小林秀雄「本居宣長」を読む(四十一)

小林秀雄「本居宣長」を読む(四十一)
第二十章
下 ・続 真淵の激語と破門状
池田 雅延  
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 前回は、小林先生が、宣長と宣長の師、賀茂真淵との師弟愛をでられた第二十章の最後に、次のように言われるのを聞きました。
 ――二人は、「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。「万葉」経験と「源氏」経験とは、まさしく経験であって、二人の間で交換出来るような研究ではなかったし、当人達にとっても、二度繰返しのくようなものではなかった。真淵は、「万葉」経験によって、徹底的につかみ直した自己を解き放ち、何一つ隠すところがなかったが、彼のこの烈しい気性に対抗して宣長が己れを語ったなら、師弟の関係は、恐らく崩れ去ったであろう。弟子は妥協はしなかったが、議論を戦わす無用をよく知っていた。彼は質問を、師の言う「ひきき所」に、考証訓詁の野に、はっきりと限り、そこから出来るだけのものを学び取れば足りるとした。意識的に慎重な態度をとったというより、内に秘めた自信から、おのずとそうなったと思われるが、それでも、真淵の激情を抑えるのには難かしかったのである。……


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 そして今回、第二十章の結末は、次のように語られます。
 ――真淵が先ず非難したのは、宣長の歌である。「御詠為御見猶後世意をはなれ給はぬこと有之候。一首之理は皆聞えはべれど、風躰ふうていと気象とを得給はぬ也」(明和二年三月十五日、宣長宛)。歌を批評してもらおうという気持は、恐らく宣長には、少しもなかったであろう。詠草えいそうを見参に入れて、添削てんさくを請うという、当時の門下生の習慣に従ったまでの事だったろう。先きに引いた「玉勝間」中の回想文で言っているように、宣長は、在京時代、既に詠歌について、或る確信を得ていた。「人のよむふりは、おのが心には、かなはざりけれども、おのがたててよむふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有ける」――とがめる人が現れても、今さら「よむふり」を改めようもなかったし、改める必要を認めなかった。真淵にしてみれば、古詠を得んとせず、「万葉」の意を得んとするのは、考えられぬ事であり、平然として、同じ風体の詠草を送りとどけて来る弟子の心底を計りかねた。「是は新古今のよき歌はおきて、中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりし也。右の歌ども、一つもおのがとるべきはなし。是を好み給ふならば、万葉の御問も止給へ。かくては万葉は、何の用にたゝぬ事也」(稿本全集、詠草添削)。だが、宣長は一向気にかけなかった様子である。「万葉」の問いを止めるどころか、間もなく「万葉集重載歌及び巻の次第」と題する一文を送り、歌集成立の問題について、「敬問」に及んでいる。これは、契沖けいちゅうに従って、全二十巻を家持やかもち私撰しせんと主張して、真淵の説に、真っ向から反対したもので、時代、ダテカキざまから見て、撰は前後二回行われたものとし、又これによって、現行本の巻の次第も改めるべきものとする意見である。
 これが真淵を怒らした。「是は、甚小子が意にたがへり。いはゞいまだ万葉其外そのほか古書の事は知給はで、異見を立らるゝこそ、不審なれ。ようの御志に候はゞ、向後小子に、御問も無用の事也。一書は、二十年の学にあらで、よくしらるゝ物にあらず。余りにみだりなる御事と存候。小子が答の中にも、千万ちよろづの古事なれば、小事には誤りも有べくはべれど、其書の大意などは、定論の上にて申なり。すべて、信じ給はぬ気、あらはなれば、是までの如く、答はまじき也。しか御心得候へ。もしなほ、此上に御問あらんには、けいの意を、皆書て、問給へ。万葉中にても、自己に一向解ことなくて、問はるゝをば、答ふまじき也。されども、信無きを知るからは、多くは答まじく候也。此度の御報に、如此御答申も、無益ながら、さすが御約束も有上あるうへなればいふ也。九月十六日」(明和三年、宣長宛)
 これでは、ほとんど破門状である。公平に見て、真淵の説が、「定論の上にて申」す説だったとは言えないし、宣長の提案が、「みだりなる事」だったとも思えない。書簡で爆発しているのは、たしかに真淵の感情だが、彼に女々めめしい心の動きがあったはずもないのだから、やはりこれは、その信念の烈しさを語っているものであろう。「万葉」は橘諸兄たちばなのもろえ撰になるものという真淵の考えは、ただ古伝の考証に立った説ではない。上代の、「高く直きこゝろ」さながらの姿を写し出した「万葉集」の原形というものを、どうあっても想定したい、そのねがいによって育成された固い信念でもあった。従って、六巻の「万葉」と、「万葉ならざる」爾余じよ十四巻の「家々の歌集」との別、という自分の基本的な考えに対し、これを否定するはっきりした根拠も示さず、「二十巻ともに家持の撰也」と書き送って来る宣長の態度が、真淵には心外であった。それが、「自己に一向解ことなくて、問はるゝをば、答ふまじき也」という言葉の意味であろう。しかし、「惣て、信じ給はぬ気、顕はなれば、是までの如く、答はすまじき也」というような真淵の激語の依って来るところは、恐らくもっと深いところにあった。この書簡の前文でも、「詠歌の事、よろしからず候。既にたびたびいへる如く――」とあって、「巧みなるはいやし」と宣長の歌の後世風を難じている。宣長側の書簡が遺っていないので、推察に止るが、宣長も、たびたびの詰問きつもんに、当らず触らずの弁解はしていたらしい。
 だが、真淵は用捨ようしゃしなかった。「貴兄は、いかで其意をまどひ給ふらんや。前の友有ば、捨がたきとの事聞えられ候は、論にも足らぬ事也。おのれ三十年以前、東都へ下りし時、千万人挙て、異端とてにくみしを、不操して、十年ばかり経るほどに、其悪みし人、多くは来て、門下に入れり。又世間を偽る歌人多けれど、一旦繁昌すれど、終に何ほどの功も立ずして、死せるのみ」。真淵は疑いを重ねて来たのである。この弟子は何かを隠している。鋭敏な真淵が、そう感じていなかったとは考えにくい。従えないのではない、従いたくはないのだ。「信じ給はぬ気、あらは」也と断ずる他はなかったのである。……
                                   
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 前回に続いて今回も、そのほとんどが……、と言うよりほぼ全文が、小林先生の文章の引用という以上に引き写しとなりました。実を言いますと、私池田はある時期から、小林先生について書くときはとりわけ引用が多くなり、それはなぜかに私自身、しかと思い当っています。そこの呼吸を一言で言えば、小林先生の文章であれ、他の人の文章であれ、元の文章をそっくりそのまま引き写すことによって、あれこれ思案するよりはるかに強く、明快に、筆者の旨意が私の中に入ってくるからです。俗に「心に響く」とか「腹に入る」とかと言いますが、まさにそういう響き方、入り方で入ってくるのです。
 事の起りは、今からですと約五十年前、小林先生がお元気でいらっしゃった昭和五三年(一九七八)の春でした。新潮社の第三代、佐藤亮一社長が、ある日、突然、社内電話で私に「ちょっと来てくれ」と言われました。昭和四五年の四月に新潮社への入社を許されて以来十年ちかく、そういう社長直々の呼び出しは初めてでしたから、いささかならず不安に駆られながら社長室へ向かい、「池田です」と名乗った私の声に応じて、社長はいきなりこう言われました、「『小林秀雄全集』をまた作りたいと思ってね」……、意表を突かれた私は、「小林先生の全集を、ですか」と応じるのがやっとでしたが、社長の手にはすでに一冊、第三次の「小林秀雄全集」がありました。
 その第三次「小林秀雄全集」は、高校一年の秋九月、国語科の教師から「小林秀雄」の名を教えられ、図書室で「中原中也の思ひ出」を読んで「小林秀雄」がもっともっと読みたくなり、その一心でそれまでは思ってもみなかった進学を親に許してもらって辛くも入学を果たした年の翌年、昭和四二年の六月に刊行が始まった新潮社版の全集で、世評も高く、私が新潮社で小林先生の本を造る係を命じられてからも増刷が相次ぎ、あの日、亮一社長が手にされていたのも私が増刷の段取りを調えたばかりの第三次全集の一巻でしたが、その第三次全集の刊行にあたっては亮一社長が先頭に立って采配され、大岡昇平、中村光夫、江藤淳の三氏に託された編集方針は言うまでもなく、全集本としての姿形すがたかたちまで小林先生はたいへん喜ばれていると方々から聞かされ、私自身、先生からじかに聞かされていましたから、どうして今、新全集なのですか……と内心で尋ねていた私に社長は言われました、
「ここへきて紙代や印刷代が高くなってね、『小林秀雄全集』もこのままだと今度の増刷からは一巻3000円にもなりそうなんだ、これではもう読者は小林秀雄が読みたくてもおいそれとは読めなくなる、こんな高値たかねを放っておいては出版社として怠慢ではないか、そこで今回、定価がせめて一巻2000円程度に収まる全集に作りなおそうと思うのだ、では、どういう本にすればよいかだが、そこを君に考えてもらいたい、というわけだ。……」
 亮一社長の意を体し、私はただちに新全集の設計にかかりました。しかし、第三次全集に準じた従来の編集思想ではどう足掻あがいてみても紙代、印刷代といった製作費の値上がりを吸収できず、小林先生の全集として、また新潮社の本として相応の風格を保とうとすれば、一巻の売価を3000円以下に抑えて新全集を造ることは不可能というのが製作部長と私とで到達した結論でした。そこで私は、一計を案じて社長の判断を仰ぎました。その一計というのは亮一社長が丹精された第三次全集の紙型しけいを新全集に転用し、外装だけを質素に造り変えて第三次全集の新装版とするという方策です。
 紙型というのは、活版印刷で鉛板えんばん鋳造ちゅうぞうに用いる紙製の鋳型いがたです。全集に限らず小林先生なら小林先生の本を造ろうとすれば、まずは先生の原稿の文字遣いに沿って一字一字、鉛の活字を拾い、次にはその活字を一頁ごとに一行の字数や一頁の行数に合せて並べ、こうして組み上げた活字の原版に特殊加工した紙をのせ、熱を加えて押圧し、乾燥させたものが紙型です。この紙型に、溶かした鉛を流し込んで鉛板をつくり、鉛板の表面にインクをのせて紙に刷るのですが、鉛板の出番は通常一回限りとされ、同じ本が増刷となった場合はそのつど紙型を用いて鉛板が作り直されました。なぜなら鉛板に用いる鉛の国内保有量には限度があり、出版物の一点ごとに鉛板を保存しておくというわけにはいきません、もし鉛板が出版物一点ごとに保存されてしまったら出版各社は新刊書を出そうにも出せなくなります、そこで再登場するのが紙型です。これは、と思える出版物の紙型は増刷に供えて出版各社がそれぞれに保存し、増刷となるたび、熱した鉛を紙型に流してまた鉛板を作ったのです。
 亮一社長に、「新たな小林秀雄全集を作りたい、一冊の定価は3000円以下、できれば2000円程度」と指示された私が窮余の一策で思い当った第三次全集の紙型転用でしたが、社長ご自身の視野にも早くに入ってはいたと思われるこの方策は幸いにして功を奏し、一巻の定価を1600円として「新訂 小林秀雄全集」と銘打った第四次全集は昭和五三年五月二五日付で刊行を始めた直後から増刷に増刷が相次ぎ、亮一社長の出版人魂は見事に実を結んだのです。しかも、それだけではありませんでした。亮一社長の意を受け、私が新全集全体の製作費だけでなく、広報費も抑えようとして考え出した「内容見本」によって私は思いもよらず「小林秀雄の正しい読み方」を小林先生ご自身に教えられることになったのです。

「内容見本」というのは、全集にかぎらずこれぞと力を入れる出版企画の広報パンフレットですが、文学分野の全集の場合はよい紙を選んで著者の写真を並べたり、文壇をはじめ各界の大家たちに推薦文を書いてもらったりし、「内容見本」からして豪勢感を演出するのが通例です、しかし「新訂 小林秀雄全集」の「内容見本」では人気作家の推薦文を並べたりすることはせず、用紙もごく普通の紙にした小ぶりの冊子に、私自身が多くのことを教えられてきた小林先生の言葉、たとえば、
 ――人々は批評といふ言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいふことを考へるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいふものを批評から大へん遠い処にあるものの様に考へる、さういふ風に考へる人々は批評といふものに就いて何一つ知らない人々である。……(「批評について」)
 ――自分の本当の姿が見附けたかったら、自分といふものを一切見失ふまで、自己解析をつづける事。中途で止めるなら、初めからしない方が有益である。途中で見附ける自分の姿はみんな影に過ぎない。……(「手帖1」)
 ――われわれの社会的本能が、孤独といふものを嫌悪し恐怖するといふが、事実は寧ろ、なんとは知れぬわれわれの嫌悪や恐怖が孤独といふ幽霊を作り上げて、これと戦ってゐると言った方が当ってゐる。……(「Xへの手紙」)
 ――感心することを怠りなく学ぶ事。感心するにも大変複雑な才能を要する。感心する事を知らない批評家は、しよつ中無けなしの財布をはたいてゐる様なものだ。(「断想」)
 ――新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられるようなぜいじゃくなものではない、さういふ事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。……(「無常といふ事」)
 ――美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。……(「当麻」)
 ――モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄がんろうするには美しすぎる。空の青さや海の匂ひの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知ってゐた「かなし」といふ言葉の様にかなしい。……(「モオツァルト」)
 などを計121項目選んで並べ、「小林秀雄全集」ではこういう言葉にいくつも出会えますよと読者に呼びかけました。
 そして、小林先生にはお宅をお訪ねして今回の新全集の趣旨、すなわち佐藤亮一社長の出版人としての抱負をお伝えし、そのため今回は本造りを第三次全集より簡素にさせていただき、「内容見本」もこうさせていただきますが、このたびはどうかお赦し下さい、近い将来、またあらためて、昨年、昭和五十二年の秋に出させていただいた「本居宣長」の単行本に見合う造りの全集を出させていただきます、と言って頭を下げました。小林先生は、「そうか、ありがとう、亮一君によろしく言ってくれたまえ、亮一君は本を造るのがうまいからな」と言われて、私を玄関まで送りに出られました。
 それからしばらくたって、「新訂 小林秀雄全集」は書店に並び、売行きの初速も亮一社長の思惑どおりで、私はその売れ行き状況をご報告するためまた先生のお宅を訪ねました。するとそこへ、第三次全集で大岡昇平さん、江藤淳さんとともに全巻の編集にあたって下さり、当然ながら「新訂 小林秀雄全集」でも編集者として名を列ねて下さった中村光夫さんがおいでになりました。中村さんは小林先生より九歳年下の文芸批評家で、若い頃から小林先生に認められ可愛がられ、住まいも小林先生の近くでしたから散歩の途中などにひょいと立ち寄られることもよくあったようですが、あの日は応接室へ通られるなり、「小林さん、今度の全集の内容見本、いいですね」と言われました。私はどきっとしましたが、小林先生は間をおかず、「いいだろう、ないよ、こんな内容見本、世界中にないよ」と返されました。私はほっとするより堅くなって先生の次の言葉を待ちました。
「ないよ、世界中にないよ」は、小林先生が何かを気に入って評価されるときの最大の誉め言葉でした。たとえば音楽好きと話していて、さるピアニストの近況が話題になり、同席者の誰かが、彼のベートーベン、先生はどう思われますか、と訊いてくると、「いいねえ、ないよ、あんなベートーベン、世界中にないよ!」と即座に応じられるといったふうにです。
 あの日、先生は、私が作った「内容見本」を「世界中にないよ」と言って下さったあと、続けて言われました、「批評は引用に尽きるのだよ、ここぞという箇所が適確に引用できたら、もう批評家の評言などは一言も要らないのだよ……」
 この言葉は、小林先生が今あらためて中村さんに言って聞かせられるかのように聞こえましたが、後になって思い返しますと、先生ご自身が批評家として辿り着かれていた境地の独白だったかとも思え、先生の全集の宣伝、広報に際して私の選んだ方策が、世に言う宣伝コピーよりも先生の意に適っていたと知って私は先生の文章のいっそうの精読と引用を期待されたように思いました。爾来じらい、私は小林先生のことを人に語るとき、批評めいた言辞やうたい文句はまずしりぞけ、脳裡に甦って喉元に降りてくる小林先生の言葉を歯切れよく発音することに集中します。「私塾レコダ」の講義で講釈めいたことはほとんど言わず、毎回、小林先生の文章の音読に力を入れているのも同じ理由です、ご諒察いただければ幸いです。
 なお、本日ここでお話しした「新訂 小林秀雄全集」の「内容見本」は、その後、小林先生の言葉を増補して書名を「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」とし、新潮新書に収録されていることを申し添えます。
(つづく)