私は、そういう事をしきりに思った。……
 ――真淵が、この古い措辞を、改めて吟味しようとした頃には、この言葉は既に殆ど死語と化して、歌人等により、意味不明のままに、歌の本意とは関係なく、ただ古来伝世の用例として踏襲されていた。死語は生前どんな風に生きていたか。例えば、冠辞の発明、活用にかけて、ひと麿まろは「万葉」随一の達人ではあったが、彼が独力でこれに成功したわけはなかろう。彼が歌ったように「言霊ことだまたすくる国」に生きる喜び、自国に固有な、長い言語伝統への全幅の信頼が、この大歌人の才を保証していたであろう。真淵がひたすら想い描こうとしたのはそれである。……
 ――枕詞とは何か。
「たれやし人か、心に得まくほりせざらん、しかはあれど、しもつ世のならはしもて、思ひはからば、違ふ事おほかるべし、かれひたぶるに、かみつ世の心ことばをしるべき也。たとへば冠をあふぎて、その位をしり、おもてにむかひて、その人をしり、衣を見て、その姿をしるときは、それがあまりは、そらにしもしらるゝが如し」と真淵は言う。「万葉」の世界で、豊かに強く生きていたこの措辞の意味を、後世のさかしら心に得ようとしてもかなわぬ。強いて定義しようとすれば、その生態が逃げてしまうであろう。この言葉の姿をひたぶるに感ずる他はない。真淵はそう言いたいのである。彼は感じたところを言うだけだ、冠辞とは、「たゞ歌の調べのたらはぬを、とゝのへるより起て、かたへは、詞を飾るもの」であると。事は、歌の調べ、詞の飾りの感じ方に関わる。真淵は言う、「いとしもかみつ世には、人の心しなほかりければ、言語こととひも少なく、かたち、よそひも、かりそめになん有けらし」。それが、やがて「身にかうむりあり、衣あり、くつあり、心にうれしみあり、悲しみあり、こひしみあり、にくしみあり」という事になる。詞の飾りに慣れ、これをもてあそぶ後世人は、詞の飾りの発生が、身のよそおいと同じく、いかに自然であり、生活の上で必要であったかを忘れている。……
 ――冠辞が普通五音から成っているのも、わが国の歌が五七調を基調としているからであり、詞の飾りも、真淵に言わせれば、「おのづからあめつちのしらべ」に乗らざるを得なかった。歌が短歌の形に整備された「万葉」の頃となっても、「おもふこと、ひたぶるなるときは、ことたらず」という状態は依然として続いていたのであって、この状態を土台として、歌人等にあって、冠辞という一種の修辞の盛行を見たというのが真淵の考えだ。時代は下ったが、「心は上つ世の片歌かたうたにことならず、ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言みやびごともて飾れゝば也、たとへ貴人うまびとのよき冠りのうへに、うるはしき花ざせらんが如し」。……
 ここで言われている「片歌」は、たとえば「はしけやし 我家わぎえの方よ 雲居立ち来も」(「古事記 中」)のように五・七・七の三句で一首をなした古代の歌謡ですが、これを受けて小林先生は言います、
 ――真淵の基本的な考えは、「おもふこと、ひたぶるなるときは、ことたらず」という言葉にあると言ってよいと思う。真淵は、「冠辞考」を書くに際し、当時普通に使われていた枕詞という言葉を捨て、先師荷田春満かだのあずままろが言い出した冠辞という言葉を用いた。何故かと言うと、「枕詞とては、古きみやび言とも聞えず。まくらは夜の物にてかたより、冠りは日のものにて、もはら也。物の上におくことを冠らすといふも、いにしへ今に通へる語なれば、これによれり」とあるだけだ。一読して、これでは理由ともならぬように見えるが、「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という考えが根柢にあったと見れば、うなずけるであろう。彼は又こうも言っている、「心ひたぶるに、言のすくなきをおもへば、名は後にして、事はさきにし有べし」――冠辞という名が生れて来る必然性は、「心ひたぶるに、言のすくなき」という歌人の健全な、緊張した内的経験に由来するのである。冠辞は、勿論理論にも実用にも無関係な措辞だが、思い附きのぜいでもない。ひたすら言語の表現力を信ずる歌人の純粋な喜び、尋常な努力の産物である。それが、「冠りは日のものにて、もはら也」と言う真淵の下心であろう。冠辞という呼称についての真淵の直観は、春満の場合より遥かに深いのである。……
 ――古く「源氏」にも、枕言マクラゴトという言葉は見えるが(「桐壺きりつぼ」)、真淵はこれに触れ、冠辞の性質に言及している。「源氏」にある枕言とは、「古ごとをしきもて、今の思ひをいふ故の語」であるが、自分が冠辞と呼びたい上代の措辞には、「こを本として、下の意をいふ」性質は全くないものだ。それは、歌の調べに鋭敏な歌人の半分無意識な欲求から生れたものであり、その生き生きとした表現の自主性に、後世の人々は次第に鈍感になった。鈍感になってから、人々は枕言とか、歌枕とか、枕草子とかいうたぐいの言葉を使い出したのである。そういう話の種としての、思い述べるりどころとしての、それ自身は表現力の薄弱な、便宜的な説明語と冠辞とは全く違うものだ。
「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず、言したらねば、思ふ事を末にいひ、あだこともとに冠ら」す、――調べを命とする歌の世界では、そういう事が極く自然に起る。適切な表現が見つからず、しかも表現を求めてまぬ「ひたぶるなる思ひ」が、何よりも先ず、その不安からのがれようとするのは当り前の事だ。自身の調べを整えるのが先決であり、思う事を言うのは末である。この必要に応ずる言葉が見附かるなら、「仇し語」であっても差支えあるまい。或はこの何処どこからとは知れず、調べに送られて現れて来る言葉は、なるほど「仇し語」に違いあるまいとも言えよう。それで歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事になろう。いずれにせよ、言語の表現性に鋭敏な歌人等は、「言霊のたすくる国」「言霊のさきはふ国」を一歩も出られはしない。冠辞とは、「かりそめなる冠」を、「いつとなく身にそへ来たれるがごと」く用いられた措辞であり、歌人は冠辞について、新たな工夫は出来たであろうが、冠辞という「よそほひ」の発生が必至である言語構造自体は、彼にとっては、絶対的な与件であろう。
 冠が頭につくが如く、「あしびきの」という上句は、「このかた山に」という下句に、しっくりと似合う。真淵の用語で言えば、「おこすことば」と「たすけことば」という別々のものが、互に相映じ、両者の脈絡は感じられるが、決してあらわにではない。真淵が抱いていた基本的な直観は、今日普通使われている言葉で言えば、言語表現に於けるメタフォーアの価値に関して働いていたと言ってよいであろう。どこの国の文学史にも、詩が散文に先行するのが見られるが、一般に言語活動の上から言っても、私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じていた事に間違いあるまい。今日、私達が慣れ、その正確と能率とを自負さえしている散文も、よく見れば遠い昔のメタフォーアの残骸ざんがいをとり集めて成っている。これは言語学の常識だ。素朴な心情が、分化を自覚しない未熟な意識が、具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像に執着するのは、見やすい理だが、この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性を覆うわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう。「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という真淵の言葉を、そう解してもよいだろう。……
 ここで小林先生が真淵の言う「冠辞」から連想された「メタフォーア」は今日の日本では一般に「メタファー」と言われ、日本語としての訳語では「隠喩」あるいは「隠喩法」と言われていますが、『精選版 日本国語大辞典』には「隠喩法 修辞法の一つ。たとえを引いて表現するのに、「のごとし」「のようだ」などの語句を用いない方法。文勢をひきしめ、印象を強める効果を持つ。「海山の恩」「人生は旅だ」「名を流す(名声、評判の伝わるさまが水の流れるようだの意)」などの類。」と言われ、『大辞林』には「隠喩」の項に「言葉の上では、たとえの形式をとらない比喩。『…の如し』『…のようだ』などの語を用いていない比喩。『雪の肌』『ばらの微笑』の類。」と言われていますが、「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という真淵の言葉を見つめて小林先生の言わんとされているところをつい先ほどの引用文に続けて引きます。
 ――ところで、この種の言語像への、未熟なと呼んでも、詩的なと呼んでもいい強い傾きを、言語活動の不具疾患と考えるわけにはいかないのだし、やはりそこに、言語活動という、人々の尋常な共同作業が行われていると見なす以上、この一見偏頗へんぱな傾きも、誰にも共通の知覚が求めたいという願いを、内に秘めていると考えざるを得まい。この秘められた知性の努力が、メタフォーアを創り出し、言葉の間隙を埋めようとするだろう。メタフォーアとは、言わば言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたものである。真淵が、「万葉集」を穴のあくほど見詰めて、「ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言もて飾れ」る姿に感得したものは、この初動の生態だったと考えていい。……
 ――以上、「冠辞考」の序を、くりかえし読むうちに、思い得たところを書いて来たまでだが、あえて言えば、宣長がそのように「冠辞考」を読んだと想像してみてもいる。やがて言及するが、宣長は既に「あしわけ小舟」のうちで、言語について非常に鋭敏な考えを述べている事だし、私の勝手な想像も、そう見当はずれのものではあるまいと考えている。ちなみに、宣長の枕詞に関する考えは、「たま勝間かつま」に見える。わが真淵の冠詞カウブリコトバという呼称は、ことわりにかなっているが、枕詞とは今日誰も言い習わしている事だし、又、この言葉の意味合をよく考えてみれば、枕詞で別段仔細しさいはない、というのが宣長の意見である。「是を枕としもいふは、かしらにおく故と、たれも思ふめれど、さにはあらず。枕はかしらにおく物にはあらず。かしらをさゝゆるものにこそあれ。さるはかしらのみにもあらず、すべて物のうきて、アヒダのあきたる所を、さゝゆる物を、何にもまくらとはいへば、名所を歌枕といふも、一句言葉のたらで(足りないため/池田註記アキたるところにおくよしの名と聞ゆれば、枕詞といふも、そのでうにてぞ、いひそめけんかし」(八の巻)
 第十九章は、ここまで言って閉じられますが、小林先生が真淵の言う「冠辞」の起りに関して「メタフォーア」を想起されたについてはその接点をもうすこし見ておこうと思います。とは言え、ひとまずは手近なところで以前に一瞥いちべつした「Google」をもう一度見てみようという程度のことなのですが、典拠をフリー百科事典の『ウィキペディア(Wikipedia)』とことわって、「Google」には次のように言われています。
 ――メタファーは、言語においては物事のある側面をより具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え、簡潔に表現する機能をもつ。わざわざ比喩であることを示す語や形式を用いている直喩よりも洗練されたものと見なされている。……
 ――メタファーは人間の類推能力の応用とされることもあり、さらに認知言語学の一部の立場では、人間の根本的な認知方式のひとつと見なされている(概念メタファー)。メタファーは、単に言語の問題にとどまるというよりも、もっと根源的で、空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリ把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきている。……
 ――メタファーは人間が根本的に持つ世界の認知、世界の見え方に深く関わっており、聞き手の心の状況に合ったメタファーは強く心を打ち、大きな影響力を持つ。……
 ――聖書は、メタファーと譬え話に満ちた文書の典型としてしばしば挙げられている。聖書およびイエス・キリストのたとえ話は、西洋文学におけるメタファーのありかたに多大な影響を与えている。
 私は、世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです― 新約聖書、『ヨハネによる福音書』
 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか― 新約聖書『マタイによる福音書』……
 ――仏教においても、仏陀は、相手に応じて比喩を巧みに用いて説いたとされ、メタファーに満ちた話が現在まで伝わっており、仏教圏の人々には広く浸透している。……
 ――初めてメタファーの意義に言及したと言われているのはアリストテレスであり、彼は『詩学』のなかで次のように述べている。
「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」……

 メタファーの達人……。小林先生は、『萬葉集』を代表する歌人、柿本人麻呂を、冠辞の発明、活用にかけて、「万葉」随一の達人ではあったが、彼が独力でこれに成功したわけはなかろう、彼が歌ったように「言霊ことだまたすくる国」に生きる喜び、自国に固有な、長い言語伝統への全幅の信頼が、この大歌人の才を保証していたであろう。真淵がひたすら想い描こうとしたのはそれである。……と言われていました。
 アリストテレスは古代ギリシャの哲学者です。
(つづく)