小林秀雄「本居宣長」を読む(三十七)

小林秀雄「本居宣長」を読む(三十七)
第十九章
 あがたゐのうしの御さとし言
池田 雅延  
         

 第十九章は、宣長が三十歳を過ぎて「古事記」の註釈を志した頃、賀茂真淵の『冠辞考』を読んで古言に開眼、その真淵に『萬葉集』を読む心得を諭されたことなどを宣長が晩年、「あがたゐのうしの御さとし言」と題して随筆集「玉かつま」に記した回想がまず紹介されます。「あがたゐのうし」とは「県居の大人」で宣長の師、賀茂真淵のことですが、真淵は宣長に言いました、
 ――われももとより、神の御典ミフミをとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、いにしヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず。しかるに、そのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず。古言をえむことは、万葉をよく明らむるにこそあれ。さる故に、吾は、まづもはら万葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ学びなば、其心ざしとぐること有べし。……
「いまし」は上代語の二人称で「あなた」ですが、真淵はそう言ってこう続けたと宣長は言います、
 ――たゞし、世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ(低い/池田註記所を経ずて、まだきに(早々と/同高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだに、うることあたはず。まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり。此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところより、よくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ。……わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ。ゆめしなをこえて、まだきに高き所をなのぞみそと、いとねもころになん、いましめさとし給ひたりし、此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよいよ万葉集に、心をそめて、深く考へ、くりかへし問ヒたゞして、いにしへのこゝろことばをさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものの、神の御ふみトケる趣は、みなあらぬから意のみにして、さらにまことの意はええぬものになむ有ける。(「玉かつま」二の巻)
 右は、晩年の宣長が、「あがたゐのうしの御さとし言」として回想したところである。その通りだったであろう。ただ、こういう事は言える。学問の要は、「古言を得る」という「ひきき所」を固めるにある、これを怠って、「高き所」を求めんとしても徒事である、そう真淵から言われただけで、宣長が感服したわけはない。その事なら、宣長は早くから契沖に教えられていたのだし、真淵にしても、この考えを、自家の発明と思っていたわけではない。この晩成の大学者が、壮年期、郷里を去って身を投じた江戸の学問界は、徂徠そらい学の盛時に当っていた。「心法理窟の沙汰」の高き所に心を奪われてはならぬ、「今日の学問はひきくひらたくただ文章を会得する事に止り候」(「徂徠先生答問書」下)と思え。これが、古文辞こぶんじ学の学則であった。だが、学則の真意は、これを実行した人にしか現れはしないし、「ひきき所をかためる」為に、全人格を働かせてみて、其処そこに現れて来る意味が、どんなに豊かなものかを悟るには、大才を要するであろう。真淵が「万葉」について行ったのはそれである。ここに彼の経験談を引いて置く。読者は、仁斎じんさいの使った「体翫」という言葉を、そっくりそのまま真淵の「万葉」体翫と使ってよい事を、納得されるであろう。……
 真淵は、『萬葉集』を読む心得をこう言いました。
 ――万葉を読まんには、今の点本てんぽん(訓点を施した本/池田註記を以て、意をば求めずして、五タビよむべし。其時、大既訓例も語例も、前後に相照されて、おのづから覚ゆべし。さて後に、意を大かたに吟味する事一タビして、其後、活本に今本を以て、字の異を傍書し置て、無点にて読べし。初はいと心得がたく、又はおもひのほかに、先訓を思ひ出られて、よまるゝ事有べし。極めてよまれぬ所々をば、又点本を見るべし。実によくよみけりとおもはるゝも、其時に多かるべし。かくする事数篇に及で後、古事記以下和名抄までの古書を、何となく見るべし。其古事記、日本紀或は式の祝詞のりとノ部、代々の宣命せんみやうの文などを見て、又万葉の無点本を取て見ば、ひとり大半明らかなるべし。それにつきては、今の訓点かく有まじきか、又はいとよく訓ぜし、又は決て誤れりといふ事を知、かつ文字の誤、衍字エンジ、脱字ならんといふ事をも、疑出来べし。疑ありとも、意におもひ得んとすれば、また僻事ひがごと出来るなり。千万の疑を心に記し置時は、書は勿論もちろん、今時の諸国の方言俗語までも、見るたび聞ごとに得る事あり。さて後ぞ、案をめぐらすに、おもひの外の所に 、定説を得るものなり。しかる時は、点本はかつて見んもうるさくなるべし、其心を得る人も、傍訓にめうつりして、心づくべき所も、よみ過さるゝ故に、後には訓あるは害なり」(「万葉解通釈併釈例」) 
 ――形は教えだが、内容は告白である。宣長は、「源氏」体翫の、自身の経験から、真淵の教えの内容が直知出来なかったはずはない。それが、「此御さとし言の、いとたふとくおぼえける」と言う言葉の意味なのである。……
 ――もっとも宣長の宝暦十三年の「日記」にも、「五月廿にじふ五日、岡部衛士当所新上屋一宿、始テ対面ス」とあるだけで、二人の間で、実際どんな話が交わされたか知るよしはない。右にあげた真淵の「万葉解」は、彼の畢生ひっせいの大作「万葉考」の先駆、その総説とも言うべきものだが、上野寛永寺の宮の命によって、倉卒そうそつのうちに書かれたものであり(寛延二年)、無論、宣長の眼に触れていたわけはない。が、両人会見の頃は、真淵は「万葉考」の第一篇の仕上げに専念していたし、「万葉」を談じて、右のような話をしなかったとは言えない。ともあれ、その辺りに当然存する事の機微は、宣長自身の語るところから聞き分ける他はない。幸いにして、彼の遺した回想文は、充分私達の味読に堪えるものである。少々長くなるが、いかにも宣長らしい、言わば何気ない姿をした名文であるから、読んで欲しいと思う。
 ――「京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ。さるまゝに、今の世の歌よみの思へるむねは、大かた心にかなはず、其歌のさまも、おかしからずおぼえけれど、そのかみ、同じ心なる友はなかりければ、たゞよの人なみに、こゝかしこの会などにも、出まじらひつゝ、よみありきけり。さて人のよむふりは、おのが心には、かなはざりけれども、おのがたててよむふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有ける。そはさるべきことわりあり。別にいひてん。……
 宣長の回想は続きます、
 ――さて後、国にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辞考くわんじかうといふ物を見せたるにぞ、県居ノ大人の御名をも、始めてしりける。かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりこととほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、なほあるやうあるべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやとおぼゆるふしぶしも、いできければ、又立かへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに、信ずる心の出来つゝ、つひに、いにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ。かくて後に、思ひくらぶれば、かの契沖が万葉のトキゴトは、なほいまだしきことのみぞ多かりける。おのが歌まなびの有リしやう、大かたかくのごとくなりき。さて又道の学びは、まづはじめより、神書しんしょといふすぢの物、ふるき近き、これやかれやとよみつるを、はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたてて、わざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも学ばむと、こゝろざしはすゝみぬるを、かの契沖が歌ぶみの説になずらへて、皇国みくにのいにしへの意をおもふに、世に神道者といふもののトクおもむきは、みないたくたがへりと、はやくさとりぬれば、師と頼むべき人もなかりしほどに、われいかでいにしヘのまことのむねを、かむがへ出む、と思ふこゝろざし、深かりしにあはせて、かの冠辞考を得て、かへすがへす、よみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへて、せちなりしに、一年ひととせ此うし、田安の殿の仰セ事をうけ給はり給ひて、此いせの国より、大和山城など、こゝかしこと尋ねめぐられし事の有しをり、此松坂の里にも、二日三日とゞまり給へりしを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみじくくちをしかりしを、かへるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかゞひまちて、いといとうれしく、いそぎ、やどりにまうでて、はじめて、見えたてまつりたりき。さてつひに、名簿みやうぶを奉りて、教ヘをうけ給はることにはなりたりきかし」(「玉かつま」二の巻)……
 これを受けて小林先生は言います、
 ――宝暦十三年という年は、宣長の仕事の上で一転機をかくした年だとは、誰も言うところである。宣長は、「源氏」による「歌まなび」の仕事が完了すると、直ちに「古事記伝」を起草し、「道のまなび」の仕事に没入する。「源氏」をはじめとして、文学の古典に関する、終生続けられた彼の講義は、京都留学を終え、松坂に還って、早々始められているのだが、「日記」によれば、「神代紀開講」とあるのは、真淵のもとへの入門とほとんど同時である。まるで真淵が、宣長の志を一変させたようにも見える。だが、慎重に準備して、機の熟するのを待っていなかった者に、好機が到来する筈はなかったであろう。
 彼の回想文のなだらかに流れるような文体は、彼の学問が「歌まなび」から「道のまなび」に極めて自然に成長した姿であり、歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる、彼の学問の内的必然の律動を伝えるであろう。「歌まなび」と「道のまなび」との二つの観念の間に、宣長にとって飛躍や矛盾は考えられていなかった。「物のあはれ」を論ずる筋の通った実証家と、「かむながらの道」を説く混乱した独断家が、宣長のうちに対立していたわけではない。だが、私達の持っている学問に関する、特にその実証性、合理性、進歩性に関する通念は、まことに頑固なものであり、宣長の仕事のうちに、どうしても折合のつかぬ美点と弱点との混在を見附け、様々な条件から未熟たらざるを得なかった学問の組織として、これを性急に理解したがる。それと言うのも、元はと言えば、観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して、極端に分化し、専門化している今日の学問の形式に慣れた私達には、学者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、それを想い描く事が、大変困難になったところから来ている。……                               
 
 さて、宣長が回想文で、われ知らず追っているものは、言わば書物という対象のうちに、己れを捨ててのめり込む精神の弾力性であり、その動きの中で、真淵の「冠辞考」が、あたかも思いもかけず生じた事件の如く、語られている。そして、それが「歌まなび」から、「道のまなび」に転ずる切っかけを作ったと言うのだが、事件の性質については、はっきりした説明を欠いている。一体何が起ったのか。
つづく)