田中 純子 <感想> 「詩について、詩人について」

●田中 純子
 令和六年(二〇二四)二月十五日
 <小林秀雄と人生を読む夕べ>
 第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走
 第五峰「ランボオ詩集」
  (「小林秀雄全作品」第2集所収)
 第二部 小林秀雄 生き方の徴(しるし)
  「詩について、詩人について」

 この日の「詩について、詩人について」の講義の中で、池田塾頭が話題にされたことの一つをとりわけ興味深く聴きました。
 大学入試で、小林秀雄さんの作品が使われた長文読解問題について、小林さんご自身がどのように嘆き、憤られていたか……。小林さんは、池田塾頭に、「世間は僕の書いたものを散文だと思っているだろうが、僕は散文を書いているのではない、詩を書いているのだ」と言われ、詩というものは読者一人ひとりの率直な感想を得て初めて完成するのだ、だから読者一人ひとりの感想はどれも皆、正解なのだ、とおっしゃったということに驚き、感動しました。
 小林さんの言われる「詩」は、19世紀フランスの詩人ボードレールによって始められた象徴詩で、象徴詩とは詩人が作り上げた言葉の彫刻を読者が読者の感性で受け止め、読者それぞれに詩人が訴えようとした思想や情緒を感受する、そういう詩を言うのだそうですが、小林さんは、読者から感想文のような手紙が送られてくるとどの読者にも返事を書かれ、その返事はどの読者に対しても「お手紙ありがとう、君のように読んでくれればいいのです、御健闘を祈る」と、それだけだったそうです。これを見ていた妹の高見澤潤子さんに、「いつもいつもそんな判で押したような返事ではなく、一人ひとり、もっとまじめに書いてあげなさいよ」とたしなめられると小林さんは「僕は本気だ、本気で書いている」と言われ、読者への返事に書かれていたことが、とりもなおさず「詩は読者一人ひとりの率直な感想を得て初めて完成する」ということであったというのです。
 読者の一人ひとりが、小林秀雄さんの文章に真正面から向き合い、耳を傾け、自分を見つめ、その思いを言葉にする。そういう作業が、「身交ふ」ということであり、小林秀雄さんとともに「生きる」ということなのでしょう。
 ここまで述べてきたことと関わる(或いは同じ意味合いの)、私に印象深い言葉たちを挙げてみます。
 ○象徴詩は、詩人と読者が人性の基本的構造の割符を持たされた者同志という関係であり、両者の割符が合わさったところに詩の完成がある。
 ○ボオドレエルの象徴詩はボオドレエルの思想・感性の言葉による未完成な彫刻であって、読者の思想・感性との出会いを得て、詩として完成する。
 ○言葉によって「姿」を与えられた「感動」。その感動の「姿」を読者が受け止めて、漸く詩は完成する。
 ☆小林秀雄さんの生涯のテーマである「人間はどういうふうに作られているか」「人性の基本的構造とは」を考えるうえで、読者との対話(お互いに自分の生き方をぶつけあう)こそが重要なのだ。

 さて、ここから話は変わりますが、入試の長文読解問題の有り様についての小林秀雄さんの言葉に触発されて考えたこと、日本の教育現場のリアルな問題と展望について少し書かせていただきたいと思います。
 正直なところ、じっくりと(要約ではなく)作品そのものと向き合い、自らの考えを練り、作者と対話する……というような授業実践は現場では至難の業です。個人的には、教員間の合意の下、中学三年で長時間をかけて、山本周五郎の「柳橋物語」全文を読んだのが、希有な体験です。他に全文を読んだのは中学、高校の教科書に取り上げられている短編ばかりです。「小僧の神様」「羅生門」「舞姫」、あるいは井上ひさしさんや、あまんきみこさんの作品を思い出します。
 ところで、多くの中学、高校、とりわけ私学の国語の教師たちは、入試問題・実力テスト・定期試験等、一年中、何かの試験問題を作っていると言っても過言ではありません。生徒が少人数ならいざ知らず、大所帯になると、授業も試験問題も何人かで合意する必要があり……限られた時間の中で、記述問題等はごく一部しか出題できず、妥協せざるを得ないというのが実情だと思われます。
 特に高校三年生の授業は、いわゆる受験校ならずとも、程度の差こそあれ、予備校における受験指導と同様に、高得点を得るためのテクニックが求められるようになり、「長文読解」では「本文より先に選択肢を読んで、まず出題者の意図を汲み取るように」などという極端な「指導」が行われていたりもします。先に書いた、じっくりと作品と向き合い、自らの考えを練り、作者と対話する……というような授業実践とはおよそかけ離れた現実です。
 とは言え、今までにも、今も、理想的な教育を追求し、実践されている個人も、学校法人も存在し、昨今では「自分で考え、それを表現すること」を求める入試、個性を重視する入試(AO入試や推薦入試など)も比重を増し、ユニークな(例えば図書館入試など)も工夫され、多くの選抜方法が試みられているとのこと。選抜方法が多様になれば、現場での思い切った試みもしやすくなることでしょう。 

 つねづね私は生徒たちに「書くことは考えること」だと話してきました。「結論のわかっていることは書かない」という小林秀雄さんの言葉を思い起こします。また、池田塾頭の、小林秀雄さんから学んだと言われる「学問」についての言葉、「学問とは、自分の直観やひらめきを信じ、既成の考えに囚われずどこまでも独りで考えること」、そのような世界を想い描き、義務教育の時代から日々の教育がなされればどんなに素敵だろうと夢見つつこの文章を閉じます。

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