小林秀雄山脈五十五峰縦走(一) 開講にあたって

開講にあたって 
池田 雅延   
 ≪私塾レコダl’ecoda≫の「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、平成三十一年(二〇一九)の二月以来、次のように小林先生の作品を読んできました。

●小林秀雄と人生を読む夕べ 既読作品一覧
     初山踏(ういやまぶみ)
2019・02 美を求める心
      
     秀峰六峰シリーズ
2019・03 ランボオⅠⅡⅢ
     04 ドストエフスキイの生活
     05 モオツァルト
     06 ゴッホの手紙
     07 近代絵画
     08 本居宣長
      
     無常という事シリーズ
2019・09 当麻
     10 無常という事
     11 平家物語
     12 徒然草
2020・01 西行
     02 実朝
          
     講演文学シリーズ
2020・07 文学と自分 
     08 歴史と文学 
     10 私の人生観
     11 表現について
     12 生と死 
2021・01 信ずることと知ること
     02 文化について
     03 常識について

     小林秀雄と作家たちシリーズ
2021・04 中原中也の思い出
     05 芥川龍之介の美神と宿命
     06 志賀直哉
     07 菊池寛論 菊池寛
     08 正宗白鳥 
     09 ドストエフスキイ

     美を求める心シリーズ
2021・10 慶州 「ガリア戦記」
     11 骨董 真贋
     12 鉄斎 雪舟
2022・01 ヴァイオリニスト 蓄音機
     02 梅原龍三郎 地主さんの絵ⅠⅡ
     03 ルオーの版画 ルオーの事
                  
 これを承けて令和四年四月からは「小林秀雄山脈五十五峰縦走」を始めます。
  「小林秀雄山脈」とは、小林先生が六十年にわたって世に送り続けられた作品系列を、飛騨山脈、奥羽山脈、などの荘厳な山並に見立てて池田が用いている美称ですが、若き日、小林先生は、後に『日本百名山』(新潮社)を著した文士仲間、深田久弥氏に連れられて何度も山へ登っていました、「小林秀雄山脈」にはそういうイメージも重ねています。
 そこで、さて、ここにその「小林秀雄山脈」のなかでもひときわ高く、美しい峰々を中心として五十五峰選び、小林秀雄作品を初めて読もうとされる方、いっそうしっかり読もうとされる方のために道しるべを用意しました。次に掲げる「小林秀雄山脈五十五峰」がそれです。


小林秀雄山脈五十五峰
 配列は作品の発表年月順です。
作品名に*印を付した作品は、令和四年四月以降、「小林秀雄と人生を読む夕べ」で読んでいきます。
*印のない三十四作品は、令和四年三月までにひとまず読んでいます。
作品名の次にある年月は当該作の発表年月、年齢はその時期の小林先生の満年齢です、また行末にある[1][2][3]…は新潮社刊「小林秀雄全作品」(全二十八集別巻四)の第1集、第2集、第3集…に収録されている旨を示します。


*1 一ツの脳髄             
 大正一三年(一九二四)七月 二二歳 [1]
 小林先生の小説の、代表作ともいえる私小説です。旧制高校三年の夏に書かれました。
神奈川県の真鶴まなづるまでは船で、真鶴から湯河原へは乗合バスでと、「私」は独りで旅に出ている。神経が病んでいる。自分の脳が自分の脳を意識する。それを癒そうとしての旅らしい。帰りの船を待つ間、下駄の歯を意識しながら真鶴の汀を歩き、引き返そうと振り向いた時、一列に続いた下駄の跡が目に入る、それを、自分の脳についた歯の跡と符合させようとして「私」は苛立ち、一歩も踏み出せなくなる…。        

*2「悪の華」一面          
 昭和二年(一九二七)一一月 二五歳 [1]
  「悪の華」は、今日、象徴詩と呼ばれている詩型の先駆となった一九世紀フランスの詩人、ボードレールの詩集です。小林先生は第一高等学校在学中にボードレールを知って「悪の華」をボロボロになるまで熟読、「詩人が批評家を蔵しないということは不可能である」という言葉にも出会って大きく目をひらかれ、後の「批評家小林秀雄」の心髄も文体もボードレールによって培われました。「『悪の華』一面」という文章自体は難解ですが、五十二歳の年の春、ボードレールを読んだことは自分の生涯の決定的事件だったと先生自ら言っています。
                             
*3 様々なる意匠            
 昭和四年(一九二九)九月 二七歳 [1]
 小林先生の文壇デビュー評論であり批評家宣言です。昭和四年、雑誌『改造』の懸賞評論に応じ、第二席に入って同誌の同年九月号に掲載されました。当時、批評といえば評者の趣味やマルクス主義などのイデオロギーを作者に一方的に押しつける、そういうものでした。小林先生はそれらの評者に烈しく詰め寄ります、批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない、批評とはついに己れの夢を懐疑的に語ることではないのか! この雄叫おたけびが日本の文学史に近代批評の道を拓き、以後五十年以上にわたって続いた小林先生自身の自己発見への旅立ちとなったのです。
                             
 4 志賀直哉             
 昭和四年(一九二九)一二月 二七歳 [1]
  「様々なる意匠」で文壇に出て、最初に発表した作品が「志賀直哉」です。小林先生は早くから志賀直哉に傾倒していましたが、直哉のどこに惹かれていたか、それがこの評論でよくわかります。一つは、古代人さながらの鋭敏な神経です。もう一つは精神的にも肉体的にも自分の個性を肯定し、自分独自の道徳に則って行動する「ウルトラ・エゴイスト」の生き方です。小林先生自身のなかで、すでに古代人の神経を具えたウルトラ・エゴイストが目覚めていたのです。

 5 ランボオ詩集           
 昭和五年(一九三〇)一〇月 二八歳 [2]
 ランボーは、一九世紀フランスの詩人です。小林先生は第一高等学校三年に上がる春、神田で彼の詩集『地獄の季節』の原書と出会い、その場で激しく打ちのめされました。以来数年、ランボーという事件のなかにあり、大学の卒業論文もランボーでした。大学を出た翌々年、白水社から『地獄の季節』の翻訳を出し、その後も何度か改訳、追加等を繰り返し、昭和四十七年(一九七二)、東京創元社から『ランボオ詩集』を出して定稿としました。実に五十年におよんだランボーとの親交でした。

 6 正宗白鳥              
 昭和七年(一九三二)一月 二九歳 [3]
 昭和十一年(一九三六)、小林先生はトルストイの家出をめぐり、正宗白鳥と大論争を繰り広げました。文学とは何かに関して信念を異にする二人は激しく衝突しましたが、文学上の信念を超えてそれ以前から、そして終生、白鳥は小林先生が敬愛してやまない先達でした。同二十三年には「大作家論」と題して親しく対談しましたし、小林先生の最後の雑誌連載は「正宗白鳥の作について」でした。小林先生は、白鳥の生き方にも作品にも見られる「奇妙ななげやり」に白鳥の天才を見、常に無上の親近感をもって礼を尽しました。

*7 Xへの手紙            
    昭和七年(一九三二)九月 三〇歳 [4]
 俺は元来、哀愁というものを好かない性質たちだ、あるいは君も知っているとおり、好かないことを一種の掟としてきた男だ、それがどうしようもない哀愁に襲われているとしてみたまえ、事情はかなり複雑なのだ――。自分について、恋愛について、孤独について……、三十歳の青年が熱く烈しく訴える独白小説です。わけても恋愛についての独白は、小林先生自身の実生活が背後にあるとされ、男と女であることの謎が知的に認識されていきます。しかし、女は俺の成熟する場所だった……、そう言い置いて先生は小説の筆を絶ちました。                            

*8 故郷を失った文学         
  昭和八年(一九三三)五月 三一歳 [4]
 小林先生は、明治三十年代の半ばに東京で生れました。ところが東京に生れたとは感覚的に合点できず、自分には故郷がないという不安な感情があると言います。明治の東京は開国日本の首都として雑多な物事と早すぎる変化の坩堝るつぼだった、思い出を育む暇はなかった、思い出のないところに故郷はない。文学も同じだ、日本の作家には明治に渡来した西洋文学の伝統に思い出はなく、ゆえに日本の現代文学には故郷がない、大人の鑑賞に耐える現代文学が現れなかったのはそのためだと思いを巡らせます。
                          
 9「罪と罰」についてⅠ       
 昭和九年(一九三四)二月  三一歳 [4]
 9「罪と罰」についてⅡ     
 昭和二三年(一九四八)十一月  四六歳 [16]
 昭和七年(一九三二)の秋から冬への頃、ドストエフスキーの「永遠の良人」を再読し、日本の現代小説などはるかに及ばない文学の手ごたえを再認識した小林先生は、翌年一月に「『永遠の良人』」を、同年一二月に「『未成年』の独創性」を、昭和九年が明けるや「『罪と罰』についてⅠ」をと相次いで発表し、「罪と罰」に関してはさらに約十五年、思索が熟す時機を待って「『罪と罰』についてⅡ」を書きました。こうして小林先生のドストエフスキー研究は、作品論だけで言っても三十年に及びました。

 10 カヤの平             
 昭和九年(一九三四)一〇月 三二歳 [5]
 三十歳の正月、小林先生は深田久弥氏についてスキーを習い始めました。ところが翌月、二人で行った信州発哺ほっぽで大変なことになります。一七〇〇メートル級の山を七つも越えるという山越えスキーに参加してしまったのです。そのときの七転八倒、悪戦苦闘の一部始終を記した「カヤの平」は、後に柳田國男氏が自ら編んだ高校二年生用の教科書に全文載せられ、小林先生は自分の文章が教科書に載って唯一嬉しかったのがこの紀行文だと書いていますが、先生の機知と諧謔とが相俟って全篇これ悲喜劇、最後は抱腹絶倒させられます。
                            
*11 私小説論              
 昭和一〇年(一九三五)五月 三三歳 [5]
 私小説とは、作者が作者自身の実生活に基づき、身辺の出来事や心境を一人称で綴った小説とされています。しかし、小林先生が論じた私小説はそうではありません。一八世紀の末から作家たちはさかんに自己告白を行いましたが、一九世紀後半になって自然科学に圧迫され、近代社会に蹂躙され、実生活では「私」を殺されて告白の道を閉ざされたフロベールやドストエフスキーが、それならと作中人物の告白を通して自己告白をなしとげた小説の意で小林先生は私小説を論じています。彼らは皆、「私」を消して「私」を書いたのです。

*12 作家の顔             
 昭和一一年(一九三六)一月 三三歳 [7]
 トルストイは晩年になって家出し、田舎の小駅で病死しました。正宗白鳥は、彼の家出は妻が怖かったからだ、日記を読むとそれがわかる、人生救済の本家と仰がれている文豪も……と思うと人生の真相を鏡にかけて見るようだと言いました。小林先生は「作家の顔」を書いて反駁します、トルストイのような大天才が、実生活の苦しみを代償として、これが人生の意味だと示してくれた思想は容易に得られるものではない、そういう思想をまた実生活に引下ろして何が面白いと噛みつき、白鳥との間に<思想と実生活論争>が起りました。

 13 菊池寛論            
 昭和一二年(一九三七)一月 三四歳 [9]
 菊池寛は、「恩讐の彼方へ」などを書いた小説家であると同時に文藝春秋の創業者であり、芥川賞・直木賞の創設者ですが、早くに純文学から離れて「真珠夫人」などを新聞に連載、多数の読者を獲得した通俗作家でもありました。そういう菊池の行動力は、若い作家たちから軽侮されたり無視されたりしましたが、小説を書くのは芸術のためではない、生活のためだと公言する菊池に計り知れない人間の大きさとリアリストの真髄を見て、小林先生は正宗白鳥に抱いたと同じ敬愛の念を抱き続けました、その顛末が詳しく語られます。

*14 読書について          
  昭和一四年(一九三九)四月 三七歳 [11]
 これは、と思う著者を知ったら、その著者の全集を読めと言います。わかってもわからなくてもよい、無理にわかろうとはせずに、とにかく隅から隅まで読む、すると全巻全ページを読み上げたときには小暗いところで人と会い、顔は定かにわからぬが手はしっかり握りあったというにも似た感覚が得られる、そうなればしめたものだ、個々の作品の出来具合や世間の評判などには関わりなく、ちょっとした片言隻句にも著者の全体像が感じられるようになる、ここまで読み通してこそ本はおもしろくなるのだと力をこめて説きます。

 15 ドストエフスキイの生活      
 昭和一四年(一九三九)五月 三七歳 [11]
 一九世紀ロシアの作家、ドストエフスキーの評伝です。ドストエフスキーは二十八歳の年、社会主義研究サークルの仲間とともに逮捕され、銃殺刑を言い渡されますが執行直前に赦されてシベリアの監獄へ、さらに兵役へと送られます。自由の身になってからも波瀾万丈でした、恋の狂奔、桁外れの賭博、繰返し襲ってくる精神疾患……小林先生はこの偉大な作家の肖像画を小説ではなく批評の描写で描くという空前の手法に挑み、見事に達成しました。先生が日本における近代批評の創始者と呼ばれるに至った最初の足跡がここにあります。

 16 慶 州             
 昭和一四年(一九三九)六月 三七歳 [12]
 日中戦争下の昭和一三年(一九三八)一〇月、友人の彫刻家、岡田春吉氏の兄の招待を受けて朝鮮から満州、華北を旅行した際、朝鮮の慶州郊外にある仏教遺跡、仏国寺と石窟庵を訪れました。仏国寺は新羅時代の石塔などが残る古刹(こさつ)ですが、石窟庵に入ってそこに居並ぶ仏像を見るなり小林先生は俄然心を動かされ、これらすべて、申し分のない一流品だと、一流品ならではの強い感じを受けます。あの部屋に満ちていた奇妙な美しさは何なのか……、これが、以後、急激な深入りを見せた美の世界への第一歩となったのです。

*17 人生の謎           
 昭和一四年(一九三九)一〇月 三七歳 [12]
 小林先生は、日本における近代批評の創始者ですが、世界的規模での創始者は一九世紀フランスの批評家サント・ブーブで、小林先生はサント・ブーブに倣って新しい道を切り拓いたのです。そのサント・ブーブが、「人生の謎とは一体何であろうか。それは次第に難かしいものとなる、齢をとればとる程複雑なものとして感じられて来る、そしていよいよ裸な生き生きとしたものになって来る」と言っているこの言葉が、またしても小林先生の心の奥の方で強い音となって鳴ります、そのつど先生はドキンとすると言います。

*18 オリンピア           
 昭和一五年(一九四〇)八月 三八歳 [13]
 小林先生はスポーツも好きでした。若い頃は野球、登山、スキーを、五十代からはゴルフをと自ら実技を楽しみ、相撲はテレビ観戦を欠かしませんでした。「オリンピア」は、一九三六年のベルリン・オリンピックの記録映画で、小林先生の文章はそれを観た感想なのですが、砲丸投げの選手が位置につき、投げようとするまでの肉体の描写は読者も手に汗をにぎるほどです。そしてそこから詩人や思想家にとっては言葉が砲丸である、と言い、言葉の故郷は肉体だが……と、思索の糸を伸ばしていきます。

 19 文学と自分          
  昭和一五年(一九四〇)一一月 三八歳 [13]
 日中戦争が始まった当時、戦争に対する文学者の覚悟とはと雑誌社から問われ、その問い自体には馬鹿々々しくて答えなかったが、と切り出し、文学はあくまでも平和の仕事である、したがって、外から仕入れた様々な知識の国に遊ぼうとせず、自分が直接経験できるきわめて狭い世界だけを確実なものと信じ、この世界のなかだけで自得するより正しい道はないと覚悟する、それが文学者の覚悟である、己れの世界は貧しく弱く不完全なものだが、そこで一筋に工夫を凝らすのがものを本当に考える唯一の道なのだと説きます。

 20 歴史と文学            
 昭和一六年(一九四一)三月 三八歳 [13]
 小林先生は、当時、明治大学で、文学とともに日本史を教えましたが、歴史の勉強は暗記地獄という状況はその頃も同じで、学生はみな歴史に冷淡になっていました。これではいけないと、小林先生は同僚の先生たちに提案します。建武中興なら建武中興、明治維新なら明治維新、というふうに歴史の急所に重点を定め、そこを精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微にわたって教えるのだ、学生の心は人生の機微にふれて感動しようと待ち構えている、そういう学生の心をまず尊重する、歴史教育はそこからだ……。

 21 「ガリア戦記」          
 昭和一七年(一九四二)五月 四〇歳 [14]
 小林先生は、昭和一三年(一九三八)頃から陶磁器をはじめとする骨董に熱中し、色と形とだけの世界で視覚と触覚に精神を集中する暮しを続けました。そこへ一七年二月、「ガリア戦記」の翻訳が出ます。古代ローマの武将、カエサル(シーザー)の遠征報告書ですが、言葉を封じて視覚と触覚だけに集中していた先生には、この史書が現代の文学とは異なり、強い彫りの線や、石の手触りなどをさえ感じさせる古代の美術品のように迫ってきたと言います。先生は、美に沈潜することによって、かえって深く文学の現在を見すえたのです。

 22 当 麻             
 昭和一七年(一九四二)四月 四〇歳 [14]
  「当麻たえま」は世阿弥の手になった能です。小林先生は梅若万三郎の舞台で初めて観て、まったく経験したことのない感覚に襲われます。そして、次の言葉を記します、美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない……。先生の「当麻」を読むとは、この言葉に秘められた先生の驚愕と得心を読むことに尽きると言っても過言ではありません。この言葉は、十代から久しく西欧文学に心酔し続けていた先生が、四十歳を目前にして日本に回帰し、日本の美と思想を初めて目の当りにして挙げた驚きの声だったとも言えるのです。

 23 無常という事          
 昭和一七年(一九四二)六月 四〇歳 [14]
 一般に「無常」という言葉はこの世のはかなさを言った仏説、あるいはそこから派生した死の類語と受取られています。しかし小林氏は、そうではないと言います、「この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいつ如何なる時代でも人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」……。では小林氏の言う「人間の置かれる一種の動物的状態」とはどういう状態でしょうか。現代人が見失った「常なるもの」とは何なのでしょうか。

 24 平家物語            
 昭和一七年(一九四二)七月 四〇歳 [14]
  「平家物語」といえば、その語りだし――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす……がよく知られ、平家の栄華と滅亡を仏教的無常観を主題として描いた軍記物という読み方が一般的です。しかし、小林先生はそうは読みません。巻九の「宇治川先陣」を取上げ、太陽の光と人間と馬の汗とが感じられる、自然児たちの隆々たる筋肉の動きが写されている、僕らは彼らの涙がどんなに塩辛いかを理解する……と言って、この物語を豪快闊達、天真爛漫な活劇と読んでいきます。

 25 徒然草             
 昭和一七年(一九四二)八月 四〇歳 [14]
 小林先生は、70歳を目前にした講演でこう言っています、「徒然草」を残した兼好法師は、私たち批評を書く者には忘れることのできない人です、彼が死んでから六百年余りになるが、この人を凌駕するような批評家は一人も現れていないのです……。小林先生の批評は終始一貫、人生いかに生きるべきかの探求でしたが、兼好はそういう批評の大先達なのだと言い、彼には物が見え過ぎていた、この、物が見え過ぎ解り過ぎるつらさを彼は「怪しうこそ物狂おしけれ」と言ったのだ、「徒然草」の眼目はここなのだと言います。

 26 西 行            
 昭和一七年(一九四二)一一月 四〇歳 [14]
 西行は、平安末期から鎌倉初期にかけて生きた歌人です。歌集に「山家集」があり、晩年に詠んだ「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」は特によく知られていますが、小林先生は西行に空前と言ってよい内省家の顔を見てとり、彼にはまず自分の心に疼きがあり、その疼きの内省がそのまま放胆な歌となって現れたと言って、西行の心の疼きを感じ取っていきます。こうして小林先生に導かれて読んでいくうち、西行がすぐ近くまできて詠歌にふけっているような、そんな感覚へと誘われます。 

 27 実 朝           
 昭和一八年(一九四二)二~六月 四〇歳 [14]
  「実朝さねとも」は、源実朝です。鎌倉幕府を開いた頼朝の次男で自身も第三代の将軍となりましたが、歌集「金槐和歌集」に見られる彼の歌に小林先生は「何かしら物狂おしい悲しみに眼を空にした人間」を読み取ります。人口に膾炙した歌「箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄るみゆ」も、「大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、またその中にさらに小さく白い波が寄せ、またその先に自分の心の形が見えて来るという風に歌は動いている」と、実朝の心の調べを聴き取っていきます。

 28 モオツァルト          
 昭和二一年(一九四六)一二月 四四歳 [15]
 小林先生は、音楽はただ虚心に耳を澄まし、聞える音を細心の注意で捕えようと、それだけを心がけていました。そんな先生に、モーツァルトは驚くべき美で答えてくれました。彼、モーツァルトは、自身の天才に苦しみましたが、その苦しみは妻にも見せず、快活に世に処しました、彼の音楽は、そういう人柄の正直な表現だと先生は言い、その美を性急に言葉に飜訳しようとはせず、長年訓練した聴覚と無私とでいま鳴っている音を正確に捕えることに徹しました。そしてそこに、モーツァルトの人間性が鳴り渡るのを聴きました、モーツァルトのかなしさは疾走する、涙は追いつけない……。

 29 ランボオⅢ            
 昭和二二年(一九四七)三月 四四歳 [15]
 小林先生がランボーと出会ったのは、二十二歳の春でした。それから約二十年、詩集「地獄の季節」の翻訳が再刊されることとなり、それを契機として書いた「ランボオⅢ」で、かつての「事件」をまざまざと思い出します。ランボーは十代半ばに詩を書き始め、二十歳前後にはもう筆を絶って世界を放浪、三十七歳で世を去りましたが、その詩魂、その生活力、その行動力、すべてに小林先生は共感し共鳴しました。「ランボオⅠ」[1]、「ランボオⅡ」[2]とともに、これは小林先生の青春の自画像でもあるのです。

 30 骨 董              
 昭和二三年(一九四八)九月 四六歳 [16]
 昭和十年代の半ばから終り頃まで、小林先生は陶磁器をはじめとする骨董(こっとう)に熱中していました。ある日、友人の青山二郎と東京日本橋の骨董店で雑談していたところ、そこへふと鉄砂で葱坊主を描いた李朝の壺が眼に入り、それに烈しく所有欲をそそられて自分でもおかしいほど逆上、数日前に買った最新型の高級時計と交換しました。この時ついた狐が、小林先生の眼を七転八倒させ、五年、六年、七年にもわたって先生を東へ西へ走らせました。いまやっと狐が落ち、人心地ついて、骨董のしたたかさをふりかえります。

 31 鉄斎Ⅱ             
 昭和二四年(一九四九)三月 四六歳 [17]
 鉄斎は明治・大正期の南画家です。その絵、その生き方、いずれも自由奔放、大胆不羈で、この鉄斎に惚れこんだ小林先生は、ある年、所蔵家の好意で四日間、早朝から坐り通してワカガキ、すなわち若い頃の作品だけでも二〇〇点近いという絵を見て見て見て過ごしました。なかでも大作「富士山図屏風」は三時間以上も眺め、絵の隅々までを味わいながら鉄斎の気持ちを文章に写し取ります。私たちはまるで鉄斎と小林先生に連れられて富士山へ登っているような気分になります。もちろん「鉄斎Ⅰ」[15]、「鉄斎Ⅲ」[21]「鉄斎Ⅳ」[21]も面白さは尽きません。

 32 文化について          
 昭和二四年(一九四九)五月 四七歳 [17]
 文化祭、文化会館、文化交流等、行くところ行くところ「文化」ありですが、では「文化」とは何かと問われると日本人は答えられそうで答えられない。「文化」という言葉はたとえば英語「culture」の翻訳語ですが、「culture」の語源には「栽培する」という意があるから西欧人は「culture」と聞けばただちに何かを栽培して実りを得ることと直感して事に当る、しかし、そういう語感を伴わない日本の文化活動では究極の実りは得られまいと小林先生は言い、果実や野菜だけではない、自分自身も「栽培」しなければならないのだと言います。

 33 中原中也の思い出        
 昭和二四年(一九四九)八月 四七歳 [17]
 中原中也は詩人です、大正十四年(一九二五)春、恋人とともに上京し、まもなく小林先生と知りあいますが、先生は秋、その中原の恋人と同棲します。この出来事について中原はほとんど語っておらず、小林先生も中原の死後、中原を思い出すなかで「悔恨の穴は暗くて深い」とだけ言い、そこから中原の全人生を覆っていた悲しみを思い出していきます。中原は、その悲しみを告白によって汲み尽そうとしたが、告白はまた新しい悲しみを作り出した……。小林先生の思い出はみな、かつて中原と二人で見た海棠の色で染められています。

 34 私の人生観           
 昭和二四年(一九四九)一〇月 四七歳 [17]
 私の人生観はこうこうこうですと、手際よく説明するのではありません。「人生観」の「観」という言葉はどういう歴史をもっているかを仏教の「観法」について考えることから始め、明恵上人の画像や宮本武蔵の言葉に、人間を質実に生かす「観」の現れを見ます。「観」は「心眼」に近いとも言えますが、優れた画家は肉眼を鍛え、拡大した視力で物を見る、そういう画家によって描かれた海や薔薇は、見る者に視力の改革を迫ってくる……、そう説いて、美を観る眼によって大きくひらける人生へと読者を誘います。

*35 蘇我馬子の墓           
 昭和二五年(一九五〇)二月 四七歳 [17]
 奈良の明日香村にある石舞台古墳は、古代、大臣おおおみとなって国政の主導権を握り、専横をきわめた蘇我馬子の墓であるとする説があります。小林先生は、その石舞台の天井石の上で、これほどまでの花崗岩を切って墳墓に組み上げた古代人の心に思いを馳せ、そして帰途、大和三山を目にし、「万葉集」の歌人らはあの山の線や色合いや質量に従って自分たちの感覚や思想を調整したであろう、取りとめもない空想の危険を、わずかに抽象的論理によって支えている私たち現代人にとって、それは大きな教訓に思われる……と感じ入ります。

 36 雪 舟               
 昭和二五年(一九五〇)三月 四七歳 [18]
 小林先生は、ある年、長さ15メートル以上にも及ぶという雪舟の大作「山水長巻」を所蔵家の好意で心ゆくまで眺める機会に恵まれました。山水鑑賞が人生の目的になってしまったような男が山路を歩きだす、私も男と一緒に絵の中を歩きだす、と筆を起し、男の目に映る水や岩を次々と文章に写し取っていきます。こうして出来上がった「雪舟」は、まさに「小林秀雄の山水長巻」です、読み進むにつれて読者も雪舟の絵の中を歩いている感覚に襲われ、絵というものはこういうふうに見るものなのかという感動がどんどん高まります。

 37 表現について          
 昭和二五年(一九五〇)四月 四八歳 [18]
 芸術の表現とはどういうことかを、音楽を例にとって考えます。それはおのずと音楽はどう聴くかへと進み、音楽はただ聞えて来るものではない、聴こうと努めるべきものだ、それは作者の表現しようとする意志に近づいていく喜びなのだ、とまず言います。では、どういうふうに近づいていくか、となれば、耳を澄ますよりほかはない、頭ではどうにもならない、黙って耳を澄ませ、自分の耳はどれだけの音を聞き分けているか、自ら自分の耳に問うというような忍耐強い修練、そこに一切があるのだ、と言います。

*38 年 齢              
 昭和二五年(一九五〇)六月 四八歳 [18]
 孔子は「六十歳にして耳順う(みみしたがう)」と言ったが、これは孔子が熱心な音楽家でもあったことと関係があるようだと小林先生はまず言い、そして、孔子は長年、思索と同時に音楽の修練にも精魂をこめた、そうやって耳の鍛錬を重ねてきてみると、人間は話し声や話し方によって判断できる、同じ意味の言葉を喋っても声の調子の差違は如何ともしがたく、そこだけがその人の人格に関係して本当の意味を現す、それが六十歳になってわかった、孔子はそう言ったのだろう、頭の判断は誤りを重ねるばかりだ…、と孔子の意を汲みます。

 39 真 贋              
 昭和二六年(一九五一)一月 四八歳 [19]
 昭和一〇年代の半ばから終り頃まで、小林先生は骨董に熱中していました。骨董に偽物はつきもので、ここでは自分自身の、あるいはその道の達人たちの、さらには商売人たちの眼と心理がどれほど偽物にふりまわされたか、その実体験を披露します。小林先生は、良寛の詩軸をもっていました、それを専門家に見せて自慢すると、遠まわしに偽物だと言われ、糞ッ、またひっかかったかと、傍にあった日本刀で縦横十文字に斬ってしまった、という逸話はいまも語り種ですが、その顛末てんまつはこの「真贋しんがん」に書かれています。

 40 ヴァイオリニスト         
 昭和二七年(一九五二)一月 四九歳 [19]
 小林先生は、音楽が大好きでしたが、一も二もなく好きだった楽器はヴァイオリンで、そういう先生の音楽好き人生のサワリが語られます。かつて日本に来たエルマンやチボーの肉体の動きをまざまざと思い出した後に、一八~一九世紀のイタリアで屈指の奏者だったパガニニは、日頃の一挙手一投足でも聴衆を熱狂させたと言って彼の逸話を次々語り、宗教も哲学も無視してヴァイオリンに独特な歌を歌わせる芸しか信じていなかったパガニニの亡霊を追います。

*41「白痴」についてⅡ         
 昭和二七年(一九五二)五月 五〇歳 [19]
 小林先生が二十代の終りから取組んできた、ドストエフスキーの作品論の掉尾を飾る長篇です。先生は、まず作品を何度も読み、暗記同然にしてから書き始めるのが常でしたが、わけてもこの「『白痴』についてⅡ」は、執筆にかかるや要所はほとんど作品を見ずに書き上げたと言います。あたかもオーケストラの指揮者が譜面を見ずにタクトを振るようにです。そのため、内容は重厚ですが、文章は音楽の名演奏のように流れます。先生自身、ドストエフスキーの作品論としてはこれが最もよく書けていると言っていました。

 42 ゴッホの手紙           
 昭和二七年(一九五二)五月 五〇歳 [18]
 ゴッホは、弟テオに、六五〇通もの手紙を書きました。それを初めて手にした小林先生は、ほとんど三週間、食欲もなくなるほど心を奪われて読み通しました。常に自分自身であろうとし、自分自身を日々新たにしようとしたゴッホの手紙は、めったに現れることのない告白文学の傑作だと先生は言い、その燃えるような手紙文を次々抜き出して写していきます。読んでいくうち私たちは、小林先生がゴッホを語っているというより、ゴッホが小林先生を語っているかのような錯覚にさえ陥ります、先生はそこまでゴッホと一体になっていました。

*43 読書週間             
 昭和二九年(一九五四)二月 五一歳 [18]
 一般教養を得るためにはどんな書物を読んだらよいか、という本が出版されている、開けてみると一生かかっても読み切れないほどの数の本があげられている、実に無意味な事だ、教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう、これは、生活体験に基いて得られるもので、書物も多少は参考になる、という次第のものだと思う、教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかにおのずから現れる言い難い性質がその特徴であって、教養のあるところを見せようというような筋のものではない、と説きます。

 44 美を求める心           
 昭和三二年(一九五七)二月 五四歳 [18]
 小学生・中学生を念頭において書かれた美の世界への招待です。絵や音楽がわかりたいならたくさん見なさい、聞きなさい、まず慣れることが大切だと言い、次には目も耳も訓練しなければ見えない、聞えないと言います。たとえば私たちは、菫の花を見て、たいていは「ああ、菫だ」と思うだけですませてしまいますが、それではいけない、黙って一分間見つめるのだ、すると細かい部分の形や色までが見えてきて、菫の花にも自分の目にも驚くはずだと言い、先生自身の経験に基づく洞察をやさしくわかりやすく、具体的に語って聞かせます。

 45 近代絵画             
 昭和三三年(一九五八)四月 五六歳 [18]
 昭和二二年(一九四七)三月、上野でゴッホの絵と出会って以来、小林先生には西洋美術への熱が高まっていましたが、二七年一二月、「観念でいっぱいになったヨーロッパを見てくる」といって約半年の旅に出ました。そして帰国後、雑誌に「近代絵画」を連載、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ドガ、ピカソを中心として、彼らが自分を現すためにどれほど色に苦心したかを描きだしました。単行本の著者の言葉で、「近代の一流画家たちの演じた人間劇はまことに意味深長であって……」と言っています。

*46 還 暦             
 昭和三七年(一九六二)八月 六〇歳 [24]
 小林先生自身が還暦を迎え、古人は年齢というものの呼びかけにどう応じてきたか、そこに思いを馳せます。還暦といえば昔ならもう隠居だが、隠居という言葉には長い歴史と生活経験が磨いた具体的な思想が含まれているはずだ、孔子は、世間を捨てるのも世間に迎合するのも水に自然に沈むようなものでやさしい、最も困難で最も積極的な生き方は、世間の直中に、つまり水の無いところに沈む事だと考え、これを陸沈と呼んだ、この現実主義は、年齢とのきわめて高度な対話の形式と言えはしないかと老後の生き方に再考を促します。

*47 人 形            
 昭和三七年(一九六二)一〇月 六〇歳 [24]
 昭和三〇年代、国鉄(現JR)の東海道本線には東京から大阪へ向かう夜汽車があり、その夜汽車には食堂車がついていました。ある時、四人掛けのテーブルに小林先生が一人で坐っていたところ、前の席に上品な老人夫婦が腰を下ろし、夫人の袖の蔭から大きな人形が現れます。老夫婦の挙措動作からして人形は戦争で死んだ一人息子だなと先生は察し、そこへ来て先生の隣に坐った若い女性も一目で事を悟り、この五人の会食は沈黙のうちに、和やかに終りました。誰かが余計なことを言ったらどうなったであろうと先生は最後に記します。

*48 花 見              
 昭和三九年(一九六四)七月 六二歳 [25]
 昭和三七年(一九六二)、六十歳の春、小林先生は友人に誘われて信州高遠の桜を見に行きました。それから二年、東北地方への講演旅行を花見が楽しみで引き受けます。山形の酒田ではもう散っていましたが、青森に入ると弘前城の桜が満開でした。六十代、七十代と、春は日本全国に桜の名木を訪ねて行く旅が先生の大事な年中行事になっていましたが、先生が桜の虜になったのは、あるいは弘前城の夜桜からだったかも知れません。この年齢になると花を見て、花に見られている感が深いと、不意に襲ってきた感慨にひたります。

*49 考えるヒント         
 昭和三九年(一九六二)五月 六二歳 [23][24]                
  「考えるヒント」は、もとは昭和三四年(一九五九)六月から『文藝春秋』に連載した随想の通しタイトルで、同誌の編集部によってつけられました。前半には「常識」「漫画」「良心」など身近な話題から入る文章も多く見られましたが、第一回から最終回までを通して読めば、「学問」も大きなテーマだったことがわかります。すなわち、翌年から『新潮』で連載を始めた「本居宣長」に直結する学問論です。四九年一二月には『考えるヒント2』を刊行し、連載後半部の大半をここに収めました。

 50 常識について          
 昭和三九年(一九六四)一〇月 六二歳 [25]
  「常識」という言葉は誤解されている、これは本来、英語の「コンモン・センス」の訳語だが、「コンモン・センス」は人間誰にも備わっている健全な理性と感情など、精神のある能力の不思議な働きをさした言葉である、その「コンモン・センス」を哲学の中心に初めて導入したのはデカルトで、彼は誰もが持ちながら誰も顧みようとしなかった常識を顧み、常識はどういうふうに働かすのが正しいか、有効か、それだけを問い続けた、このデカルトの生き方と態度は、自分自身の常識のなかに生きていると小林先生は言います。

*51 人間の建設           
 昭和四〇年(一九六五)一〇月 六三歳 [25]
 世界的数学者、岡潔氏との対話録です。当時、岡氏は六四歳、昭和三七年四月、『毎日新聞』に連載した「春宵十話」が文科系の読者からも好評を博し、小林先生も「数学を学ぶ喜びを食べて生きている」人の境地に感銘を受けたと別の新聞で絶讃しました。これを承けて四〇年八月一六日午後一時、京都で初めて会った岡氏と小林先生はたちまち意気投合、個性について、知性について、情緒について、と、深夜の一二時までも縦横無尽に叡智の盃を交しあいました。『新潮』十月号に掲載され、単行本はたちまちベストセラーになりました。

 52 生と死              
 昭和四七年(一九七二)二月 六九歳 [26]
  「徒然草」を残した兼好は批評家の大先輩である、死後六〇〇年にもなる今なお彼を凌駕する批評家は一人も現れていないと小林先生は言い、「徒然草」には若い間は十分に味わえない文章がたくさんあるとも言って、生が終って死がくるのではない、死は生のうちにあって知らぬ間に己れを実現するのだという兼好の示唆に即して自らの生と死を考えます。また最近亡くなった志賀直哉氏と獅子文六氏のひそかに練られていた死を得る工夫にも思いを馳せ、そのいずれもが生涯貫いた個性の上に練られていたと感じ入ります。

 53 信ずることと知ること       
 昭和五〇年(一九七五)三月 七二歳 [26]
 昭和三〇年代の初めから、毎年夏の九州で国民文化研究会の主催による学生青年合宿教室が開かれていました。そこへ昭和三六年八月に初めて招かれて以来、小林先生は五回にわたって出向いて全国から集まった数百名の若者たちに語りかけました。「信ずることと知ること」は、四九年八月、鹿児島県霧島で開かれた第一九回教室での講演が基になっていますが、当時、日本でも騒がれていたユリゲラーの超能力から話を起し、ベルグソンと柳田國男を引いて、私たちは超能力や超自然的と言われる出来事にどう接するべきかを説きます。

 54 本居宣長          
 昭和五二年(一九七七)一〇月 七五歳 [27] [28]
 本居宣長は江戸時代の古典学者です。「源氏物語」と「古事記」にそれまでまったくなかった読み方を示し、これら二つの古典には日本古来の死生観など、私たちが生きていくうえで最も大事なことは何かが含みの多い言葉で記されているとしてその面での読みを精しく示しました。小林先生は、そういう宣長の学問の態度がまた、人生いかに生きるべきかを考えるうえでの手本そのものだと言い、雑誌連載一一年六カ月、全面推敲さらに一年、今なら一〇〇〇〇円に相当する定価の本が半年余りで一〇万部というベストセラーになりました。

 55 ルオーの事            
 昭和五四年(一九七九)五月 七七歳 [28]
 ルオーは、一九世紀の後半に生まれ、二〇世紀の半ばまで活躍したフランスの画家です。小林先生は早くからルオーを好み、ルオーが次々描いたピエロやキリストに見入ってルオーについて書きたい気持ちも強くもっていましたが、「本居宣長」の連載が終盤にかかった頃からは部屋にルオーの版画「ミセレーレ」だけをかけ、思うところを思うようになしとげた大画家の強い静かな喜びと出会っていました。最晩年に描かれたピエロの口許には笑みが浮かび、ルオーが描いたピエロはみな、ルオーの自画像だったかとも思わせられます。
 
           ***
                                
 以上の「小林秀雄山脈五十五峰」は、「私塾レコダ l’ecoda」の「小林秀雄と人生を読む夕べ」の道しるべとして用意したものですが、小林先生は「読書について」で、これはと思う著者に出会ったらその著者の全集を読みなさいと言っています。ということは、小林先生自身も自分の全集を読んでほしいと希っていたということであり、したがってここにごらんいただいた「五十五峰」は、皆さんが「小林秀雄山脈」の完全縦走へと、すなわち全集読破へと進まれる際の道しるべともしていただければとの思いで選びました。
 人口に膾炙した主要作はほぼ入っています。むろん、早い機会にぜひ読んでいただきたい作品はまだ他にもありますし、アンドレ・ジイドやヴァレリーなど、小林先生にとって大事な文学者に言及された文章であっても、その内容はかなり高度と見て割愛したものもあります。また、令和四年三月までに読んだ作品のうち、「蓄音機」「梅原龍三郎」「地主さんの絵」もやむなく割愛しています。これは、小林先生に人生の生き方を現実に即して学ぶうえからは、「読書について」「人生の謎」「読書週間」をぜひともお奨めしたいと思っての措置です、ご諒察下さるようお願いします。
 
 なお、本講座の講座名「小林秀雄と人生を読む夕べ」の「人生を読む」は、小林先生の「本居宣長」第四十一章に見える次の一節に拠っています。
――「ふる物語をみて、今にむかしをなぞらへ、むかしを今になぞらへて、よみならへば、世の有さま、人の心ばへをしりて、物の哀をしる」(「紫文要領」巻上)、この、彼(宣長/池田注記)の歌学の上での基本認識は、彼の道の学問で、人生を物語と観じて、よみならう(下線、池田)という一種の眼力を練磨しない者に、人の道を説くことは出来ない、という確信に育つ。「世の有さま、人の心ばへをしりて、物の哀をしる」という人生の知り方、人生の「こゝろ」を知るという知り方が、彼の学問の基本的方法なら、学問は、彼自身に密着せざるを得ないだろう。宣長にとって、学問的方法によって、人生を知るとは、人生に捕えられていなければ、生きては行けない彼自身の、現実の姿を捕える、という事に他ならないからだ。…… 

 オリエンテーションは以上です、次回から本題に入ります。次回、「小林秀雄山脈五十五峰縦走」は「第一峰 一ツの脳髄」を読み、「小林秀雄 生き方の徴」は「歳月をかけるということ」を考えます。
(了)