小林秀雄「本居宣長」を読む(四十五)

小林秀雄「本居宣長」を読む(四十五)
第二十二章
「引用」から「写生」へ
池田 雅延  
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 小文「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、前回までの五回にわたって「本居宣長」第二十一章の全文を引用しました。これは、第二十章、第二十一章が、賀茂真淵と本居宣長の息づまるばかりの師弟劇として書かれ、第二十一章は、その全文が第二十章で設けられた問いに応じるかたちで書かれていると読め、そうであるなら第二十一章の抜粋引用は意味がない、全文引用によってこそ小林先生の「学問とはいかなるものか」が丸ごと享受できると私が思い定めての大規模引用でしたが、ここにはかつて、小林先生が私に言われた「批評は引用に尽きるのだよ、ここぞと思える箇所が引用できたら、批評家の評言などは一言も要らないのだよ」が素地にありました。ということは、私には第二十一章の全文が「ここぞと思える箇所」でした、ということなのでした。

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 ところが今回、第二十一章に続いて第二十二章を読み始めるや、私は「引用」と同時に「写生」にも前々から心を奪われている自分に思い当りました。本誌『身交ふ』の姉妹誌『好・信・楽』の本年(令和八年)春号に、私は次のように書いています。――こうして私は、特に「本居宣長」の単行本を造らせてもらってからの私は、小林先生に関する解釈や議論をいっさい忌避し、先生の文章を細部の細部まで写し取るような読み方を心がけ、先生亡き後は「小林先生の文章は絵筆を握って風景や静物を写生するときのように読む、それが一番なのだ」と後輩たちに語りもしましたが、私がこういうふうに言い出したについてはそのもとも小林先生の文中にあったのです。小林先生は「本居宣長」に続いて上梓じょうしされた「本居宣長補記Ⅱ」(「小林秀雄全作品」第28集所収)で宣長の著作「直毘霊なおびのみたま」に言及されています。「直毘霊」は、現代の国語辞典、たとえば『日本国語大辞典』に「『古事記』の研究を通じて体得した宣長の神道説・国体観等の要旨を述べたもの」と説かれていますが、「本居宣長補記Ⅱ」で小林先生はこう言われています。――「直毘霊」の仕上りが、あたかも「古典フルキフミ」に現れた神々の「御所為ミシワザ」をモデルにした画家の優れたデッサンの如きものと見えて来る。(宣長にとって/池田註記「古事記」を注釈するとは、モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを、画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。……
 こうして本居宣長は、三十五年もの間、「古事記」を熟視しつづけました。その宣長を小林先生は十二年余にわたって熟視しつづけられ、来る日も来る日も宣長の所為シワザを追う先生の眼を先生の手が追いました。視力、筆力ともに及びもつかない私ですが、気構え心構えは宣長に、小林先生に、私も倣おうとするのです。

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 そういう次第で前回まで、順次「小林先生の文章を引用」してきたのですが、ここからは「小林先生の文章を写生」します。まずは「本居宣長」第二十二章の起筆です。
 ――「うひ山ぶみ」を書く頃になると、真淵の亜流を、はっきり意識して、「今の人は、口には、いにしへいにしへと、たけだけしく、よばはりながら、いにしへの定まりを、えわきまへざるゆゑに、古へは、定まれることはなかりし物と思ふ也」と笑っている。歌の伝統の姿の、退きならぬ定まりが、眼に映じてもいない者が、復古を口にしてみたところで、むなしい事だ。歌は、主義や観念から生れはしない。詠歌とは長い伝統の上を、今日まで生きつづけて来た、具体的な言葉の操作である。「今の世」「今の心」の、それも歌道の衰退した現在の現れという、実際問題である。この宣長の考えは、「あしわけ小舟」「うひ山ぶみ」を通じて一貫している。詠歌の手本として、「新古今」は危険であるし、「万葉」は、「世モノボリテ、末ノ世ノ人ノ耳ニ、トヲクシテ、心ニ感ズル事スクナシ」、「上古ノ歌ノサマヲミ、コトバノヨツテオコル所ヲ考ヘナドスル、歌学ノタメニハ、ヨキ物ニテ、ヨミ歌ノタメニハ、サノミ用ナシ」。そうなると、詠歌の実際問題としては、「歌の真盛マサカリ」を達成した定家の、「モツパラ三代集ヲ用ヒテ手本ニセヨ」という考えは、「中古以来ノオキテ」として、今も動かない。だがこれとても、動かす必要がないというだけの話で、手本として絶対だと言うのではない。「うひ山ぶみ」では、「代々の集を見渡すことも、初心のほどのつとめには、たへがたければ、まづ世間にて、頓阿とんあほふしの草庵集といふ物などを、会席などにも、たづさへ持て、題よみのしるべとすることなるが、いかにもこれよき手本也」と言っている。明らかに、これは宣長自身そうして来た事を、正直に語っているのである。宣長は、自身の実際の経験に即した事しか、人に教えなかったとも言えよう。
 ここに、詠歌の上で、歌学をどう心得るかについての、彼の意見を引用しておくもよかろう。
「今の世にいたりても、歌学のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて、歌は、歌学のなき人に、上手がおほきもの也。こは専一にすると、しからざるとによりて、さるだうりも有ルにや。さりとて、歌学のよき人のよめる歌は、皆必ズわろきものと、定めて心得るは、ひがごと也。此二すぢの心ばへを、よく心得わきまへたらんには、歌学いかでか歌よむ妨ゲとはならん。妨ゲとなりて、よき歌をえよまぬは、そのわきまへのあしきが故也。然れども、歌学の方は、大概にても有べし。歌よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ。歌学のかたに、深くかゝづらひては、仏書からぶみなどにも、広くわたらでは、事たらはぬわざなれば、其中に、無益の書に、テマをつひやすことも、おほきぞかし」(「うひ山ぶみ」)――これも、自分の事を言っているのだと思えば面白い。宣長は、歌学者であって歌人ではなかった。そう言うと、従って、彼にとっては、詠歌は、歌学の為の手段に過ぎなかったと、苦もなく言葉を続けたがるが、大事なのは、この手段という言葉の、彼にとっての意味合なのだ。
 歌に行く道は、歌を好み信じ楽しむ人にしか開かれていない。歌を知るには、歌をむという大道があるだけで、他に簡便な近道はない。この考えは、宣長にとっては、ほとんど原理の如きものであって、遂に歌人となって、歌学が手段となるか、歌学者に成長して、詠歌が手段となるかは、それから先きの話なのである。詠歌は歌学の骨格を成すものであり、詠歌の上で、古風後世風を、自在に詠み分けられないようでは、歌学者とは言えない。その点で、彼は、はっきりした自信を持っていたし、歌学者として、この自信があれば足りるとしていたので、名歌を詠もうとも、自作が名歌だとも、考えてはいなかった。彼の歌は、大部分後世風のものだとは言えるが、新古今風のものとは言えない。古学を事とする者が、何故後世風の歌を、多く詠むかという質問に対しても、彼の答えは、まことにはっきりしている。「古風は、よむべき事すくなく、後世風は、よむ事おほきが故也。すべていにしへは、事すくなかりしを、後世になりゆくまにまに、よろづの事しげくなるとおなじ」(「うひ山ぶみ」)、理由は、簡単明瞭だ、自分は後世に生れ合せたからだ、と言うのである。
 私達は、「万の事しげ」き今の世に生きているので、これをどうしようもない。宣長は、文中に、次のような問いを設けている、「モシ、マハリトヲク、今日ニウトキヲ、キラハバ、和歌モ同ジ事也。誹諧ハイカイコソ、今日ノ情態言語ニシテ、コレホド人ニ近ク、便ナルハアラジ。何ゾコレヲトラザル」、答えてわく、「スベテ、我方ニテ、連歌誹諧ウタヒ浄瑠璃ジャウルリ小歌童謡ノルイ、音曲ノルイハ、ミナ和歌ノ内ニテ、其中ノ支流、一種ノ音節体製ナレバ、コレラニ対シテ、和歌ヲ論ズベキニアラズ。其中ニツイテ、雅俗アルヲ、風雅ノ道、ナンゾ雅ヲステテ、俗ヲトラン。本ヲオイテ、末ヲモトメンヤ。サレドモ又、コレモソノ人ノ好ミニ、マカスベシ」。その人の好みにまかすべし、という言葉は、此処ここだけではない。文中幾つも出て来る。「詩ガマサレリト思ハバ、詩ヲツクルベシ、歌ガオモシロシト思ハバ、歌ヨムベシ。又詩歌ハ事情ニトヲシ、誹諧ガ、今日ノ世情ニチカシト思ハバ、ソレニナラフベシ。又詩歌連誹レンパイ、ミナ無益トオモハバ、何ニテモ、好ムニシタガフベシ」。こういう言い方は、宣長の明瞭な時代意識を示す。
 学問界も、正学せいがくの権威は、既に地に落ちて、「甲の説を、乙はそしり、東の論をば、西にてやぶり、かのますにはかり、車につむべきやから、さまざまの説を、いひのゝしり、湯の沸くがごとく」(「花月草紙」二の巻)と、やがて松平定信に言わせ、「異学の禁」を招く情勢を準備していた。宣長が「ソノ人ノ好ミニ、マカスベシ」と言うのは、自分は自分の好みに従うという意味である。自分も、諸君の流儀で、自分の好む歌学に従い、自分の信ずる見解を述べるだけだが、学問の方法まで、自分の好みに従ってくれるとは夢にも思っていない。自分の歌学では、歌の雅俗という審美しんび的判断と、歌の伝統の本流支流という歴史的認識とは、同じものだ。彼はそう言いたいのだ。…… 
 
 かくして今回の写生はここまでとし、次回は、
 ――さて、この辺りで、宣長が、自分の見解の説明に、苦労している見本を示しても、読者に唐突の感を与える事はあるまい。……
 と言われて始まるくだりを写生します。宣長が自分の見解の説明に苦労している様が、第二十二章の中盤から第二十三章にかけて、知恵の輪のように描き出されています。
(つづく)