小林秀雄「本居宣長」を読む(二十)

小林秀雄「本居宣長」を読む(二十)
第十二章
沸騰する文体
池田 雅延  
         

「本居宣長」の第十二章は、宣長晩年の随筆集「玉勝間」からの引用で始まります。
 ――「玉かつま、七の巻」で、宣長は「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」と題して、次のように言っている。「おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞいにしへ書共ふみどもを、かむがへさとれるのみこそあれ、其家の伝へごととては、うけつたへたること、さらになければ、家々のひめごとなどいふかぎりは、いかなる物にか、一ツだにしれることなし、されば又、人にとりわきて、ことに伝ふべきふしもなし、すべてよき事は、いかにもいかにも、世にひろくせまほしく思へば、いにしへの書共を、考へてさとりえたりと思ふかぎりは、みな書にかきあらはして、つゆものこしこめたることはなきぞかし、おのづからも、おのれにしたがひて、物まなばむと思はむ人あらば、たゞ、あらはせるふみどもを、よく見てありぬべし、そをはなちてほかには、さらにをしふべきふしはなきぞとよ」……
 これを承けて、小林先生は言います。
 ――まことに平明な文である。自分は、新思想を発明したわけではなし、人には容易にうかがい難い卓見を持っていると自負してもいない。彼の考えでは、まことの学問とは、そういうものなのであり、古書をかに味読して、その在るがままの古意を得ようと努める他に、別に仔細しさいはないものだ。全く無私な態度で、古書に推参すいさんすれば、古書は、誰にも納得のいく平明な真理を、向うから明かすはずであり、こちら側から事々ことごとしい解釈を加えるのは余計な事だ。学者達が古書講釈の名の下に私智を誇るのは、学問の本筋とは何の関係もない事柄である。……
 そして、言います、
 ――だが、これを平明な文と受取るだけでは済むまい。これは七十歳の頃書かれた、いかにも宣長らしい平明な文体でもあるのだ。文体は平明でも、平明な文体が、平明な理解と釣合つりあっているわけではない。文体というものは、はっきり割り切れた考え方では捕えられぬ、不透明な奥行を持つ。……
 今回はまず、この「文体というものは、はっきり割り切れた考え方では捕えられぬ、不透明な奥行を持つ」を、しっかり聞き取ることから始めます。これが小林先生の「文章を読むということの奥義」であり、この奥義は、「本居宣長」の全篇にわたってきわめようとされているのですが、今回の第十二章で熟読される「あしわけ小舟」のくだりでは次のようにも言われています。
 ――契沖の「大明眼」を語る宣長の言葉は、すべて「あしわけ小舟」からの引用であった事を、ここで思い出して欲しい。彼は、契沖の学問の方法と精神との違いを、はっきり見ていた。契沖の訓詁くんこの新しい方法を「もどく」(真似る)事は容易だとしても、その新しい精神を語る事はむつかしかった。宣長は、もどかしそうに口ごもったのである。……
 この、「宣長は、もどかしそうに口ごもったのである」に、先生は「宣長の文体の奥行」を読んでいます。「文体の奥行」は、「筆者の心情こころもち」と言われることもありましたが、「玉かつま、七の巻」に即して先生が最も言いたい「文体の奥行」はこうでした、
 ――宣長は、「いかにもいかにも、世にひろくせまほし」いものが、私智を混えぬ学問上の真である事を信じていたし、そういう学問の組織なり構造なりは、「露も(少しも/池田注記)のこしこめ」る必要のない、明らさまなものと考えていた。読んで、そのように合点する読者が、其処そこに、学問に関する結論なり要約なりを語る、宣長の晩年の淡々たる口調を聞き分けるなら、それが、彼の青年期の学問の出発や動機を、逆に照し出しているのが見えて来るであろう。それが、文体の奥行の暗示するところである。……
 こうして先生は、宣長の学問の出発や動機に見入ります。
 ――宣長が、「あがたゐのうしの教のおもむきにより」と言っている「あがたゐのうし」とは、言うまでもなく、賀茂真淵かものまぶちである。宣長が、真淵に名簿みょうぶを送って、正式にその門人となったのは、宝暦十四年正月(宣長三十五歳、真淵六十八歳)であり、真淵はこの年から県居あがたいと号したのだが、五年を経て歿した。宣長は、自ら「県居大人之霊位」と書した掛軸を作り、にち(命日/池田注記)には書斎のとこに掲げて、終生、祭を怠らなかった。確かに宣長の学問は、「あがたゐのうしの教のおもむきにより」、「かむがへさとれるのみこそあれ」というものであったが、その語調には、学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分はおろか、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見える。それが二人が何の妥協もなく、情誼じょうぎに厚い、立派な人間関係を結び得た所以ゆえんなのだが、これについては、いずれ触れる事になろう。……
 と言って一呼吸おき、宣長と真淵の師弟関係については第十九章以下に譲りますが、
 ――ここでは、先ず、宣長の学問の独特な性格の基本は、真淵に入門する以前に、既に出来上っていた事について書かなければならない。……
 と言い、すぐに続けて、「有名なこの人の『物のあはれ』論がそれである」と言って、「これには既に多くの研究家達の論があり、私も出来る限り眼を通し、啓発されるところが少くなかったのだが、その上で、私に新解釈があると思うから、私の『物のあはれ』論を書こうとするのではない。『たゞ、あらはせるふみどもを、よく見てありぬべし』と宣長に言われ、その文を前にして、頭を働かすより、むしろ眼を働かして見てみようとするのである……と言います。先の「文体というものは、はっきり割り切れた考え方では捕えられぬ、不透明な奥行を持つ」と一体で、「これは!……」と一目で何かを直観した文章を読むにあたっての心構え、それが「その文を前にして、頭を働かすより、眼を働かして見ようとする」なのですが、小林先生にしてみればこの心構えは宣長に言われるまでもないことでした。先生は、青春時代に出会ったボードレール、ランボー以来、ドストエフスキー、モーツァルト、ゴッホ……と、「これは!」と直観した相手であれば誰に対しても頭を働かせるより眼を働かせ、耳を澄ませてきたのです。ところが、多くの研究者、批評家たちは、本居宣長に対しても、小林先生に対しても、「眼を働かして」見ようとはせず、一方的に「頭を働かして」私智を誇り、各人各様の解釈を広言するばかりでした。
 わけても宣長の時代は、「古今集」の語句に関わる知識を師から弟子へと内々に、しかも勿体もったいつけて伝える「古今伝授」と呼ばれた中世以来の形式的権威の残照によって「眼を働かす」よりも「頭を働かす」ことが促されがちでしたから、宣長が「其家の伝へごととては、うけつたへたること、さらになければ(まったくないので/池田注記)、家々のひめごとなどいふかぎりは、いかなる物にか、一ツだにしれることなし」と言い、「すべてよき事は、いかにもいかにも、世にひろくせまほしく思へば、いにしへの書共を、考へてさとりえたりと思ふかぎりは、みな書にかきあらはして、つゆものこしこめたることはなきぞかし」と語気強く言っている背景にはそういう歌道界の歴史もあったのです。

         

 そして、第十二章の本論です。 
 ――宣長は、京都留学時代の思索を、「あしわけ小舟おぶね」と題する問答体の歌論にまとめたが、この覚書き風の稿本こうほん(草稿/池田注記)は、篋底きょうてい(箱の底/池田注記)に秘められた。稿本の学界への紹介者佐佐木信綱氏によれば、松坂帰還(宝暦七年)後、書きつがれたところがあったにせよ、大体在京時代に成ったものと推定されている。「物のあはれ」論は、もうここに顔を出している。「物のあはれ」と言う代りに、情、人情、実情、本情などの言葉が、主として使われているが、「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部(「源氏物語」全篇/池田注記)ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細シサイナシ」と断言されていて、もう後年の「ぶん要領ようりょう」にまっ直ぐに進めばよいという、はっきりした姿が見られるのである。「石上私淑言いそのかみのささめごと」と「紫文要領」が成ったのは、宝暦十三年である。「石上私淑言」で、恐らく宣長は、「あしわけ小舟」という往年の未定稿を書き直そうとしたのだが、果さず、中途で筆は絶たれた。だが、「物のあはれ」論は、其処で(特に巻一、巻二)一層整理されたし、「紫文要領」では、「源氏」の本質論という明瞭な形式の御蔭で、完結した形を取ったのである。……
「石上私淑言」は歌論、「紫文要領」は「源氏物語」論で、この二著が成った年、宣長は三四歳でしたが、「あしわけ小舟」が書かれたのは二九歳から三〇歳にかけての頃だったと見られています。小林先生はここまで言って、本論中の本論へと進みます。
 ――「あしわけ小舟」の文体をよく見てみよう。これは、筆の走るにまかせて、様々な着想を、雑然と書き流した覚書には相違ないが、宣長自身、後年その書直しを果さなかったように、これは二度と繰返しのかぬ文章の姿なのである。歌とは何かとは、彼にとっては、決して専門家の課題ではなかった。歌とは何かという小さな課題が、彼の全身の体当りを受けたのである。受けると、これをめぐって様々な問題が群り生じた。歌の本質とは何か、風体とは何か、その起源とは、歴史とは、神道や儒仏の道との関係から、詠歌の方法や意味合に至るまで、あらゆる問題が、宣長に応答を一時に迫った。この意識の直接な現れが、「あしわけ小舟」の沸騰する文体を成している。そのままが、この大学者の初心の姿であって、初心は忘れられず育成されたが、意識的に修繕や改良の利く性質のものではなかったのである。……
 と、ここで言われている、
 ――歌とは何かとは、彼にとっては、決して専門家の課題ではなかった。歌とは何かという小さな課題が、彼の全身の体当りを受けたのである。……
 の「体当り」には、すでに読んできた次の各節が思い合わされます。
 まずは第四章です。
 ――「おのれ、(中略)十七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた、師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき、集どもも、古きちかき、これかれと見て、かたのごとく、今の世のよみざまなりき」(「玉かつま」二の巻)……
 これを受けて、小林先生は言っていました、
 ――これは、出来上った宣長の思想を理解しようと努める者には、格別の意味はない告白と見えようが、もし、ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。……
 次いで、第五章です、
 ――彼の書簡は、言わば儒家の申し分のないリアリズムも、自分自身の生活のリアリズムには似合わない、それだけを語っている。書簡のうちに、彼の将来の思想の萌芽がある、というような、先回りした物の言い方は別として、彼が、自分自身の事にしか、本当には関心を持っていない、極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計ろうとはしていない、この宣長の見解というより、むしろ生活態度とも呼ぶべきものは、書簡に、歴然として一貫しているのである。……
 続いて、第十一章です、宣長は、十九歳の時、伊勢山田の紙商今井田家の養子となりましたが、
 ――彼は、山田に落ちつき、年が変ると、早速詠歌や歌書を正式に学ぶ為に、師についている。「日記」には「専ラ歌道ニ心ヲヨス」とある。……
 こうして第十二章に言われている「あしわけ小舟」の「沸騰する文体」は、宣長十七、八歳の頃からすでにして心中で沸き立っていたのです。だからこそ小林先生は、「歌とは何かとは、彼にとっては、決して専門家の課題ではなかった。歌とは何かという小さな課題が、彼の全身の体当りを受けたのである」と言ったのです。

         

 小林先生は、これに続いて、宣長の「体当り」は契沖に向かっても行われていたことを言います。
 ――宣長の学問上の開眼が、契沖の仕事によって得られた事は、既に書いた。繰返さないが、契沖の「大明眼」を語る宣長の言葉は、すべて「あしわけ小舟」からの引用であった事を、ここで思い出して欲しい。彼は、契沖の学問の方法と精神との違いを、はっきり見ていた。契沖の訓詁くんこの新しい方法を「もどく」(真似る)事は容易だとしても、その新しい精神を語る事はむつかしかった。宣長は、もどかしそうに口ごもったのである。……
 宣長の契沖との出会いは、第六章で言われていました。
 ――「コヽニ、難波ナニハノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、コノ道ノ陰晦インクワイヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ、大凡オホヨソ近来此人ノイヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロカシタルユヘニ、ヤウヤウ目ヲサマシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(「あしわけをぶね」)……
 ――ところで、彼が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言がげんは、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……
 ――「註ニヨリテ、ソノ歌アラレヌ事ニ聞ユルモノ也」(「あしわけをぶね」)、歌の義をあきらめんとする註の努力が、かえって歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。従って、誰もこれに気が附かない。「夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ」、だが、夢みる人にとって、夢は夢ではあるまい。古歌を明らめんとして、仏教的、あるいは儒学的註釈を発明する人々は、余計な価値を、外から歌に附会するとは思うまいし、事実、歌は、そういう内在的な価値を持つものとして、彼等に経験されて来たであろう。歌学或は歌道の歴史は、このようなパラドックスをになって流れる。これを看破するには、契沖の「大明眼」を要した、と宣長は言うのである。……
 こうして第六章で説かれていた契沖の「大明眼」が、第十二章で「彼(宣長/池田注記)は、契沖の学問の方法と精神との違いを、はっきり見ていた。」と言われているうちの「契沖の学問の方法」を象徴する言葉なのですが、この「契沖の訓詁くんこの新しい方法を『もどく』(真似る)事は容易だとしても、その新しい精神を語る事はむつかしかった。宣長は、もどかしそうに口ごもったのである」と言われている「新しい精神」とは何だったのでしょうか。
 第六章でこう言われていました、
 ――問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語ってはいないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。……
 ところが、第十二章ではこう言われます、
 ――契沖は、学問の本意につき、長年迷い抜いた末、吾が身に一番間近で親しかった詠歌の経験のうちに、彼の所謂「俗中之真」を悟得するに至った。だが古歌と上代を愛するに至ったいきさつに就き、彼が人に語った跡はない。恐らくこの大才にとっては、そのような事は、全く私事に属したのである。歌とは何か、風雅の道とは何かに関する折々の所懐は、彼の著作にばらかれてはいるが、まともな一篇の歌論すら、彼は遺さなかった。考証訓詁の精到を期する営々たる努力の裏に、それは秘めて置けば、足りるものであった。宣長が直覚し、吾が物とせんとしたのは、この契沖の沈黙である。……
 宣長は、沈黙した契沖に体当りします。小林先生は、ここでは「体当り」という言葉は使っていませんが、「突破」という言葉を使って次のように言います、
 ――契沖の所懐とは、例えば次のようなものだ。「仮令タトヒ儒教ヲ習ヒ、釈典(仏典/池田注記)ヲ学ベドモ、詩歌ニ心ヲオカザルヤカラハ、俗塵日日ニウヅタカウシテ、君子ノ跡、十万里ヲ隔テ、追ガタク、開士ノ道、五百駅ニサハリテ、疲レヤスシ」(「万葉代匠記」雑説)、これが、契沖によって抑制された風雅論の限界であった。宣長が突破したかったのは、この限界である。歌には歌の自立した道がある。何故そうなのか。歌は、歌の独自な存在理由を、歌のうちから引出せるのか。一層高次な問いは、必至なのである。問いを抑制する何の理由もない。……
 ――「問、和歌ハ吾邦ノ大道也ト云事イカヾ、答、非ナリ、大道ト云ハ、儒ハ聖人之道ヲ以テ大道トシ、釈氏ハ仏道ヲ大道トシ、老荘ハ道徳自然ニシタガフヲ大道トシ、ソレゾレニ、我道ヲ以テ大道トス、吾邦ノ大道ト云時ハ、自然ノ神道アリ、コレ也、自然ノ神道ハ、天地開闢カイビャク神代ヨリアル所ノ道ナリ、今ノ世ニ、神道者ナド云モノノ所謂神道ハ、コレニコト也、サテ和歌ハ、鬱情ヲハラシ、思ヒヲノベ、四時シジノアリサマヲ形容スルノ大道ト云時ハヨシ、我国ノ大道トハイハレジ、儒ハ、身ヲ修メ、家ヲトヽノヘ、国天下ヲオサムルノ大道也、仏ハマヨヒヲトキ、悟リヲヒラキ、凡夫ヲハナレ、成仏スルノ大道也、カクノゴトク心得ル時ハ、ミナソレゾレニ大道ナリトシルベシ」(「あしわけをぶね」)……
 ――「あしわけ小舟」は、問題を満載していた。ここまででは、どうなるものでもない。文学の本質につき、出来る限り明瞭な観念を規定してみる事、歌の大道を、徹底的に分析したなら、その先きに、新しい展望は、おのずから開けるに違いない。宣長は、「ものゝあはれ」論という「あしわけ小舟」のかじを取った。……
(第二十回 了)