小林秀雄「本居宣長」を読む(四十三)

小林秀雄「本居宣長」を読む(四十三)
第二十一章
古学の大家宣長が、敢えて挑んだ「古今集」の俗言サトビゴト
池田 雅延  
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 前々回、小林先生が、先生と同じ文芸批評家の中村光夫さんと私池田を前にして、「批評は引用に尽きるのだよ、批評しようとしている文章のここぞと思える箇所が引用できたら、もう批評家の評言などは一言も要らないのだよ」と力をこめて言われた経緯と場面についてお話ししましたが、前回、同じく本誌の「小林秀雄「『本居宣長』を読む」で第二十一章を読もうと何度めかの熟読を始めていた私の耳に、小林先生のあの声が響きました、「批評は引用に尽きるのだよ、批評しようとしている文章のここぞと思える箇所が引用できたら、もう批評家の評言などは一言も要らないのだよ」……。私池田は批評家ではなく読者のひとりにすぎないのですが、先生のこの声がいままた聞こえるまでは第二十一章のどこに「ここぞと思える箇所」を見出すかと目を皿にして読んでいました、ところが、先生の声が聞こえるや、「全文だ、第二十一章は全文だ!」と私は心中で叫び、いっそう身を入れて第二十一章を読みました。そうでした、やはりそうでした、第二十一章は、第二十章の後篇が、宣長と真淵の師弟劇として書かれているのです。ということは、第二十一章は全文が「ここぞと言える箇所」なのです。そこで本誌にはWeb雑誌の利点を活かして第二十一章を全文、五回に分けて引くこととし、第一回の今回は「小林秀雄全作品」(新潮社刊)第27集の234頁から236頁の中ほどまでを引きますが、私の評言めいた文言は以後もいっさい無用としますのでお含みおき下さい。……と言いました。

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 そして、さて、一月ひとつき経って、「本居宣長」第二十一章順次引用の第二回です。今回は「小林秀雄全作品」(新潮社刊)第27集の236頁中ほどから240頁4行目までを引きます、以下のとおりです。
 ――宣長が、「草菴集そうあんしゅうたまははき」を刊行したのは、明和四年の秋である。言うまでもなく、「草菴集」は、二条家の歌道中興の歌人と言われる頓阿とんあの歌集であり、宣長は、その中から歌を選んで詳しく註した。「玉箒」は彼の最初の註解書だ。
 すると早速、真淵から詰問がとどく。「――草庵集之注出来の事、被レ仰越致承知候。しかし拙門にては、源氏迄を見せ候て、其外は諸記録今昔物語などの類は見せ、後世の歌書は禁じ候へば、可否の論に不レ及候。元来、後世人の歌も学もわろきは、立所の低ければ也。己が先年、或人の乞にて書し物に、ことわざに、野べの高がや、岡べの小草に及ばずといへり。その及ばぬにあらず、立所のひくければ也と書しを、こゝの門人は、よく聞得侍り。すでに彫出されしは、とてもかくても有べし。前に見せられし歌の低きは、立所のひくき事を、今ぞしられつ。頓阿など、歌才有といへど、かこみを出るほどの才なし。かまくら公こそ、古今の秀逸とは聞えたれ、――」(明和六年正月廿七日)
 これでは、弟子は、本を贈るわけにもいかない。勿論、宣長は詰問を予期していたであろうし、初めから本を贈ろうとも考えてはいなかったと見てよい。だいぶ後になるが、「続草菴集玉箒」も刊行されているし、宣長は、この仕事に自信があったのである。「古事記」「万葉集」を目指す学者の仕事ではないというような考えは、彼には少しもなかった。「野べの高がや」たる事が、何故いけないか。彼は「玉箒」の序文で、明言している――「此ふみかけるさま、言葉をかざらず、今の世のいやしげなるをも、あまたまじへつ。こは、ものよみしらぬわらはべまで、聞とりやすかれとて也」。この有名な歌集の註解は、当時までに、いろいろ書かれていたが、宣長に気に入らなかったのは、契沖によって開かれた道、歌にかに接し、これを直かに味わい、その意を得ようとする道を行った者がない、皆「事ありげに、あげつら」う解に偏している、「そのわろきかぎりを、えりいで、わきまへ明らめて、わらはべの、まよはぬたつきとする物ぞ」と言う。真淵は、契沖の道をよく知っていたが、わが目指す読者は「わらはべ」であるとまで、その考えを進めてはみなかった。宣長は、自分の仕事には、本質的に新しい性質がある事を自覚していた。しかし、これを言おうとすれば、誤解は、恐らく必至であろうと考えていた。彼は言う、「そも頓阿などを、もどかんは、人の耳おどろきて、大かたは、うけひくまじきわざなれど、おろかなる今のならひに、まよはで、誠に歌よく見しれらん人は、かならずうなづきてん」。
 真淵に限らず、当時の識者達の眼は、歌道の因習に皆敵対していた。伝授とか堂上地下じげとかいう言葉が、既に死語と化した今日、近世堂上派歌人の偶像となっていた「草菴集」の如きを、今更取上げるとは奇怪な事である。これは宣長の予期していた処であり、彼の見るところは違っていた。旧套きゅうとうを脱し、新機運を望むのはよい。しかし、議論や希望で、歌の現状は救う事は出来まい。
 言うまでもなく、宣長は、頓阿を大歌人と考えていたわけではない。「中興の歌」として、さわがれてはいるが、「新古今ノコロニクラブレバ、同日ノ談ニアラズ、オトレル事ハルカ也」。これは当り前な事だが、「玉箒」を書く宣長には、もっと当り前な考えがあった。歌道の「オトロヘタル中ニテ、スグレタル」頓阿の歌は、おとろえたる現歌壇にとって、一番手近な、有効な詠歌の手本になる筈だ。頓阿の歌は、所謂いわゆる正風しょうふう」であって、異を立てず、平明暢達ちょうたつむねとしたもので、その平明な註釈は、歌の道は、近きにある事、足下にある事を納得して貰う捷径しょうけいであろう。「あしわけ小舟」に見える見解に照してみれば、恐らくそれが宣長の仕事の中心動機を成していた考えである。彼のこのような、現実派或は実際家たる面目は、早くから現れて、彼の仕事を貫いているのであって、その点で、「古事記伝」も殆ど完成した頃に、「古今集遠鏡とおかがみ」が成った事も、注目すべき事である。これは、「古今」の影に隠れていた「新古今」を、明るみに出した「美濃家みののいえづと」より、彼の思想を解する上で、むしろ大事な著作だと私は思っている。
 この「古学」「古道学」の大家に、「古今集」の現代語訳があると言えば、意外に思う人も、あるかも知れないが、実際、「遠鏡」とは現代語訳の意味であり、宣長に言わせれば、「古今集の歌どもを、ことごとく、いまの世の俗言サトビゴトウツせる」ものである。宣長は、「古今」に限らず、昔の家集の在来の註解書に不満を感じていた。なるほど註釈は進歩したが、それは歌の情趣の知的理解の進歩に見合っているに過ぎない。歌の鑑賞者等は、「物のあぢはひを、甘しからしと、人のかたるを聞」き、それで歌が解ったと言っているようなものだ。この、人のあまり気附かぬ弊風へいふうを破る為には、思い切った処置を取らねばならぬ。歌の説明をくわしくする道を捨てて、歌をよく見る道を教えねばならぬ。しかも、どうしたらよく見る事が出来るかなどという説明も、有害無益ならば、直かに「トホめがね」を、読者に与えて、歌を見て貰う事にする。歌をかず、歌をウツすのである。
「遠き代の言の葉の、くれなゐ深き心ばへを、やすくちかく、手染の色に、うつして見するも、もはら、このめがねのたとひに、かなへらむ物をや」、使いなれた京わたりの言葉に、ウツされたのが目に見えれば、「詞のいきほひ、てにをはのはたらきなど、こまかなる趣」が、「物の味を、みづからなめて、しれるがごとく」であろう、というのが宣長の考えである。
「遠めがね」の徹底したやり方は、原本について味わうほかはないが、ここでは、一例をあげて置く。――「巻十九、旋頭歌せどうか、かへし、――春されば 野べにまづさく 見れどあかぬ花 まひなしに たゞなのるべき 花の名なれや――コレハ春ニナレバ 野ヘンニマヅ一番ガケニサク花デ 見テモ見テモ見アカヌ花デゴザルガ 其名ハ 何ンゾツカハサレネバ ドウモ申サレヌ タヾデ申スヤウナ ヤスイ花ヂヤゴザラヌ ヘヽヘヽヘヽヘヽ」。このような仕事に、「うひ学び」の為、「ものよみしらぬわらはべ」の為に、大学者が円熟した学才を傾けたのは、まことに面白い事だ。……

 小林秀雄先生「本居宣長」の第二十一章順次引用、今回はここまでとします。
 
(つづく)