●大江 公樹
令和六年(二〇二四)三月七日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十四章 「言葉で作られた『物』の感知」
池田塾頭は陰陽の理について、姓名の画数といふ実例を出して下さいました。私自身ちやうど一年半ほど前に、息子が生まれるにあたり名前の画数に腐心してゐたことから、実例が腑に落ちました。「この陰陽の理といふことは、いと昔より、世の人の心の底に深く染着きたること」といふ宣長の言が、まさに身に染みて感じられた次第です。しかしこの陰陽の理の代表とされる「漢意(からごころ)の理」について、池田塾頭は、漢意の何もかもがだめだといふわけではないようです、と、塾頭が大学生の時に知人の紹介で中国出身の骨相見に会つたことを話され、その骨相見の云ふことがことごとくあたつてゐたこと、そして骨相学はひとつの統計学なのだといふ話を聴かされたといふこと、新潮社への就職のため東京へ出ることになって挨拶に行ったところ、「東京へ行っても、兵庫県人としてこれだけは守るやうに」と云はれ、それを守り続けたこと、をお話し下さいました。物が格(きた)るとはどういふことか、物をむかへに行くとはどういふことか考へる、生きたヒントを頂けたやうに感じます。
第三十四章の終盤で小林先生は、
——從つて、舟で山を登らうとする人がなかつたやうに、呪文で山を動かさうとする人もゐなかつた筈である。そのやうな狂愚を、秩序ある社會生活を營む智慧が、許すわけがなかつたらう。天も海も山も、言葉の力で、少しも動ずる事はないが、これを眺める人の心は、僅かの言葉が作用しても動揺する。心動くものに、天も海も山も動くと見えるくらゐ當り前なことはない。——
と書かれてゐます。引用の前半部では動かぬ山が、後半部では動き出す、「しかし」といふ接続詞を使はずにそのコントラストが述べられることで、「心動くものに、天も海も山も動くと見える」ことが「當り前」なのだといふことが強く印象づけられます。「自由な感情表現の行く道」と「日常生活が歩く合理的な道」が人の中に混同されることなく併存する不思議、面白さを感じる記述でした。
大江 公樹 <感想> 第三十四章 「言葉で作られた『物』の感知」
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