小林秀雄「本居宣長」を読む(九)
第六章 契沖の一大明眼
池田 雅延
1
――「コヽニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ、大凡近来此人ノイヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロカシタルユヘニ、ヤウヤウ目ヲサマシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(「あしわけをぶね」)……
第六章は、本居宣長の「あしわけをぶね」からの引用文で始められます。文中で言われている「此道」は、「歌の道」です。「オドロカシタル」は、目を覚まさせた、です。
契沖は、先に第四章で初めて登場し、次のように言われていました。
二十歳を過ぎた頃、宣長は母の計らいによって生計の道を医術に求め、京都に遊学して医学とともに儒学、和学も学びましたが、
――京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ(「玉かつま」二の巻)……
そして第六章に入り、契沖の「よに(非常に)すぐれたるほど」は、「ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」……、そこに見られた、と小林先生は再び宣長自身に言わせ、続いて言います。
――宣長は、「玉かつま」で言っているように、京に出て、初めて、「百人一首改観抄」を見て以来、絶えず契沖の諸本に接していたらしい。契沖の畢生の仕事であった「万葉」研究にも、在京中、既に通暁していたと考えてよい。宝暦七年、京を去る半年ほど前に、景山家蔵の「万葉集」の似閑書入本を写した事が知られている。宣長の奥書に、「契沖伝説ノ義、代匠記ヲ待タズシテ明カナルモノ也」という言葉がある。久松潜一氏の綿密な研究によれば(「契沖全集」旧版第九巻、伝記及伝記資料)、この本は、元禄二年に成った契沖自筆の校讎本に拠ったものだが、そうすると、彼が「万葉代匠記」の初稿本を水戸義公に献じた後、水戸家から「万葉集」の校合本を借覧し得て、次いで献ずる「万葉代匠記、精撰本」について勘考していた時期の作という事になる。のみならず、似閑の書入があったという事になれば、契沖晩年の「万葉」講義を聴聞したこの高弟を通じて、契沖の円熟した考えが、其処に見られた事になるのであり、要するに、宣長は、当時、民間人で入手出来た、「万葉」研究に関する、先ず最良本に接していたと言ってもいい。……
いまここに引いたこの件にも、契沖という人は宣長にとってどんなに偉大な先達であったかが語られているのですが、その眼目は、「百人一首改観抄」「古今余材抄」「勢語臆断」と並んで、という以上に、それらの頂点に立つ契沖の仕事として、「萬葉代匠記」があった、ということなのです。宣長は、「玉かつま」では「萬葉代匠記」に言及していませんが、契沖に「萬葉代匠記」のあることは早くに知っていて、契沖が「萬葉代匠記」で言っていることの主旨は、契沖の高弟、今井似閑の書き入れ本を通じてではあっても宣長は確と腹に入れていた、ということを読者にも確と心得ておいてもらうために、小林先生は敢えてこれだけのことを言っているのです。
「校讎本」の「校讎」は「校正」「校合」と同義の言葉で、ひとつの詩歌や文章を収めた複数の書物の間でその詩歌や文章の何ヵ所かに異同が見られるとき、それらを相互に照らし合せて元々の様態はどうであったかを割り出す作業を言いますが、いまはひとまずそこは措き、ここでの緊要は「契沖の一大明眼」です、宣長が「契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」と言っている「一大明眼」は、「百人一首改観抄」「古今余材抄」「勢語臆断」に先立った「萬葉代匠記」でもう赫々と光っていたのです、「此道」の「本来ノ面目」も、「萬葉代匠記」で確実に見出されていたのです。
ではその「萬葉代匠記」です、先の引用文に、「彼(池田注記/契沖)が『万葉代匠記』の初稿本を水戸義公に献じた後……」と言われているように、契沖が「萬葉代匠記」を成すにあたっては、徳川御三家のひとつであった水戸藩の第二代藩主、徳川光圀(諡号、義公)が大きく関わっていました。より正確には、「萬葉代匠記」は光圀の委嘱を受けて契沖が書き上げ、光圀に献じたのです。
今日、水戸光圀は、「水戸黄門漫遊記」の水戸黄門として知られていますが、その「黄門漫遊記」は幕末から明治にかけての頃に現れた講談が基となっているに過ぎず、江戸時代初期の寛永、元禄の時代に実在した水戸光圀は諸国漫遊どころか遠出ですらも鎌倉の寿福寺にただ一度出向いたという記録が残っているだけで、老後は水戸の近在、西山に隠棲して、青年時代からの宿願「大日本史」の編纂に勤しみました。
光圀の父、水戸藩初代の頼房は、兄頼重を越えて光圀を世子(あとつぎ)と決めていましたが、十六、七歳頃までの光圀は常軌逸脱、傍若無人のかぶき者同然で、臣下の儒者に奨められても書物はまったく顧みようとしませんでした。ところが、十八歳を迎えた年、司馬遷の『史記』で「伯夷伝」を読んで衝撃を受けます。「伯夷伝」とは伯夷・叔斉という兄弟の伝記ですが、この兄弟の父は孤竹という国の諸侯(古代中国で、天子から封土を受け、その封土内を支配した君主)で、弟の叔斉に跡を継がせようとしていました。しかしその父が死んだとき、叔斉は兄を差し置いて弟の自分が父の跡を継ぐことはできないと言って伯夷に譲ろうとしました、しかし伯夷は父の遺志にそむくことはできないと言って家を出てしまい、叔斉もまた兄のあとを追うようにして家を出てしまったため、孤竹の人々はやむなく中の子を立てて跡を継がせた……というのです。
これを読んで光圀は、光圀が十二歳だった年、兄の頼重は常陸の国の下館五万石の大名となって分家させられたこと、さらに光圀が十五歳だった年、兄は讃岐の国の高松に改封されて十二万石を与えられ、西国、中国の目付役を命ぜられたもののこの抜擢は水戸家の長男に生まれながら水戸家を継げなかった頼重に対する将軍家光の温情であっただろうことなどを思い出し、十八歳という歳まで兄の心中を思いやることすら一度としてなかった己れを恥じたばかりか罪の意識に駆られ、自分の後の水戸家は必ず兄の子に譲ると決心しました。それとともに人に人の道の何たるかを教える歴史書の不可欠なることを痛感し、自ら「日本の『史記』」を編むことを決意しました。そして「彰考館」と名づけた史書の編纂局を藩邸内に置き、五十人をはるかに超える学者を続々全国各地から招聘して史臣としました。
しかも光圀は、こういう経緯で立志した史書の編纂に没入するうち、「廃れたるを興し、絶えたるを継ぐ」という信念に達し、平安時代から江戸時代初期に至る間の和文三〇二篇を蒐集した『扶桑拾葉集』、朝廷・公家の儀式典礼の史料を部類分けした『禮儀類典』などの編修とともに、『萬葉集』の「興廃継絶」に意欲を燃やしました。
光圀は古典のなかでも『萬葉集』をとりわけ好みましたが、その『萬葉集』は早くに原本を書写した写本が生まれていたと考えられ、さらにその写本が書写されて新たな写本がいくつも生まれ、それらがさらに書写され、また書写され……、という時代が一〇〇〇年にもわたって続いたことによって誤字、脱字、衍字も数多く発生し、原本が行方知れずとなっていた江戸時代には本来の『萬葉集』はどういう姿であったかがほとんどわからなくなってしまっていました。
そこで光圀は史臣に命じ、『萬葉集』の写本、版本を各種集めさせ、それらを校合して原本により近いと思われる表記を確定するための研鑽を始めました。そしてそのうち、下河辺長流という『萬葉集』に通じた学者が関西にいると聞き及び、長流に『萬葉集』の校訂と註釈を依嘱しました。しかし長流は、病身であったことから事を成さぬまま世を去ります、長流から歌友に契沖という真言宗の僧がいると推挙を受けていた光圀は、長流のあとを契沖に託しました。
契沖は、長流になりかわって、という謙譲心を書名にこめた「萬葉代匠記」を貞享四年(一六八七)頃、光圀に献じました。しかしその契沖の註釈は、当時最も流布していた「寛永版本」を底本として行われていましたが、「寛永版本」以外の本は参看されていなかったため、光圀は光圀自身が四種の本を史臣に校合させて整備していた「四点萬葉」を契沖に貸し与え、あらためて最初から校訂、註釈を行うよう要請しました。これを承けて契沖は、全文、稿を改め、元禄三年(一六九〇)、再度光圀に献じました。光圀はこの二度目の「萬葉代匠記」を嘉納し、こうして最初に献じられた「萬葉代匠記」は「初稿本」と呼ばれ、再度献じられた「萬葉代匠記」は「精撰本」と呼ばれるようになったのですが、光圀としては契沖の校訂、註釈を基として水戸藩独自の「萬葉」学を興すつもりでいましたから、契沖の手を離れて以後、「萬葉代匠記」は彰考館に秘蔵され、久しく公にされることはなかったのです。
2
そして、さて、第六章の本論です、小林先生は言います。
――ところで、彼が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。……
一般に「面目」という言葉は、次のような意味合で言われます。
『広辞苑』によれば、
一、 顔つき。かおかたち。
二、 世間に対する名誉。
三、 様子。有様。
『日本国語大辞典』によれば、
一、 顔かたち。顔つき。容貌。
二、 すがた。様相。また、外から見た様子。
三、 おおもとになるもの。ある物事の趣旨や主張。おきて。
『大辞林』によれば、
一、 世間に対する名誉や対面。世間からうける評価。人にあわせる顔。
二、外に表れている様子。
こうして「面目」という言葉を吟味してみると、宣長が「あしわけをぶね」で言っている「面目」は『日本国語大辞典』に言われている「すがた、様相」、さらには『大辞林』に言われている「外に表れている様子」が該当すると思われますが、それも「本来の」と言われているところから推せば「本来」のものではない「面目」もあったのであり、我々はその「本来のものではない面目」を「近世ノ妄説」によって見せられていた……、ということは、我々が見せられていた古歌や古書の姿形は虚像であり、実はその奥に、古歌にも古書にも元から具わっている姿形、すなわち本来の面目があったのだと宣長は言い、その「本来の面目」とは、小林先生が、
――「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す……
と言っている萬葉歌人の「古意」、紫式部の「雅意」であり、「萬葉集」の言葉には「萬葉」歌人の心持ちがそのまま現れ、「源氏物語」の言葉には作者紫式部の気持ちがそのまま現れているということなのです、したがって、
――それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。……
ところが、
――直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……
と、宣長の意を汲んで小林先生は言います。
「万葉集」の古言は「万葉」時代の人々の心をそのまま表し、「源氏物語」の雅言はこれを書いた紫式部の心をそのまま表している……、とは、まさにそのとおりと言うほかない言葉の「実情」であるはずですが、契沖が現れ、その明眼で「古歌や古書の在ったがままの姿」を直かに見てとり、誰の眼にも見えるように「萬葉集」や「古今集」の歌人の心を見せてくれるまではその言葉の「実情」が紛れもなく歌人の心の「実情」であることは忘れられ、「上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ」だったのです。
ではなぜ人々は、「ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニ」なっていたのでしょうか。
――歌の義を明らめんとする註の努力が、却って歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。従って、誰もこれに気が附かない。「夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ」、だが、夢みる人にとって、夢は夢ではあるまい。古歌を明らめんとして、仏教的、或は儒学的註釈を発明する人々は、余計な価値を、外から歌に附会するとは思うまいし、事実、歌は、そういう内在的な価値を持つものとして、彼等に経験されて来たであろう。歌学或は歌道の歴史は、このようなパラドックスを荷って流れる。これを看破するには、契沖の「大明眼」を要した、と宣長は言うのである。「紫文要領」では、「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」と言っている。……
こうして契沖の一大明眼とは、「古歌や古書の在ったがままの姿を直かに見」てとる眼力をさして言われているのでしたが、その眼力は、同時に、そういう「古歌や古書の在ったがままの姿を直かに見」てとれなくしてしまっていた歌道、歌学のパラドックス、これを見破ってそのしがらみを瞬時に断ち切る眼力でもあったと宣長は言っている、と小林先生は言っています。
ここからいますこし思いを延ばしてみれば、この後者の眼力は、歌人にも歌学者にも執拗にとりついていた歌というものの通念、すなわち、歌には仏教思想、儒教思想などに留まらず、多種多様の「裏の歌意」がある、それを読みこむのが歌人であり、読み解くのが歌学者であるという通念、これを喝破する直観力だったとも言えるようです。この、「歌には裏の歌意がある」という「酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニ」なっていた歌学者に視界を遮られ、人々は「歌」の「本来の面目」、すなわち「歌」の言葉の素顔が見えなくなっていたのです。
3
宣長は、「予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ」とも言っていますが、次に言われていることは、その「近世ノヤウノワロキ事」の筆頭とも言うべき思い違いでした。
――或人、契沖ヲ論ジテ云ク、歌学ハヨケレドモ、歌道ノワケヲ、一向ニシラヌ人也ト。予コレヲ弁ジテ云ク、コレ一向歌道ヲシラヌ人ノ詞也。契沖ヲイハバ、学問ハ、申スニヲヨバズ、古今独歩ナリ。歌ノ道ノ味ヲシル事、又凡人ノ及バヌ所、歌道ノマコトノ処ヲ、ミツケタルハ契沖也。サレバ、沖ハ歌道ニ達シテ、歌ヲエヨマヌ人也。今ノ歌人ハ、歌ハヨクヨミテモ、歌道ハツヤツヤシラヌ也(「あしわけをぶね」)……
これを承けて、小林先生は言います、
――契沖にとって、歌学が形であれば、歌道とは、その心であって、両者は離す事は出来ない。宣長は、これをよく承知していたし、彼自身も二つの言葉を同じ意味に使っている。しかし、その趣意を、世人に理解してもらう事は、まことに難事である。契沖ほどの大歌学者にして、この凡庸の歌があるか、と世人は首をひねっている。これに見合って、論者は、歌学と歌道という言葉を使っている。どうこれを弁じたものか、と宣長は当惑している。……
――宣長も亦同じ種類の疑念を、世人に抱かせたとは言えるだろう。宣長の歌稿集 「石上稿」の歌は、八千首を越えるが、契沖の「漫吟集」も、家集としては大変大きなものであり、恐らく歌の数は、宣長に負けないだろう。二人は、少年時代から、生涯の終りに至るまで、中絶する事なく、「面白からぬ」歌を詠みつづけた点でもよく似ている。今日から見れば、宣長が、首をひねった世人に対し、契沖の為に弁じているのは、将来の自分の為に弁じているようにも見える。彼は、契沖に驚きながら、既に自分を語り始めていたと言っていい。彼が衝突したのは、当時の教養人の心のなかに深く食い入った、歌は詠むものという、歌という伝統的な芸道の通念であった。歌学と言い、歌論と言っても、歌の師範家が握った詠歌の為の形式的な知識を指すのが、当時の教養人の常識であった。……
ここで最後に言われている「歌は詠むもの」の「詠む」は、今日私たちがふつうに口にしている「詠む」ではありません。宣長当時の教養人は、歌道とは歌の師範家が授ける詠歌のための形式的な知識に則り、三十一文字、すなわち五七五七七を人工的に組み立てることだと思いこんでいました。これが「歌道」の実態であり、「歌は詠むもの」の実態でした。しかし契沖は、そうではありませんでした、宣長もそうではありませんでした。
――「僕ノ和歌ヲ好ムハ、性ナリ、又癖ナリ、然レドモ、又見ル所無クシテ、妄リニコレヲ好マンヤ」という宣長の言葉は、又契沖の言葉でもあったろう。二人の詠歌は、自在に所懐を述べて、苦吟の跡を、全くとどめぬところ、まさしく「性ナリ、又癖ナリ」の風体であるが、詠歌は、決して風流や消閑の具ではなかったので、「見ル所」あって努めたものでなければ、あれほど多量の歌が詠めた筈はない。……
――詠歌の所見について、契沖は、まだ明言していないが、真淵の影響で、歌道が古道の形に発展した宣長にあっては、もうはっきりした発言になる。
「すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、古ヘの世のくはしき意、風雅のおもむきは、しりがたし」、「すべて万ヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也……(「うひ山ぶみ」)
――詠歌は、歌学の目的ではない、手段である。のみならず、歌学の方法としても、大へん大事なものだ。これは、当時の通念にとっては、考え方を全く逆にせよと言われる事であった。詠歌は、必ずしも面倒な歌学を要しないとは考えられても、詠歌は歌学に必須の条件とは考え及ばぬことであった。それと言うのも、話は後に戻るのだが、問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。……
この、「歌学についての考えの革新」、「自立した学問に一変させた精神の新しさ」は、すぐさま次のように言われます。
――歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語ってはいないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。……
ここで「本来の面目」に新たな意味が加わります。私たちが先に読み取った歌の「本来の面目」は、「近世ノ妄説」を取り除いたところに現れる「古歌や古書の在ったがままの姿」でしたが、契沖はその延長線上で、「古歌や古書の在ったがままの姿」には「歌とは何か、その意味とは、価値とは」という面での歌の「本来の面目」を考える最大の手がかりがある、というところまで思索をひろげ、そこに精神を集中していた、この精神の集中力が契沖の「萬葉代匠記」の原動力となり、「一大明眼」の眼光となっていたと宣長は感じていた……。
こうしてこの「精神の集中力」ということが「歌学についての考えの革新」をもたらし、歌学を「自立した学問に一変させた精神の新しさ」となったのですが、ここまで言ってきて小林先生は、話の角度を変えます。先に言った、
――彼が衝突したのは、当時の教養人の心のなかに深く食い入った、歌は詠むものという、歌という伝統的な芸道の通念であった。歌学と言い、歌論と言っても、歌の師範家が握った詠歌の為の形式的な知識を指すのが、当時の教養人の常識であった。……
と同じ平仄で「学問の方法論」という現代学問界の通念に一矢を報い、契沖の学問にも宣長の学問にも、「方法論」などというものは欠片もない、「学問の方法」ということ自体が悪しき思いこみであり、現代の学者は皆、「方法論」という酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシと、当今の文化人、知識人にも言って聞かせるためにです。
――今日、私達が、学問の方法と呼ぶものは、悟性の正しい使用法という考えを基本としたものであり、従って方法の可否は、直ちに学問の成績を規定するが、宣長が、「学びやうの法」という言葉を使う時、これは、ひどく異った意味合を帯びる。晩年書かれた「うひ山ぶみ」は、彼の「学びやうの法」を説いたものだが、これを、彼の「学問の方法論」と言って済ます事は出来ない。彼は、門人達の求めに応じて、「やむをえず」これを書いたのだが、このような仕事には、一向気が進まない、と初めにはっきり断っている。説き終って、一首、「いかならむ うひ山ぶみの あさごろも 浅きすそ野の しるべばかりも」――彼は、「学びやうの法を正す」という事について、深い疑念を持っていた。法は一様であろうが、これに処する人の心は様々である。正しい法を「さして教へんは、やすきことなれども、そのさして教へたるごとくにて、果してよきものならんや、又思ひの外に、さてはあしき物ならんや、実にはしりがたきことなれば、これもしひては定めがたきわざにて、実は、たゞ其人の心まかせにしてよき也」、そういう考えである。……
こう言われて学者ならぬ身の私たち常人もが確と肝に銘じるべきは「法は一様であろうが、これに処する人の心は様々である」です。いまは聴きなおしている時間がないのですが、講演「宣長の『源氏』観」(新潮CD「小林秀雄講演」第五巻所収)であったか「感想」(同)であったかでは、「僕たち人間は一人一人みなちがうのです、だから誰にもあてはまる学問の方法などというものはありえないのです」という意味のことを言っています。ここからはまた、先生が昭和二十五年四月に発表した「表現について」(「小林秀雄全作品」第18集所収)で言っている「ボオドレエル以後の象徴派詩人達の運動は、文学の散文化による自我の拡散に抗して、個性的な内的な現実を守りつゞけて来た運動だと言えます」の「個性的な内的な現実」という言葉も思い起されます、小林先生は宣長の「学びやうの法」について一言するに際しても「個性的な内的な現実」から目を逸らさず、次のように言うのです。
――そこで宣長にはっきり断言出来るのは、「詮ずるところ、学問は、ただ年月長く、倦ず、おこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」ということだけになる。これさえ出来ていれば、「学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也」。宣長が、本当に言いたいことは、これだけなのである。しかし、そう言って了っては、「初心の輩は、取リつきどころなくして、おのづから倦おこたるはしともなることなれば、やむことをえず」というわけで、話は又同じところにもどる。……
――宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を「我物」にする事、その為の「見やう、心の用ひやう」にあった。「玉かつま」で、彼は、「考へ」とは「むかへ」の意だと言っている。彼が使う「考へる」という言葉の意の極まるところ、対象は、おのずから「我物」となる筈なのだ。契沖の「説ノ趣ニ本ヅキテ、考ヘミル時ハ」とは、古歌との、他人他物を混えぬ、直かな交わりという、我が身の全的な経験が言いたいのだし、「歌ノ本意アキラカニシテ、意味ノフカキ処マデ、心ニ徹底スル也」とは、この経験の深化は、相手との共感に至る事が言いたいのである。ここに注目すれば、彼が、「学びやうの法」を説こうとして、気がすすまぬ理由も氷解するだろう。文献的事実とは人間の事だ。彼が荷っている「意味ノフカキ処」を知るには、彼と親しく交わる他に道はない。これが、宣長が契沖から得た学問の極意であったと言ってよく、これが、常に宣長の念頭に在って動かぬから、彼は、言うも行うも易い学問の法を説き渋り、言うは易く行うは難い好学心、勉学心を説いて了う事になる。好学心、勉学心が、交わりの深化に必須な、無私を得ようとする努力を指すのは言うまでもなかろう。……
こういうふうに読んでくると、宣長は「本来の面目」という五文字によって契沖の学問の心髄を衝き、同時に宣長自身の学問の主題を言ってもいると思えてきます。このことは、第六章が次のように結ばれているところからも言えるのです。
――考える道が、「他のうへにて思ふ」ことから、「みづからの事にて思ふ」ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……
だとすれば、宣長が最初に言った「契沖の一大明眼」とは、契沖が「学問とは何か、学者として生きる道とは何か」という前代未聞の問いを発明したことまでも包含して言っているのであり、「此道の本来の面目」の「面目」は、『日本国語大辞典』に「おおもとになるもの」と言われている意で「歌学」、延いては「学問」というものの面目までも宣長は言っていると思われるのです。
(第九回 了)
参考文献 :『水戸市史』中巻(一) 水戸市役所刊
名越時正氏著『水戸光圀』 日本教文社刊