小林秀雄「本居宣長」を読む(二十七)
第十五章 上 人の心のあるやう
池田 雅延
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――そういう次第で、宣長の論述を、その起伏に逆わず、その抑揚に即して辿って行けば、「物の哀をしる」という言葉の持つ、「道」と呼ぶべき性格が、はっきり浮び上って来る。そしてこれが、彼の「源氏」の深読みと不離の関係にある事を、読者は、ほぼ納得されたと思うが、もう一つ、「紫文要領」から例をあげて、説明を補足して置きたい。……
第十五章はこう言って始められますが、次に言われる「品定」は、第十四章で言及された「源氏物語」の「雨夜の品定め」です。
――「品定」の中の、左馬頭の言葉、「ことが中に、なのめなるまじき、人のうしろみのかたは、物の哀しりすぐし、はかなきつゐでのなさけあり、をかしきにすゝめるかた、なくてもよかるべし、と見えたるに」。この文は、例えば、谷崎潤一郎氏の現代語訳によれば、「女の仕事の中で、何よりも大切な、夫の世話をするという方から見ると、もののあわれを知り過ぎていて、何かの折に歌などを詠む心得があり、風流の道に賢いというようなところは、なくてもよさそうに思えますけれども、――」となる。……
と、言い置いて、だが……、と先生は続けます、
――これは普通の解だが、宣長は、そうは読まなかった。彼は、文中の「物のあはれ」という言葉を、「うしろみの方の物のあはれ」と解した。「物の哀といふ事は、万事にわたりて、何事にも、其事其事につきて有物也。故に、うしろみのかたの物の哀といへり。是は、家内の世話をする事につきて、其方の万事の心ばへを、よく弁知したる也。世帯むきの事は、ずいぶん心あるといふ人也。世帯むきさへよくば、花紅葉の折節のなさけ、風流なるかたはなくても、事かくまじきやうなる物なれ共、――」、そう読んだ。恐らく、彼にしてみれば、無理は承知で、そう読みたかったから、そう読んだとも言える。「あはれ」という片言について、思い詰めていた彼の心ばえを思えば、これは当然の事であった。……
「うしろみの方の物のあはれ」の「うしろみ」は「後ろ見」で、 誰かの後ろにいて世話をする、あるいは後ろ盾となって力添えをする、など、奉仕や補佐をさして言われる言葉です。
そして、
――「あはれ」という言葉の本質的な意味合は何かという問いのうちに摑まれた直観を、彼は、既に書いたように、「よろづの事の心を、わが心にわきまへ知り、その品にしたがひて感ずる」事、という簡単な言葉で言い現したが、「あはれ」の概念の内包を、深くつき詰めようとすると、その外延が拡がって行くという事になったのである。「物の心を、わきまへしるが、則物の哀をしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよきといふに同じ」とまで言う事になったのだから、「世帯をもちて、たとへば、無益のつゐへ(出費/池田注記)なる事などのあらんに、これはつゐへぞといふ事を、わきまへしるは、事の心をしる也。其つゐへなるといふ事を、わが心に、あゝ是はつゐへなる事かなと感ずる」事は、勿論、「うしろみのかたの物の哀」と呼んでいいわけだ。……
――折口信夫氏は、宣長の「物のあはれ」という言葉が、王朝の用語例を遥かに越え、宣長自身の考えを、はち切れる程押しこんだものである事に注意を促しているが(「日本文学の戸籍」)、世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。宣長は、この事に気附いている。そして、はち切れさすまいと説明を試みるのだが、うまくいかない。うまくはいかないが、決してごまかしてはいないのである。……
――説明に当って、彼は、「理」という言葉を使っている。どんなに深く知っても、知り過ぎる筈はない「あはれ」の「理」がある。「あはれ」の理は、「あはれ」の事実のうちにはないが、事実との対決は避けられない。 「あはれ」の諸事実の照明を受けて崩れるような理は空言であろう。従って、「うしろみのかたの物の哀」が取上げられる。取上げてみるが、これは「物の哀」の「一端」に過ぎない、と彼は断わらざるを得ない。「其理はかはらね共、物語の本意とする物の哀」ではないと言わざるを得なくなる。同じ物の哀でも、物語では、その「趣」が変って来て、「うしろみの方の物の哀しれるをば、物の哀しらぬ人」とも言う事になる。「同じ義理にして、其事によりて、かやうに表裏の相違ある事は、たとへば火の用の如し」、薪にたくのも、家屋につくのも同じ火である、と彼の説明は苦しくなる。これは、「紫文要領」を殆どそのまま踏襲した「玉の小櫛」の総論では、読者の誤解を恐れてか、削除されているところだが、宣長が、「物の哀」を、単なる一種の情趣と受取る通念から逃れようとして、説明に窮する程、心を砕いていた事は知って置いた方がよいのである。日常生活の心理の動きが活写されたこの「物語」に、彼は、「あはれ」という歌語が、「あはれ」という日常語に向って開放される姿を見た。そして、その日常の用法の真ん中で、この言葉の発生にまで逆上りつつ、この言葉の意味を摑み直そうとした。この努力が、彼の「源氏」論に一貫しているのであって、これを見失えば、彼の論述は腑抜けになるのである。……
ここで言われている「『あはれ』という歌語が、『あはれ』という日常語に向って開放される姿を見た」は、第十三章でも、「『あはれ』という歌語を洗煉するのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ『あはれ』という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。」と言われていましたが、小林先生は続けて言います、
――歌、物語の「本意ヲタヅヌレバ、アハレノ一言ニテ、コレヲ蔽フベシ」という宣長の断言を、そのまま、今日の人々の耳に入り易い、文芸は感情の表現だという言葉で言い直してみてもいいだろうが、ただ、私達には、感情という言葉の、現代風の受取り方はあるわけだ。近代の認識論は、心性の認識機能の構造を、分析的に考え、理性と呼べないものは、感情と呼ばざるを得ないという考え方と馴れ合った上で、宣長の感情主義を言ってみたところで、殆ど意味を成さない。……
現状で「近代の認識論は、心性の認識機能の構造を、分析的に考え、理性と呼べないものは、感情と呼ばざるを得ないという考え方と馴れ合った上で」と言われている箇所は、「近代の認識論は、心性の認識機能の構造を、分析的に考え、理性と呼べないものは感情と呼ばざるを得ないとしているが、そういう考え方と馴れ合った上で」と言われていれば、先生の言わんとされたことはもっとわかりやすかったでしょう。
ともあれ、続けて先生は言います、
――宣長が、「情」と書き「こゝろ」と読ませる時、「心性」のうちの一領域としての「情」が考えられていたわけではない。彼の「情」についての思索は、歌や物語のうちから「あはれ」という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の「情」と呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった。これは、何度でも考え直していい事なのである。……
そして、さらに、
――言うまでもなく、彼は、「情」の曖昧な不安定な動きを知っていた。それは、「とやかくやと、くだくだしく、めゝしく、みだれあひて、さだまりがたく」、決して「一トかたに、つきゞりなる物にはあらず」と知ってはいたが、これを本当に納得させてくれたのは、「源氏」であった。その表現の「めでたさ」であったというところが、大事なのだ。彼は、この「めでたさ」を、別の言い方で、「人の情のあるやうを書るさま」、「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて」とも言った。この迫真性が、宣長の「源氏」による開眼だったのだが、言葉を代えて言ってみれば、自分の不安定な「情」のうちに動揺したり、人々の言動から、人の「情」の不安定を推知したりしている普通の世界の他に、「人の情のあるやう」を、一挙に、まざまざと直知させる世界の在る事が、彼に啓示されたのだ。……
――彼は、啓示されたがままに、これに逆らわず、極めて自然に考えたのである。即ち、「物語」を「そらごと」と断ずる、不毛な考え方を、遅疑なく捨てて、「人の情のあるやう」が、直かに心眼に映じて来る道が、所謂「そら言」によって、現に開かれているとは何故か、という、豊かな考え方を取り上げた。取り上げれば、当然、物語には「そら言にして、そら言にあらず」とでも言うべき性質がある事、更に進んで、物語の本質は、表現の「めでたさ」を「まこと」と呼んで、少しも差支えないところにある事を、率直に認めざるを得なかったのである。……
ここで言われている「物語には『そら言にして、そら言にあらず』とでも言うべき性質がある事」についてはすでに第十三章で言われていましたし、「物語の本質は、表現の『めでたさ』」を『まこと』と呼んで、少しも差支えないところにある事」については、第十八章でいっそう精しく、「詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序」が語られますが、第十五章では続いて次のようにも言われます。
――「源氏」は、作者の見聞した事実の、単なる記録ではない。作者が源氏君に言わせているように、「世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる」味いの表現なのだ。そして、この「みるにもあかず、聞にもあまる」という言い方を、宣長はいかにも名言と考えるのである。事物の知覚の働きは、何を知覚したかで停止せず、「みるにもあかず、聞にもあまる」という風に進展する。事物の知覚が、対象との縁を切らず、そのまま想像のうちに育って行くのを、事物の事実判断には阻む力はない。宣長が、「よろづの事にふれて、感く人の情」と言う時に、考えられていたのは、「情」の感きの、そういう自然な過程であった。敢て言ってみれば、素朴な認識力としての想像の力であった。……
宣長は、「源氏物語」によって、人間の「情」すなわち「心」というものはどういうふうにつくられているかをまざまざと、余すところなく知らされたというのです。
――彼は、これを、「源氏」に使われている「あぢはひを知る」という、その同じ意味の言葉で言う。「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしるなり」と言う。なるほど漠然とした物の言い方だ。しかし、事物を味識する「情」の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受取る道はある筈だ。宣長が選んだ道はそれである。「情」が「感いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事は適わぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。現に、誰もが行っている事だ。殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ。そこでは、事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。……
――宣長が、「源氏」に、「人の情のあるやう」と直観したところは、そういう世界なのであって、これは心理学の扱う心理の世界に還元して了えるようなものではない。もっと根本的な、心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物と情との緊密な交渉が行われている世界である。内観による、その意識化が、遂に、「世にふる人の有様」という人生図を、式部の心眼に描き出したに違いなく、この有様を「みるにもあかず」と観ずるに至った。この思いを、表現の「めでたさ」によって、秩序づけ、客観化し得たところを、宣長は、「無双の妙手」と呼んだ。……
――だが、彼は詩人として、この妙手の秘密に推参し、これに肖ろうとしたわけではないのだから、「無双の妙手」という言葉で、彼が考えていたのは、むしろ匿名の無双の意識であったと言った方がいいであろう。彼が、学者として、見るにもあかずと観じたのは、子供でも知っている、「みるにもあかず」という言葉の姿であった。もしこの全く実用を離れた、純粋な情の感きが、ただ表現のめでたさを食として、一と筋に育つなら、「源氏」の成熟を得るであろう。「風雅」とは、歌人が、人の情のうちに、格別な国を立てて閉じこもるというような事では決してないのである。「此物語の外に歌道なし」と言った時に、彼が観じていたものは、成熟した意識のうちに童心が現れるかと思えば、逆に子供らしさのうちに、意外に大人びたものが見える、そういう「此物語」の姿だったに違いない、と私は思っている。……
ここで言われている「匿名の意識」の「匿名の」は、小林先生独自の言い方で、これを一言で言い換えれば、「人間誰にもあてはまる」というほどの意味合です。
(第十五章上 了)