小林秀雄「本居宣長」を読む(四十七)
第二十三章 歌は意識が出会う最初の「物」
池田 雅延
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小林秀雄先生の「本居宣長」第二十三章は、次のように書き起されます。
――「歌」「詠」の字は、古来「うたふ」「ながむる」と訓じられて来たが、宣長の訓詁によれば、「うたふ」も「ながむる」も、もともと声を長く引くという同義の言葉である。「あしわけ小舟」にあるこの考えは、「石上私淑言」になると、更にくわしくなり、これに「なげく」が加わる。「なげく」も「長息」を意味する「なげき」の活用形であり、「うたふ」「ながむる」と元来同義なのである。……
そして、次のように書き継がれます。
――「あゝ、はれ――あはれ」という生まの感動の声は、この声を「なげく」「ながむる」事によって、歌になる。言うまでもなく、歌の本質を、そんな所に求めた歌学者はなかったので、これがわかりにくい考えである事は、宣長自身も承知していた。「あしわけ小舟」を整理した「石上私淑言」も問答体に書かれているが、その中でも、この考えを容易に納得しない「問者」を設けて説いている。……
――歌を、何もむつかしく定義しなくてもよい、あわれにたえ難い時に、「其思ふすぢを、おぼえずいひいづる」のが歌だ、という御意見は尤もだとしても、そう言って了えば、それは「たゞの詞にても有ぬべき事」だし、特に歌は「声を長くし、詞に文をなす」と言うのが心得難い、と言う問者に、宣長は、「今の人の心にては、此疑さる事也」と言って、次のように説明する。「今、目にちかく有ル事を、引ていはば、今、人せちに物のかなしき事有て、堪がたからんに、そのかなしきすぢを、つぶつぶといひつゞけても、猶たへがたさの、やむべくもあらず。又ひたぶるに、かなしかなしと、たゞの詞に、いひ出ても、猶かなしさの忍びがたく、たへがたきときは、おぼえずしらず、声をさゝげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばゝりて、むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのづから、ほどよく文ありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也。たゞの詞とは、必異なる物にして、その自然の詞のあや、声の長きところに、そこゐなきあはれの深さは、あらはるゝ也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづから文ある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(「石上私淑言」巻一)……
――文中に、明らかに透けて見えて来るのは、「たゞの詞」より、発生的には、「歌」が先きだという考え、「歌」よりも、声の調子や抑揚の整う事が先きだという考えだ。彼のこの大胆な直観には注目すべきものがある。右の文中で、「たゞの詞」という言葉の概念が曖昧なのは、問者の「今の人の心」からの曖昧な問いをそのまま受けているからであり、そんな事にこだわるより、「たゞの詞とは、必異なる物」というその「物」が、「歌のかたち」と呼ばれている事に注意する方がよい。宣長に言わせれば、歌とは、先ず何を措いても、「かたち」なのだ。或は「文」とも「姿」とも呼ばれている瞭然たる表現性なのだ。歌は、そういう「物」として誕生したという宣長の考えは、まことにはっきりしているのである。発達した歌の形式に慣れた「今の人の心」には、先ず「たゞの詞」があり、それから「たゞの詞」を「文」によって装飾する歌という技芸が発達したという通念がある。宣長の徹底した考えは、先ずこの通念と衝突せざるを得ないのである。……
――勿論、宣長は、問者の疑いを尤もとしているのだから、人々の所謂「たゞの詞」に表現性がないと考えているわけではない。歌に関心を持たぬ普通人の会話にあっても、表現に関する個性的な発明は、常に行われているであろうが、その魅力は、その場で消える。「たゞの詞」には、「たゞの詞」の目的があるからだ。実生活上の様々な目的を目指し、意を伝えたり、事物を指示したりして、言葉を有効に消費して了えば、それで事は足りているからだ。歌人は、何かの手段として言葉を使いはしない。有用性を離れて自立する言葉の表現性を目指す。それが「歌の道」である事を、宣長ほどよく見抜いていた人はなかったのだが、それというのも、彼の言語表現に関する非常な鋭敏性が、既に通念化した解釈を荷った「歌の道」という既成概念を透過して、誰も見ない深所まで見ていたからである。……
――彼に言わせれば、既に教養として確立して了った「歌の道」の枠内で歌を論ずるのは、「末をたづねる」事に過ぎない。その論調は「高上ニシテ、スナホニキコヘ、大方ノ人ハ至極ノ道理也トオモヒ、信仰スレドモ、ヨクヨク案ズレバ、サヤウノ事ニアラズ」と言う。何故、「只心ノ欲スルトヲリニヨム、コレ歌ノ本然ナリ」という単純明白な考えに立ち還ってみようとしないのか。其処から考え直そうという気さえあれば、「歌の道」の問題は、「言辞の道」というその源流に触れざるを得まい。そうすれば、歌とは何かという問題を解くに当り、「うたふ」という言葉が、どういう意味合で用いられる言葉として生れたかを探るところに、一番確かな拠りどころがあると悟るだろう。言語表現というものを逆上って行けば、「歌」と「たゞの詞」との対立はおろか、そのけじめさえ現れぬ以前に、音声をととのえるところから、「ほころび出」る純粋な「あや」としての言語を摑むことが出来るだろう。この心の経験の発見が、即ち「うたふ」という言葉の発明なら、歌とは言語の粋ではないか、というのが宣長の考えなのである。……
――激情の発する叫びも呻きも歌とは言えまい。それは、言葉とも言えぬ身体の動きであろう。だが、私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず「長息」をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が「ほころび出」ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう。いずれにせよ、このような問題につき、正確な言葉など誰も持ってはいまい。ただ確かなのは、宣長が、言葉の生れ出る母体として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず取る或る全的な態度なり体制なりを考えていた事である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない。この宣長の言語観の基礎にある考えは、銘記して置いた方がよい。……
――彼の「源氏」論の課題は、「あはれ」とは何かではなく、「あはれを知る」とは何かであった、とは既に述べたところだ。「人の実の情をしるを、物の哀をしるといふなり」(「紫文要領」巻下)。「人の実の情」は知り難い。こんなに不安定なものはないからだ。「感は動也といひて、心のうごくこと」(「玉のをぐし」二の巻)だからだ。ところで、宣長は次のような事に注目している。「心に深く感とおもふ事あれば、かならず長息をする故に、其意より転じて、物に感ずる事を、やがて奈宜久とも奈我牟流ともいふ也」「然るを、千載新古今のころよりして、もはら物を見る事にのみいへるは、又其意を一転せる物也」「物思ふときは、常よりも、見る物きく物に、心のとまりて、ふと見出す雲霞木草にも、目のつきて、つくづくと見らるゝものなれば、かの物おもふ事を、奈我牟流といふよりして、其時につくづくと物を見るをも、やがて奈我牟流といへるより、後には、かならずしも物おもはねども、たゞ物をつくづく見るをも、しかいふ事にはなれるなるべし」(「石上私淑言」巻一)……
――「あしわけ小舟」では、この場合、見るとは「観ノ字ナドノ心ナリ」と言っている。それとは気づかぬ言葉の働きのうちにも、歌道の極意は現れている。長息するという意味の「ながむる」が、つくづくと見る意味の「ながむる」に成長する、それがそのまま歌人が実情を知る、その知り方を現わす、と宣長は見るのである。歌道の極意は、「物のあはれを知る」ところにあるのだが、それは、情に溺れる「あだなる事」にも、溺れまいとして分別を立てる「まめなる事」にも、全く関係がないという難解な考えが、彼の「源氏」論にあった事も、既に書いたが、それを、ここで思い出して貰ってもよいと思う。堪え難い悲しみを、行動や分別のうちに忘れる便法を、歌道は知らない。悲しみを、そっくり受納れて、これを「なげく」という一と筋、悲しみを感ずるその感じ方の工夫という一と筋を行く。誰の実情も、訓練され、馴致されなければ、その人のはっきりした所有物にはならない。わが物として、その「かたち」を「つくづくと見る」事が出来る対象とはならない。私達が理解している「意識」という言葉と、宣長が使った意味合での「物」という言葉とを使って、こう言ってみてもよさそうだ、歌とは、意識が出会う最初の物だ、と。そう言いたかった宣長を想像してみてもよいであろう。……
――ここで、もう一つ、「あしわけ小舟」から引用して置こう。「カナシミツヨケレバ、ヲノヅカラ、声ニ文アルモノ也。ソノ文ト云ハ、哭声ノ、ヲヽイヲヽイト云ニ、文アル也。コレ巧ミト云ホドノ事ニハアラネド、又自然ノミニモアラズ、ソノヲヽイヲヽイニ、文ヲツケテ、哭クニテ、心中ノ悲シミヲ、発スル事也。モトヨリ、外カラ聞ク人ノ心ニハ、ソノ悲シミ、大キニフカク感ズル也。カヤウノ事ハ、愚カナル事ノヤウナレドモ、サニ非ズ。サレバ、モロコシニテ、喪ノ時ニ哭スル礼ノ定マリタルモ、仮令ノ事ノヤウナレドモ、モト実情ヲ導クシカタ、聖人ノ智ハ、フカキモノ也」……
――実利実用に繋がる諸制度に慣れた人々は、礼というものをややもすれば贅物と考え易い。内容を欠いた、便宜的な、外的規制と見勝ちだが、それは浅薄な考えであって、そういう人達が「愚カナル事」「仮令ノ事」と見るところに、却って礼の本質的なものが顔を出している。礼と歌とは、その発生に立合う気になって考えれば、区別のつきにくい双生児のような顔附きをしている。無くてはどうしても適わぬ人間の印しのように、私達の内部から生れて来るものだ。本を尋ねて、考えようとすれば、そういう事が解って来る。礼を言えば楽を言った聖人の智は、その点で深いものだ、と宣長は言うのである。……
――突き詰めて行けば、礼とは、「実情ヲ導ク」その「シカタ」だと彼は言う。それなら、これは言葉なき歌とも言えるわけだ。私達は、この「シカタ」を何によって思い附くのでもなく、何処から借りて来るのでもない。それは実情自体から「ヲノヅカラ」「ほころび出」る。もう少し精しく言えば、「巧ミト云ホドノ事ニハアラネド、又自然ノミニモアラズ」という具合に生れて来る、と宣長は考える。私達は、意識して自発的にそうするのでもなければ、無意識に事の成行きに従うのでもない。人間の構造は、そのような出来だ、と彼は言っていると解してよかろう。……
――誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを堪え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その「カタチ」を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずから文ある声の「カタチ」となって捕えられる。宣長に言わせれば、この「カタチ」は、悲しみが己れを導くその「シカタ」を語る。更に言えば、「シカタ」しか語らぬ純粋な表現性なのである。この模倣も利き、繰返しも出来る、悲しみのモデルとでも言っていいものに出会うという事が、各自の内部に起る。私達は、誰もその意味合を問う前に、先ずこの悲しみの型を信じ、これを演ずる俳優だったと言ってもよかろう。もし、そうでなければ、喪という共通の悲しみを予感し、己れの悲しみを発し、これを相手と分つ道が、どうして開かれるであろう。礼は聖人の智慧の発明ではない。そう見抜いていたのが聖人の智慧だ、と宣長は言うのである。……
――宣長は、その歴史観、特に言語観の上で、真淵に比べると、余程柔軟で鋭敏なものを持っていた事について、読者は以上述べて来たところで、ほぼ合点されたと思う。宣長から、わかりにくい文ばかり幾つも引用し、これを上手に解説も出来なかったのは、読者が見られた通りだが、わかりにくい例証を、私が、先きに磨かれぬ宝石のようなと形容したのは、そこに見えた宣長の直観の露わな姿を言ったので、磨いてみたいというような意は、少しも含まれてはいなかった。歴史も言語も、上手に解かねばならぬ問題の形で、宣長に現れた事はなかった。それは「古言を得る」という具体的な仕事のうちで、経験されている手答えのある「物」なのであった。正直な心で正視すれば、本質的に難解な表情が見えて来る相手であった。これとの無私な交渉について、宣長が大変率直に語っているので、私は、そういう文例を幾つも拾い上げる事になった。古学にあっては、先ず「低き所を固める」を要するという真淵の教えが、宣長にどう受取られたか、言わばその手つきを、読者に感じ取って貰えればと考えたのである。……
――真淵の言う「低き所」とは、古書の註釈、古言の語釈という、地道な根気の要る仕事を指すのだが、宣長は、この道を受け、いよいよ低く、その底辺まで行ったと言ってもよい。彼は、「古今集」の「雅言」を、そっくり今行われている「俗言」に訳してみる、というところまで行かなければ、承知しなかった。宣長が、わが国最初の古典の現代語訳者となったのは、言うまでもなく「古言を得んとする」一と筋の願いに駆られたからであり、その仕事の動機は、全く純粋なものであった。あんまり純粋で、今日の人々には、却ってわかりにくいと言えるほどだ。それは、今日では極く当り前の事となっている古典の現代語訳を思い、訳者達の仕事の動機を思えば足りるであろう。古典とか伝統とかいうものに対する宣長の愛情や信頼を思って、彼の著作を読んでいると、その仕事がどんな形を取ろうと、皆、この源泉から溢れて、一と筋の流れを成しているのが、よく感じられる。とともに、私の心に自然に浮ぶ事だが、古典が、在ったがままの姿で、現在に生き返って来るのは、言わばこの源泉の感情を抱いた宣長にとっては、まことに尋常な鮮明な知覚であって、もしそんな風に完全な姿で生き返らなければ、それはまるで生き返りはしない、どちらかだという考えは、宣長には恐らく自明なものであった、そんな事が思われるのである。古典や伝統に対する愛や信という事になると、現代人の心は、随分怪しげな姿をしているが、反省は、普通、現代的教養の色眼鏡を通してなされるから、誰もそんな自分の姿に出会いはしない。古典との生きた関係を、自分の手で断ちながら、それに気附かぬという事もあるのである。……
――さて、真淵の教えを押し進めた宣長のやり方だが、「古今集遠鏡」を書いた動機について、彼はこう言っている、「さとびごとに訳したるは、たゞに、みづから、さ思ふにひとしくて、物の味を、みづからなめて、しれるがごとく、いにしへの雅言みな、おのがはらの内の物としなれれば」云々(「古今集遠鏡」一の巻)――「古言を得る」とは、言ってみれば、そういう事なのであって、不明になった古言の意味を明らめるという、一般的な知的な理解で済む事ではない。古言が「おのがはらの内の物」になるという、一人々々が、みずから進んでやってみなければならぬ事を、言う。……
――「すべて人の語は、同じくいふことも、いひざま、いきほひにしたがひて、深くも、浅くも、をかしくも、うれたくも聞ゆるわざにて、歌は、ことに、心のあるやうを、たゞに、うち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざま、いきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうを、よくあぢはひて、よみ人の心を、おしはかりえて、そのいきほひを訳すべき也」――「すべて人の語は」といふ言い方に注意して読めば、この短文にも宣長の言語観の基本的なものが現れているのに、直ぐ気附くだろう。……
――「語」とは、言うまでもなく、語られる言葉であり、彼の所謂「たゞの詞」「つねの言語」に属するものだろうが、音声言語と文字言語の別、たゞの詞と歌との別、そういう事が、彼は言いたいのではない。ここでは、そういう言語による表現形式がどうこうという事から見れば、全く素朴で単純な事柄、即ち「語」という「わざ」に、彼は着目しているのである。……
――言語が、「おのがはらの内の物」になっているとは、どういう事か、そんな事は、あんまり解り切った事で、誰も考えてもみまい。日常生活のただ中で、日常言語をやりとりしているというその事に他ならないからだ。宣長は、生活の表現としての言語を言うより、むしろ、言語活動と呼ばれる生活を、端的に指すのである。談話を交している当人達にとっては、解り切った事だが、語のうちに含まれて変らぬ、その意味などというものはありはしないので、語り手の語りよう、聞き手の聞きようで、語の意味は変化して止まないであろう。私達の間を結んでいる、言語による表現と理解との生きた関係というものは、まさしくそういうものであり、この不安定な関係を、不都合とは誰も決して考えていないのが普通である。互に「語」という「わざ」を行う私達の談話が生きているのは、語の「いひざま、いきほひ」による、と宣長は言う。その全く個人的な語感を、互に交換し合い、即座に飜訳し合うという離れ業を、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語という巨きな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達しているからであろう。宣長は、其処に、「言霊」の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた。……
――このような次第で、「古言を得る」という同じ言葉でも、宣長の得かたと真淵の得かたとは、余程違って来る。宣長は、「古意を得る」為の手段としての、古言の訓詁や釈義の枠を、思い切って破った。古言のうちに、ただ古意を判読するだけでは足りない。古言と私達との間にも、語り手と聞き手との関係、私達が平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を、創りあげなければならぬと考えた。それは出来る事だ。「万葉」に現れた「言霊」という古言に含まれた、「言霊」の本義を問うのが問題ではない。現に誰もが経験している俗言の働きという具体的な物としっかりと合体して、この同じ古言が、どう転義するか、その様を眼のあたり見るのが肝腎なのである。……
――「うひ山ぶみ」には、学問の「しなじな」が分類されている。宣長は、当時の常識として、言語の学をその中に加えるわけにはいかなかった。が、言霊という言葉は、彼には、言霊学を指すと見えていたと言ってもよいのである。契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持っていたから、決して辞書的な語釈に安んじていたわけではなかったが、語義を分析して、本義正義を定めるという事は、彼等の学問では、まだ大事な方法であった。ところが宣長になると、そんな事は、どうでもよい事だと言い出す。――
――「語釈は緊要にあらず。(中略/小林先生記;池田補記)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば、諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々の言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意、用ひざまたがひて、あらぬひがごと、多きぞかし」(「うひ山ぶみ」)……
――これと殆ど同じ文が「玉勝間」(八の巻)にも見えるところからすると、これは、特に初学者への教えではなく、余程彼の言いたかった意見と思われる。古学に携る学者が誘われる、語源学的な語釈を、彼は信用していない。学問の方法として正確の期し難い、怪し気なものである以上、有害無益のものと断じたい、という彼のはっきりした語調に注意するがよい。契沖、真淵を受けて、「語釈は緊要にあらず」と言う宣長の踏み出した一歩は、百尺竿頭にあったと言ってもよい。……
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さて今回も、小林先生の文章の、写生に徹しました。この「写生」は、そこで何が言われているかもさることながら、その「何」が、「どういうふうに」言われているかを読み取る、という以上に、感じ取る、そうしてこそ筆者の深意に行き着ける、という思いがそのつど高まってきているからですが、今回、私のこの思いは本誌の誌名「身交ふ」の由来にも通じることに気づきました。本誌では毎号、巻頭に「誌名『身交ふ』について」と見出しを立てて小林先生の言葉を紹介しています。「考える」という言葉の古語は「考ふ」ですが、この「かんがふ」の元は「かむかふ」であり、「むかふ」は「身交ふ」であって、「考える」とは本来、人とであれ物とであれ、頭でだけでなく身体全体で交流することを言う言葉なのだと小林先生は言われています、だとすれば私が始めた「文章の写生」も「身交う」なのであり、今回の「本居宣長」第三十四章の写生は、小林先生ご自身と再会して先生の話しぶりに耳を傾けていたに等しかったのです。
(了)
