小林秀雄山脈の裾野散策 

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 小林秀雄山脈の裾野散策(十九)
       
 新しい批評の形式(1)
大島 一彦  
 敗戦の翌年、昭和二十一年二月に発表された「近代文学」同人との座談会「コメディ・リテレール——小林秀雄を囲んで」は、小林の戦後第一声が聞けるとあつて当時大いに注目された。この座談会は、後半で同人の一人から小林の戦時中の発言に関して問はれ、それに対して小林が、自分は無智だから反省なぞしない、利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか、と応じたことで有名になり、今日でも小林と戦争の関係を論ずる人達によつてこの箇所がよく採上げられるが、座談会の全体を見渡してみると、特に前半に幾つもの興味深い発言が見られ、それらは、小林が批評家としての自分の仕事をこれからどう云ふ方向に持つて行くかの宣言とも受取れるので、本稿はそちらに眼を向けてみたい。
 小林は昭和四年に「様々なる意匠」で文壇に登場したあと、文藝時評家として健筆を振るひ、見事に成功を収めるが、やがて文藝時評を続けることの空しさを口にするやうになる。例へば昭和八年の「批評について」ではこんな感慨を洩してゐる――「他人の作品に、出来るだけ純粋な文学の像を見ようとして、賞讃したり軽蔑したりしつゞけて来た事が、何か空しい事であつた様な気がしてならぬ。文学でもなんでもないものを強ひられて、文学でもなんでもないものの為に辛労して来た様な気がしてならぬ。」あるいは昭和十年の「文藝時評に就いて」には、「文藝時評といふものが近頃書きにくくつてたまらぬ。一と口でひらつたく言へば飽きたのである。……僕は文藝時評家として文壇に出た。編輯者に叱られながら、出来るだけ勝手気まゝな形式で時評を書き、わづかに言ひ度い事を言ひ得て来たが、近頃その言ひ度い事といふものが時評の形で次第に言ひ難くなつた事を感ずる。月々の文壇的事件をとり上げてとやかく言ふ事に疲労を感じて来る」と云ふやうな言葉が見られる。
小林は昭和八年から断続的にドストエフスキーの作品に関する論を発表し始め、昭和十年の一月からは「ドストエフスキイの生活」の連載を始めてゐるから、文藝時評に覚える空しさや疲労感からの脱出口をその方に求めてゐたと云つてよいであらう。それでも時評風の文章をまつたく止めたわけではなく、それからほぼ完全に手を引くのは日米開戦の翌年、昭和十七年である。この年から「当麻」以下の、のちに「無常といふ事」に纏められる一連のエッセイを書き始めるが、これが翌十八年に「実朝」を以つて終ると、十九年と二十年には殆ど何も発表せず、二十一年の座談会に至るのである。
その冒頭近くで平野謙が大略次のやうに云つて小林の発言を引出してゐる。――小林さんは日支事変の前後には文藝時評家としてたいへん精力的に活動して、云はば文壇喜劇(コメディ・リテレール)を積極的に剔抉てきけつしてをられたのに、段段さう云ふことをなさらなくなり、不言実行と云ふやうな煮つまつた純粋なものに変つて来た。「そういう変り方について、やはり、若い者には若い者なりの不満もありますが、その変化の機微について、ひとつ……。」
この「若い者なりの不満」と云ふのは、要するに文藝時評家としての活動を止めないで頂きたいと云ふことなのだが、因みにここで私が思ひ出すのは、坂口安吾の「教祖の文学」(昭和二十一年)と福田恒存の「小林秀雄」(同二十四年)である。この二つの論文はこの文脈において、つまり小林の変化に対する不満を念頭に置いて、読むとたいへん分り易い。但し、以下に見る小林の言葉は、これらの論に対してもあらかじめ答へてゐるものとして読むことが出来る。
 小林は文藝時評に空しさや疲労感を覚え始めた昭和十年代頃から骨董やその他の造形美術に熱中し始め、そのこともあつて次第に文学も形であり、美術であると考へるやうになつたと云ふ。「――かく、批評文がただ批評文であることに、だんだん不満を感じて来た。批評文も創作でなければならぬ。批評文もまた一つのたしかな美の形式として現われるようにならねばならぬ。そういう要求をだんだん強く感じて来たのだね。うまい分析とうまい結論、そんなものだけでは退屈になって来たのだ。……第一流の批評家は必ず新しい形式を発明するだろう。まあ、そんな確かな自信が勿論もちろんあったわけではないが、何か新しい批評の形式というものを考えるようになった。そして、ジャーナリズムから身を引いてしまったのだ。」(傍点引用者)
 「僕はもう二度と文藝時評の世界へは帰りません。帰るつもりはちっともない。それより、あの天才の思想の国だとか、美の国というものは、分け入ると、とても微妙で深い。そっちに分け入っておれば、僕の一生の時間は足りないくらいだ。……ジャーナリズムでいろいろ書いていると、文化のために何かしているような気がするものだよ。実はそんなことはまるでないのだが。……農夫が大根を掘って抜く手つきとか大工が何かを作っているその腕だとか、絵かきの持つ絵筆の先だとか、そういう所に文化の本当に微妙な生きたものがあるんですよ。分り切った思想や観念なんかの中にはないよ。論戦なんかのうちにもないよ。」
 ここで、それでは最近書かれた「実朝」のやうな世界を推し進めて行きたいのかと問はれて、小林はかう答へてゐる――「扱う対象は何でもいいのです。ただそれがほんとうに一流の作品でさえあればいい。そうすれば、あらゆるものに発見の喜びがあって、どれを書いても同じです。音楽でも、美術でも、小説でも、それが西洋のものであれ、日本のものであれ、ともかく一流というものの間には深いアナロジーがある。」
 この言葉を読んだ当時の読者は何をどう思つたであらうか。何だか雲を摑むやうな話だなと思つたのではなからうか。しかし、このとき既に「モオツァルト」が書き進められてをり、やがてドストエフスキーの「罪と罰」と「白痴」が再論され、さらに「ゴッホの手紙」、「近代絵画」、「感想(ベルグソン論)」、「本居宣長」と、ジャンルの別も洋の東西も問はず、いづれも一流の対象を扱つて「発見の喜び」に満ちた批評作品が書上げられたことを知つてゐる今日の読者がこの言葉を読返すなら、実に感慨深いものがあるのではなからうか。小林は現に雲を摑み、その雲で確かに「新しい批評の形式」を実現させたからである。
(この項つづく) 
                         

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