小林秀雄山脈の裾野散策 (二十一)

 小林秀雄山脈の裾野散策(二十一)
       
 「慶州」再読
大島 一彦  
 小林秀雄の朝鮮紀行「慶州」(昭和十四年発表)は、昨年池田雅延氏の講座で採上げられるまで久しく読返してゐなかつた。従つて全体の記憶は薄れてゐたが、ただ一箇所、小林が子供達に尻を押されて急な坂径を登つて行く光景だけはユーモラスなイメージとなつて残つてゐた。ところが読返して驚いた。そこにはかう書かれてゐたからである。
 「天気が怪しくなつて来た。宿で番傘を借り、せきくつあんに行く山径を登る。子供が四人ついて来る。お尻を押して幾らか貰ふ積りなのである。いくら断つても、諦めないで何処までも見え隠れについて来る。頂上近くにさし掛かると、急坂があつて、そこへ来るとバラバラと追ひ附いて、僕等の尻に手を掛けた。はゝあ、此処が目当てだつたのか、と少々不憫だつたが、尻など押されてはかなはぬので、駈け上る様にして手を振ると、やつと諦めて還つて行つた。」
 実際には小林も同行の彫刻家岡田春吉も尻を押されてはゐなかつたのである。どうしてさう云ふ反転が起つたのか、不思議なこともあるものだと暫し考へてみたが、多分かう云ふことではないかと思ふ。初めてこの文章を読んだとき、眼は引用した文を辿つてゐたが、小林が子供達に尻を押されて坂を登るのもユーモラスで面白いなと云ふ想ひがふと脳裡をよぎつたのであらう。やがて時が経つうちに、原文の方は忘れて、その脳裡を過つた想念の方が記憶に残つた、多分さう云ふことだつたのであらう。
 それはともかく、以下、小林は仏国寺石窟庵での美的体験を熱つぽく語つてゐる。巨大な台座に坐つた見上げるやうな丸彫りの釈迦像の「毅然きぜんたる美しさ」。その背後の壁面に彫られた十一面観音、比丘像、菩薩像等の「非常な美しさ」。「比丘の像から受ける印象だけで、その豊富さを僕の感受性は殆ど支へ兼ねたが、これらの像と女体の菩薩の像との対照は水際みずぎは立つたものであつた。菩薩等の姿は、いかにも延び延びと自然で、正確な均斉のうちに自然な女体の肉感があふれて見えた。」
 池田氏によると、小林はこの頃から次第に造形美術に強い関心を持つやうになるが、そのきつかけの一つにこの仏国寺石窟庵での美的体験があつたやうである。なるほどと思ひながら続きを読んで行くと、もう既にいかにも小林らしい飽くまでも実感に基づく美に関する思索が始まつてゐる。
 「……新羅の盛時は、日本なら天平、支那なら唐だ。かういふ像が、どこまで唐の影響の下にあつたか、どこまで日本の仏像に影響したか、さういふ詮索は、幸ひにして僕の無学が許さなかつた。感じられるものは、もつと直かな、これらを刻んだ人間の心がらであつた。
 「菩薩から比丘に転じたり、又しては本尊の体軀たいくを見上げたりしてゐるうちに、この狭い丸い部屋に充満して錯綜する美しさに次第に疲れて来た。
 「……何故美しいものを見てこんなに疲れるのかといふ質問がふと心に浮んだ。愚問と考へるいとまもなく、勿論向うに罪はないのだ、と僕の心は直ちに応じた。……
 「山を下りながら、僕はいつかその事を考へ込んでゐた。あゝいふ美しいものを見て、心が一向楽しくなつてゐないのを感じて、僕は何んとなく不機嫌であつた。
 「こちらに欠けてゐるものは解り切つてゐる。それはあの彫刻家が持つてゐた仏といふものだ。それは想像してみて近附けるといふ様なものではあるまい。仏はあるか無いか二つに一つだ。それにしても仏のない美、そんなものが一体考へられるか。では部屋に満ちてゐた奇妙な美しさは何なのか、確かに何かを自分はしかと感じてゐた。だから疲れたのだ。では何に疲れたのか。こちらに仏が無い事に疲れたのだ、それに間違ひはない。すると、と先きを考へようとして、僕は言葉を失つて了つた。暗中摸索の思ひで、しばらく道を下ると、突然エステティックといふ言葉が浮んだ。僕はいよいよ不機嫌になつた。
「仏国寺から自動車で慶州に向ふ。ポプラの並木が風になびいてゐる様を、脆弱ぜいじゃくな感じだと思つて眺めてゐるうちに、それは醜悪にさへ思はれた。俺は何んの影響の下にあるのか、そんなわけの解らぬ独語を僕は心の裡で繰返した。」
 小林は仏像彫刻様式の歴史に無学であることを「幸ひ」としてゐる。さう云ふ知識から対象に迫るやり方をそもそも小林は好まないからだ。その替り直かに感じられてゐる彫刻家の「心がら」に心を向けようとする。それにしても、なぜああ云ふ美しいものを見て疲れ、心が楽しまないのか。小林は不機嫌になる。彫刻家の「心がら」には「仏」があり、その仏心と彫刻家としての腕が一体となつて部屋に充満する美しさを創り出してゐたことは確かだ。しかしこちらの心には「仏」はない。それなのに「美」だけは確かに実感してゐた。「仏のない美」――そんなものが考へられるか。しかし小林は考へつづける。すると「エステティック」と云ふ言葉が浮ぶ。小林はいよいよ不機嫌になる。「俺は何んの影響の下にあるのか」と云ふことになる。
 エステティックは美学の意だが、小林は美学をあまり信用してゐない。にもかかはらずかう云ふ方向、つまり仏のない美と云ふやうな方向に思索を進めると美学が立ちはだかつて来る。不機嫌にならざるを得ないわけだが、それと云ふのも、小林はこのときより既に十年も前に美学と云ふものを次のやうに認識してゐたからである。
 「人は藝術といふものを対象化して眺める時、或る表象の喚起するある感動として考へるか、或る感動を喚起する或る表象として考へるか二途しかない。こゝに恐らくあらゆる学術中の月たらず、、、、美学といふものが、少くとも藝術家にとつては無用の長物である所以ゆゑんがある。観念的美学者は、藝術の構造を如何様にも精密に説明する事が出来る、なぜなら彼等にとつて結局藝術とは様々な藝術的感動の総和以外の何物も意味してはゐないからだ。実証的美学者等は、藝術がこの世に出現する法則に就いて如何様にも正確な図式を作る事が出来る、何故なら、彼等にとつて藝術とは人間歴史が生む様々な表現技術の一種に他ならない為である。」(「様々なる意匠」、傍点原文のまま)
 勿論小林は観念的美学者にも実証的美学者にもなるつもりはない。藝術的感動と云つても「総和」と云ふことになれば、「正確な図式」同様、特定の個人の体験を離れた一般的概念に過ぎないからである。むしろ仏国寺の石窟庵で自らが体験した「不機嫌」をこそ足掛りにして以後「美」に迫らうとしたと云つてよいであらう。そして三年後の「当麻」ではかう書くことになる――「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない。彼(世阿弥)の『花』の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。」「慶州」では「美しさ」と云ふ言葉が繰返し用ゐられてゐた。「当麻」の時点でならかう云つたかも知れない――あそこには石仏群の美しさがあつたのではない、美しい石仏群があつたのだ、と。
 同じ年に書かれた「無常といふ事」には次のやうな一節がある――「……あれほど自分を動かした美しさは何処に消えて了つたのか。消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。それを摑むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去つて、取戻すすべを自分は知らないのかも知れない。こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるまゝに、別段反抗はしない。さういふ美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑はしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。」
 ここでも小林は自らの美的体験に審美的な問掛けを続けてゐるが、もはや迷路に押しやられても不機嫌になることはなく、美学をきつぱりと拒絶してゐる。かうして仏国寺の石窟庵から出発したと云つてよい小林の美の行脚あんぎゃは、造形美術にとどまらず文学はもとよりさまざまな分野に分け入り、美学を後目しりめにどこまでも自らの美の体験を求めて歩みを進める。そして戦後の「モオツァルト」に至つて、次のやうな一節を書き記すことになる。
 「美は人を沈黙させるとはよく言はれる事だが、この事を徹底して考へてゐる人は、意外に少いものである。優れた藝術作品は、必ず言ふに言はれぬ或るものを表現してゐて、これに対しては学問上の言語も、実生活上の言葉もす処を知らず、僕等はむなく口をつぐむのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちてゐるから、何かを語らうとする衝動を抑へ難く、しかも、口を開けば嘘になるといふ意識を眠らせてはならぬ。さういふ沈黙を創り出すには大手腕を要し、さういふ沈黙に堪へるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。美といふものは、現実にある一つの抗し難い力であつて、妙な言ひ方をする様だが、普通一般に考へられてゐるよりも実は遥かに美しくもなく愉快でもないものである。」
 これは或る日たまたま小林の脳裡に浮んだ気の利いた箴言しんげんなのではない。仏国寺石窟庵で体験した「不機嫌」から出発して辿り着いた地点から発せられた肺腑の言なのである。
(この項了)