小林秀雄「本居宣長」を読む(四十)
第二十章 下 「真淵当人にも定かならぬ苦しみ」
池田 雅延
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第二十章の前半で、宣長の言わば「万葉学事始め」の重大な一幕、師賀茂真淵との間の問答を『宣長全集』に収められている「万葉集問目」で再現した小林先生は、真淵畢生の『万葉集大考』が真淵の死によって成就しないままとなった後を受けて言います、
――真淵は、「万葉集」から、万葉精神と呼んでいいものの特色を、鮮かに摑み出して見せた。彼の「万葉」研究は、今日の私達の所謂文学批評の意味合で、最初の「万葉」批評であり、この歌集の本質を突いている点で、後世の批評も多くの事は附加出来ぬとさえ言える。……
まずはここで小林先生が言っている「文学批評の意味合」ですが、先生は六十一歳の年の昭和三九年(一九六四)一月、『読売新聞』に書いた「批評」でこう言っていました。
――私は、自分の批評的気質なり、また、そこからきわめて自然に生れてきた批評的方法なりの性質を明言する術を持たないが、実際の仕事をする上で、上手に書こうとする努力は払って来たわけで、努力を重ねるにつれて、私は、自分の批評精神なり批評方法なりを、意識的にも無意識的にも育成し、明瞭化して来たはずである。そこで、自分の仕事の具体例を顧ると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。……
批評とは、人をほめる特殊の技術だ……。昭和三九年一月と言えば先生が批評家として文壇に出た昭和四年からでは三十数年、それだけの年数の批評活動を省みてこう気づいた小林先生が「本居宣長」を『新潮』に書き始めたのはその翌年で、六十三歳の年の昭和四十年六月号でしたが、先生は真淵の万葉学にも「人をほめる特殊の技術」を読み取っていました。
――「万葉集の歌は、およそますらをの手ぶり也」(「にひまなび」)という真淵の説は、宣長の「物のあはれ」の説とともに、よく知られてはいるが、これも、宣長の場合と同じく、この片言は真淵の「万葉」味読の全経験を、辛くも包んでいるのであり、それを思わなければ、ただ名高いばかりの説になるだろう。「万葉」の歌にもいろいろあるのだから、無論「ますらをの手ぶり」にもいろいろある。宣長宛の書簡のうちから引けば、「風調も、人によりてくさぐさ也。古雅有、勇壮悲壮有、豪屈有、寛大有、隠幽有、高而和有、艶而美有、これら、人の生得の為まゝなれば、何れをも得たる方に向ふべし」(明和三年九月十六日)という事になる。真淵に言わせれば、「万葉」の底辺で、人により時期により、とりどりの風調に分れているものの目指している頂上が、人麿という抜群の歌人の調べとなる。「柿本朝臣人麻呂は、古へならず、後ならず、一人のすがたにして、荒魂和魂いたらぬくまなんなき。そのなが歌、いきほひは、雲風にのりて、み空行竜の如く、言は、大うみの原に、八百潮のわくが如し。短うたのしらべは、葛城のそつ彦真弓を、ひき鳴さんなせり。ふかき悲しみをいふときは、ちはやぶるものをも、歎しむべし」(「万葉集大考」)――「ますらをの手ぶり」という真淵の言葉は、無論、知的に識別出来る観念ではないのだから、「万葉集大考」が批評というより、寧ろ歌の形をとったのも尤もな事なのである。……
「そつ彦真弓」は「襲津彦真弓」で、強い弓のこと、「襲津彦」は武内宿祢の子で弓矢にすぐれた葛城襲津彦のこと、また「ちはやぶるもの」の「ちはやぶる」は「神」「宇治」などにかかる枕詞と『日本国語大辞典』にありますが、小林先生は続いて言います、
――真淵の「万葉」批評が、「万葉」讃歌の形をとったのは、彼の感情が大変烈しいものだったが為だろう。取るに足らぬ私達の気分にも、快不快は伴うところを見れば、感情とはすべて価値感情であると言えるであろうが、「万葉」に関する、真淵の感情経験が、はっきりと「万葉」崇拝という方向を取ったのは、学問の目的は、人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるという、今まで段々述べて来た、わが国の近世学問の「血脈」による。が、その研究動機について、真淵自身の語っているところを聞いた方がよい。……
真淵自身は、そこをこう言っています、
――「掛まくも恐こかれど、すめらみことを崇みまつるによりては、世中の平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへの御代ぞ崇まる。いにしへを崇むによりては、古へのふみを見る。古へのふみを見る時は、古への心言を解かんことを思ふ。古への心言を思ふには、先いにしへの歌をとなふ。古への歌をとなへ解んには、万葉をよむ」(「万葉考」巻六序)。……
これを受けて、小林先生は言います、
――彼が、「大を好み」「高きに登らん」としたわけではなく、凡そ学問という言葉に宿っている志が、彼を捕えて離さなかったのである。「高きところを得る」という彼の予感は、「万葉」の訓詁という「低きところ」に、それも、冠辞だけを採り集めて、考えを尽すという一番低いところに、成熟した。その成果を取り上げ、「万葉」の歌の様式を、「ますらをの手ぶり」と呼んだ時、その声は、既に磁針が北を指すが如く、「高く直き心」を指していたであろう。……
先生は続けます、
――「万葉」を「解かん」とする事は、これを「となへん」とする事と、彼には、初めから区別はなかった、と言って了えばそれまでだが、事は決して簡単ではなかった。四十年の労苦の末、「万葉」という「いとしも大なる木」の「秀枝下枝の数々」を尽して、彼は自信をもって言う、「いでや、千いほ代にもかはらぬ(いやもう、どんなに長年月が経とうと変ることのない/池田註記)、天地にはらまれ生る人、いにしへの事とても、心こと葉の外やはある。しか古へを、おのが心言にならはし得たらんとき、身こそ後の世にあれ、心ことばは、上つ代にかへらざらめや。世の中に生としいけるもの、こゝろも声も、す倍て古しへ今ちふことの無を、人こそならはしにつけ、さかしらによりて、異ざまになれる物なれば、立かへらんこと、何かかたからむ」(「万葉集大考」)――ところが、宣長には、こう言い送っているのである。……
――「さて、凡文字ヲ用うる時代より後に、書る文は堅し。其以前とおぼしきほめ言など、飛鳥藤原の朝の人の不レ及レ言ども、古事記にも、紀にも、祝詞にも有を見給へ。此事をよく見得てより、いよいよ上古之人の風雅にて、弘大なる意を知也。宮殿を高く、又地をかため殿を高く、又地をかためぬる事を、高天原に垂木高敷、下つ岩根に宮柱ふとしりてふ言、又祈年祭に、田夫の田作る事を、手なひぢに、水沫かき垂り、向ももに、ひぢりこかきよせて、とりつくれる、おくつみとしを(年は稲の事也)てふ言の類、いと多し。是を考へ給へ。人まろなどの及ぶべき言ならぬを知るる也。神代紀も、よく古言古文を心得て、今の訓のなかばを、用ゐ合せて、よむ時は、甚妙誉の文也。今は文字にのみ依故に、其文わろし。故に古事記の文ぞ大切也。是をよく得て後、事々は考給へ。己先にもいへる如く、かの工夫がましき事を、にくむ故に、只文事に入ぬ。遂に其実をいはんとすれば、老衰存命旦暮に及べれば、すべ無し。ここにも藤原宇万伎(加藤大助といふ大番与力也)わが流を伝へて、ことに古事記神代の事を好めり。いまだ其説は、口をひらかねど、終にはいひ出べき人也。向来御申合候而、野子命後は、此御事を、はたし給へかしと願事也。ここにも可レ然門人多かりしを、或は死、或は病発、或は官務にて廃多くして、即今多からず候。向来は、かの大助など御文通もあれかし。そのよし今日も談置候也。己三十歳より今七十一歳まで、学事不レ廃候へども、万事はかゆかぬ(はかどらない/池田註記)ものなるを歎候事のみ也」(明和四年十一月十八日、宣長宛)……
これを受けて、小林先生は言います、
――真淵は、ただ老衰と「万葉考」との重荷を託つのではない。彼の苦しみは、もっと深いところにあった事を、この書簡を読むものは、思わざるを得まい。更に言えば、その苦しみは、当人にも定かならぬものではなかったかと、感ぜざるを得まい。「かの工夫がましき事を、にくむ故に、只文事に入ぬ」という、その文事とは、勿論「万葉」であろう。「遂に其実をいはんとすれば、老衰存命旦暮に及べれば、すべ無し」とは何か。もし「ますらをの手ぶり」と言ったのでは「其実」を言った事にならないのなら、彼の言う「実」とは一体何なのか。そう問われているのは、むしろ真淵自身ではなかったか。問いは、彼が捕えたと信じた「実」から生れて、彼に向ったのではあるまいか。「道」とは何かとは、彼にとって、そのような気味合の問題として現れていたように見える。人麿の「古へならず、後ならず、一人のすがた」として、現に心に映じている明確な像が揺ぐのである。……
真淵は、「万葉集」の歌風を、一言のもとに「ますらをの手ぶり」と言いました。あたかも『論語』の為政篇に「詩三百、一言以蔽レ之、思無レ邪」と言われているようにです。しかし真淵は、そこに安住することができませんでした、「ますらをの手ぶり」と言っただけでは、「実」、すなわち「万葉集」の「本質」が言えたことにはならない……。真淵は「万葉集」の愛読者であったと同時に古学者だったのです、先には次のように言われていました。
――「万葉」に関する、真淵の感情経験が、はっきりと「万葉」崇拝という方向を取ったのは、学問の目的は、人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるという、今まで段々述べて来た、わが国の近世学問の「血脈」による。が、その研究動機について、真淵自身の語っているところを聞いた方がよい。……
真淵自身は、「万葉集」の研究動機をこう言っています。
――「掛まくも恐こかれど、すめらみことを崇みまつるによりては、世中の平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへの御代ぞ崇まる。いにしへを崇むによりては、古へのふみを見る。古へのふみを見る時は、古への心言を解かんことを思ふ。古への心言を思ふには、先いにしへの歌をとなふ。古への歌をとなへ解んには、万葉をよむ」(「万葉考」巻六序)。……
私、賀茂真淵は、天皇の臣下として天皇を貴ぶにあたってはこの世の平穏無事を祈ります。そして平穏無事な人の世としては古代が敬われ、その古代に倣おうとすれば古代の文書、書物など、文字で書き記されたものを読んで古代の人たちの心と言葉を理解しようと思います、古代の人たちの心と言葉を思い浮かべ情を読み取るためにまず古代の歌を声に出して読み、こうして古代の歌を声に出して読んで理解するには「万葉集」を読みます、……と言うのですが、そこでさて、学問の目的は、人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあると言われる「道」……、この「道」こそが「其実」だったのです、小林先生は言います、
――「道」とは、何処からか聞えて来る、誰のものともわからぬ、あらがう事の出来ぬ、真淵が聞いていた内心の声だったと言えるが、それはソクラテスのダイモンのように、決して命令の形をとらず、いつも禁止の声だったように思われる。真淵の意識を目覚めさした声も、何が「道」ではないかだけしか、彼に、はっきりと語らなかったらしい。「ますらをの手ぶり」とは思えぬものを「手弱女のすがた」と呼び、これを、例えば、「迮細」にして「鄙陋」なる意を現すものとでも言って置けば、きっぱりと捨て去る事は出来たが、取り上げた「ますらをの手ぶり」の方は、これをどう処理したものか、真淵のダイモンは口を噤んでいたようである。……
そこで、
――彼は、これを「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」という風に、様々に呼んではみるのだが、彼の反省的意識は安んずる事は出来なかった。「上古之人の風雅」は、いよいよ「弘大なる意」を蔵するものと見えて来る。「万葉」の風雅をよくよく見れば、藤原の宮の人麿の妙歌も、飛鳥岡本の宮の歌の正雅に及ばぬと見えて来る。源流を尋ねようとすれば、「それはた、空かぞふおほよそはしらべて、いひつたへにし古言も、風の音のごととほく、とりをさめましけむこゝろも、日なぐもりおぼつかなくなんある」(「万葉集大考」)という想いに苦しむ。あれを思い、これを思って言葉を求めたが、得られなかった。……
――真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか。「人代を尽て、神代をうかゞはんとするに――老い極まり――遺恨也」という真淵の嘆きを、宣長はどう読んだか。真淵の前に立ちはだかっているものは、実は死ではなく、「古事記」という壁である事が、宣長の眼にははっきり映じていなかったか。宣長は既に「古事記」の中に踏み込んでいた。彼の考えが何処まで熟していたかは、知る由もないが、入門の年に起稿された「古事記伝」は、この頃はもう第四巻までの浄書を終えていた事は確かである。「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。そしてその事が、彼の真淵への尊敬と愛情との一番深い部分を成していたと想像してみてもよい。それは、真淵の訃を聞いた彼が、「日記」に記した「不堪哀惜」というたった一と言の中身を想像してみることにもなろう。この大事な問題については、いずれ改めて書かねばならぬ事になろう。……
――二人は、「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。「万葉」経験と「源氏」経験とは、まさしく経験であって、二人の間で交換出来るような研究ではなかったし、当人達にとっても、二度繰返しの利くようなものではなかった。真淵は、「万葉」経験によって、徹底的に摑み直した自己を解き放ち、何一つ隠すところがなかったが、彼のこの烈しい気性に対抗して宣長が己れを語ったなら、師弟の関係は、恐らく崩れ去ったであろう。弟子は妥協はしなかったが、議論を戦わす無用をよく知っていた。彼は質問を、師の言う「低き所」に、考証訓詁の野に、はっきりと限り、そこから出来るだけのものを学び取れば足りるとした。意識的に慎重な態度をとったというより、内に秘めた自信から、おのずとそうなったと思われるが、それでも、真淵の激情を抑えるのには難かしかったのである。……
(つづく)