小林秀雄山脈五十五峰縦走(二)

小林秀雄山脈五十五峰縦走(二)
第一峰 一ツの脳髄
池田 雅延   
          

 「小林秀雄山脈五十五峰縦走」講座の第一回は、小林先生の小説を代表する作品「一ツの脳髄」です。
 小林先生は、最初は小説家を志していました。先生の小説には次の七作品があります。
  「蛸の自殺」(大正11年<1922>11月)、「小林秀雄全作品」第1集所収 
  「一ツの脳髄」(大正13年<1924>7月)、同
  「飴」(大正13年<1924>9月)、同
  「女とポンキン」(大正14年<1925>2月)、同
  「からくり」(昭和5年<1930>2月)、同
  「眠られぬ夜」(昭和6年<1931>9月)、同第3集所収
  「おふえりや遺文」(昭和6年<1931>11月)、同
  「Xへの手紙」(昭和7年<1932>9月)、同第4集所収
 現在のところ処女作と見られているのは大正十一年十一月、二十歳で発表した「蛸の自殺」ですが、これに続いたのが二十二歳の年の「一ツの脳髄」でした。
 しかし、昭和七年、三十歳の年に書いた「Xへの手紙」を最後に先生は小説を書かなくなり、昭和四年、二十七歳の年、「様々なる意匠」によって批評家として文壇に出た道を一筋に歩んで日本における近代批評の創始者、構築者と称えられるようになるのですが、では、なぜ、小林先生は、「Xへの手紙」を最後に小説を書かなくなったのでしょうか。その周辺については、近々「Xへの手紙」を読むときにしっかりお話しすることとし、今回ここでは小林先生が小説家への道を断念するに至る兆し、と言うより宿命は、すでにして「一ツの脳髄」に現れていたのではないでしょうかということをお話しします。
 
 「一ツの脳髄」は、先ほども言ったように、小林先生の小説を代表する作品ですが、代表作と言っても短篇の私小説です、大正十三年七月、同人雑誌『青銅時代』に発表されました。
 私小説とは、作者自身の身辺の出来事や、それに伴う心境などが作者自身を主人公として書かれている小説をさして言われます、「一ツの脳髄」では若き日の小林先生と思われる「私」が独り、神奈川県の真鶴まなづるまでは船で、真鶴からは乗合バスでと辿って湯河原ゆがわら温泉に宿を求めます。神経を病んでいるようで、自分の脳が自分の脳を意識する、それを何とかしようとしての旅のようです。
 小林先生の年譜(「小林秀雄全作品」別巻4所収)によれば、先生は大正十年、第一高等学校一年生の年(十九歳)の十月、盲腸周囲炎と神経症のために休学しています。そこに照らして「一ツの脳髄」はその三年前の神経症の経験が基になっているようにも思われますが、三年前の経験そのものでないことは文中の何ヵ所かから知られます。
 まずは、「前の年の九月の地震」と言われています。この地震は大正十二年九月一日に起った関東大震災のことでしょう。また「三年前に父が死んで」と言われています、小林先生の父、豊造氏は四十六歳の若さで亡くなりましたが、それは大正十年三月二十日のことでした。
 これらに加えて、この小説の第一行が、「雪空の下を寒い風が吹いた。枯れかかった香附子はますげが、処々に密生した砂丘の上に、小さな小屋がある」と書き起されているところから推せば、「一ツの脳髄」に描かれている独り旅は大正十三年の年明け頃であったと思われ、年譜には大正十三年六月十日に「一ツの脳髄」を書き上げたと記されています。
 となれば、文中、
 ――何んだか頭の内側がかゆい様な気がした。腫物はれものが脳に出来る病気があるそうだ。自分のにもそんなものが何処どこかに出来かかって居るのではないかしら――。痛いのはいいとして頭の中が痒くなってはたまらないと思った。……
 ――船の作る波が流氷の様に青白く光って海面に拡った。突然、その海の底に棲んで居る魚の凍った様な肌が、生臭い匂いと一緒に脳髄にひやりと触れた。私は身慄いした。……
 ――私は、湯ヶ原まで自動車に乗った。焼け残った電柱や、自動車を見送るすすけた様な少年が、セルロイドの窓を横切った。(中略)過ぎて行く荷車や、犬や、通行人や色々のものが次々に眼に飛込んで来た。疲れた頭が見まいとすればする程、眼玉は逆った。荷車の輪と一緒にグルリグルリ廻っているわらの切れ、車を引いた男の顔から鉢巻の恰好まで見てしまう。電柱が通ると落書や広告を読む。私は苛々いらいらして非常な努力で四角なセルロイドから目を離した。……
 と書かれていることは、いずれも大正十三年、二十二歳の年の年明け頃にも先生が見舞われていたと思われる神経衰弱の症状ですが、この症状は「神経の衰弱」によってというより、「脳髄の自意識過剰」とでも呼びたい先生固有の自照気質によってもたらされていたようです。

         

 先生のこの「脳髄の自意識過剰」状態は、その日、湯河原の宿での夕食時、そして就寝時に歴然と現れます。
 ――額の無暗むやみに広い、目の細い女中が給仕をした。その馬鹿々々しい善良な顔が私を悩ました。食慾は無かったし、話すのも億劫おっくうな気がして何んとなく不機嫌な顔をしていた私の傍で、女は一人でよくしゃべった。私は女のだだっ広いおでこの内側にちょうの卵の様な、黄色い、イヤにツルツルした脳髄が這入っている事を想像した。女の喋る言葉が、次々にその中で製造されているなどと考えた。……
 ――女中は床を敷きに来ると、「おやすみなさい」と丁寧にお辞儀をして障子を閉めた。駝鳥の卵が眠る――私はもう滑稽な気はしなかった。廊下を遠ざかって行く草履ぞうりの音を聞いた。――俺の脳髄を出して見たら如何んなに醜い恰好をしているだろう――湯を使う音が、廊下が喇叭らっぱの様な塩梅あんばいになって時々朗かに響いた。それもやがて途絶えた。……
 ――三年前父が死んで間もなく、母が喀血かっけつした。私は、母の病気の心配、自分の痛い神経衰弱、或る女との関係、家の物質上の不如意、等の事で困憊こんぱいしていた。(中略)母は鎌倉に転地していたので、私は毎日七里ヶ浜に散歩に行った。(中略)空気の断面が一人の病人ののどから這入った先きで二つに分れる突起を無数に造ってザラザラしている。――こんな事を考え乍らブラブラしていた。其時、灰色の海面にポッカリとスベスベした頭を出している黄色い石を見た。帰っても妙にその石が頭についた。私は自分の憂鬱の正体を発見したと思った。友達が遊びに来た時、友達と一緒にその石を見るのが何んとなくイヤで避けて通った。そんな記憶が浮んだ。……
 ――知らぬ間に私は原稿用紙の上に未だむしばまれた穴の数まで覚えている石の恰好を幾つも書いていた。そして今では神経病時代のそんな経験をたわいもない事として眺められるだけにはなっていると思った。……
 ――私は机の上の懐中時計を耳に当ててその単調な音で、静寂からくる圧迫に僅かに堪えながっと前の壁を視詰めていた。と、急にドキリとした。立ち上ろうとしてハッと浮かした腰を下ろした。鎌倉の家で、夜、壁をめた事があった。それを思い出した。「もう舐めないぞ」と冗談の様に呟こうとしたが声が出なかった。……
 そういう一夜が明けて、翌日、先生は真鶴まで歩き、船を待ちます。
 ――次の船は仲々出ない。私は赤い錆の様ななぎさに添うて歩いた。下駄の歯が柔らかい砂地に喰い込む毎に海水が下から静かににじんだ。足元を見詰めて歩いて行く私の目にはそれは脳髄から滲み出る水の様に思われた。水が滲む、水が滲む、と口の中で呟き乍ら、自分の柔らかい頭のおもてに、一と足一と足下駄の歯をさし入れた。狭い浜の汀は、やがて尽きた。私は引き返そうと思って振り返った。と、砂地に一列に続いた下駄の跡が目に映った。思いもよらぬものを見せられた感じに私はドキリとした。私はあわててそれを脳髄についた下駄の跡と一つ一つ符合させようといらった。私はもう一歩も踏み出す事が出来なかった。そのまま丁度傍にあった岩にへたばった――。
……

         

 先ほど私は、「脳髄の自意識過剰」とでも呼びたい小林先生固有の自照気質という言い方をしましたが、小説「一ツの脳髄」を何度も読んでいるうち、「一ツの脳髄」の「脳髄」は過度に勇んだ自意識の比喩、あるいは仮託と思えてきたのです。当時、と言っても「一ツの脳髄」からでは三年余り後の昭和二年十一月ですが、「自意識」ということは小林先生の最大関心事となっていて、一九世紀フランスの詩人ボードレールの詩集『悪の華』を論じてこう言いました(「『悪の華』一面」、「小林秀雄全作品」第1集所収)、
 ――十九世紀に於ける最も深刻なる人間の情熱は恐らく自意識の化学という事であろう。シャルル・ボオドレエルはこれに依って実現し、これに依って斃死へいしした。……
 ――如何なる人間も多少の自意識を必要とする。つまり生きるという事が自意識を強請するからだ。だが多くの人々にとって結局自意識というものは生活防衛の一手段として最も消極的な形式の裡に止まっている。河の流れが石に衝突して分岐する様に、彼等は外象に触れて解析する。かかる人々にとって自意識する主体に触れんとする事は流れを溯行そこうする事で生きる事ではない。彼等は唯流れる。人生の劇に於いて同時に俳優たり観客たることはボオドレエルにとってかかるオオトマティスムの最も精妙な形式に過ぎなかった。そこで彼は自意識を自意識した。人々の生きる事が彼には死ぬ事であった所以である。……
 「自意識」とは、『広辞苑』によれば「自分自身がどうであるか、どう思われているかの意識」、『日本国語大辞典』によれば「自分自身についての意識。外界や他人と区別された、自我としての意識」、『大辞林』によれば「自分自身についての意識、自我意識、自己意識」ですが、私が先生の「一ツの脳髄」から連想したのは「『悪の華』一面」で言われているボードレールの「自意識」でした。そしてこの小林先生のボードレール観は、先生自身の「脳髄の自意識過剰」経験からも得られていると思いました。
 続いて連想したのは、小林先生の文壇デビュー論文「様々なる意匠」(同第1集所収)の次の一節でした。
 ――私には印象批評という文学史家の一術語が何を語るか全く明瞭でないが、次の事実は大変明瞭だ。所謂いわゆる印象批評の御手本、例えばボオドレエルの文芸批評を前にして、舟が波にすくわれる様に、繊鋭な解析と溌剌はつらつたる感受性の運動に、私がざらわれて了うという事である。この時、彼の魔術にかれつつも、私がまさしく眺めるものは、嗜好の形式でもなく尺度の形式でもなく無双の情熱の形式をとった彼の夢だ。それは正しく批評ではあるが又彼の独白でもある。人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!……
 ここまで来れば、小説家小林秀雄から批評家小林秀雄までは一飛びだったと言えるでしょう。
 昭和八年八月、『改造』に書いた「批評について」ではこう言っています。
 ――霊感なんというヘンテコな怪物は世の中に住んでやしない。「唯働け」とロダンは言った。その通りである、人間は唯働く事しか許されていない。立派な作品は天来の声を持っているかも知れない。だが作者が天来の声をまって仕事をしたなら作品は永遠に出来上りはしない。彼は恐ろしい自意識をもって働いたのだ。では自意識とは何んだ? 批評精神に他ならぬ。批評をいて創造というものはないのである。……
 脳髄が自分の脳髄を過度に意識する、自意識が自意識を過剰に意識する……、私はこれを小林先生固有の自照気質という言い方をしてきていますが、この気質は先生が持って生まれた宿命としての気質だったと見てよいようです。その宿命としての気質が先生に自己批評小説「一ツの脳髄」を書かせ、批評家宣言、「様々なる意匠」を書かせたと言えるのですが、先生終生の思索のテーマ「人生いかに生きるべきか」も淵源はやはり先生の自照気質にあったと思われ、この終生の自問を「かく生きるべし」という自答へと進める前提としても、自分という人間、小林秀雄という人間をより深く知ろうとする自意識、すなわち批評精神を眠らせることは絶えてなかったのです。
(了)