小林秀雄「本居宣長」を読む(四十四)

小林秀雄「本居宣長」を読む(四十四)
第二十一章
宣長の和歌史論
                 歌ハ人情風俗ニツレテ変易スル
池田 雅延  
        1 
 ――右のような次第で、真淵と宣長との歌に関する考え方の相違は、ほぼ明らかになったと思うが、「あしわけ小舟」に即して、もう少し精しく書いてみよう。宣長の、和歌史論は、「あしわけ小舟」で最も精しいのだが、洞見に充ちているとは言え、何分にも雑然と書かれた未定稿であるから、整理を要する。以下、引用に書名を略したものは、皆「あしわけ小舟」からの引用と知られたい。……
 ――先ず歌の歴史性というものが強調され、歌が「人情風俗ニツレテ、変易ヘンエキスル」のは、まことに自然な事であって、「コノ人ノ情ニツルヽト云事ハ、万代不易フエキノ和歌ノ本然也トシルベシ」とまで言い切っている。これに対し、「ミナミナ富貴ヲネガヒ、貧賤ヒンセンヲイト」うというように、人情は古今変る事はない、と考える方が本当ではないか、と問者は言う。宣長は答える、いや、本当とは言えぬ、「コレ、ソノカハラヌ所ヲ云テ、カハル所ヲ云ハザル也」、それだけの話だ。「タトヘテイハバ、人ノ面ノ如シ」、その変らぬ所を言えとならば、「目二ツアリ、耳フタツアリ」とでも言って置けば済む事だが、万人にそれぞれ万人の表情があるところを言えと言われたら、どうするか。「云フニイハレヌ所ニ、カハリメガアリ」という事に気が附くであろう。歌でもまた同じ事であり、「タトヘバ、ムカシ春来ルト云ヒシ事ヲ、今ハ春往クトモイハズ、――ムカシ花咲クト云ヒシ事ハ、今モ花サクト云」う。
 変らざるところは、はっきり言えるが、世の移るとともに移る歌の体については、誰も正確な述言を欠くのである。総じて、時代により、或は国々によって異なる歌の風体は、はっきり定義出来ぬものだが、われわれは、これを感じ取ってはいるのである。「書面言句ヲ、サシヲキテ、和漢ノ書物ヲ、ヨクヨクミレバ、心ニウカビテ、云フニイハレヌ所ノチガヒハ知ルヽ事也」。宣長にとって、歌を精しく味わうという事は、「世ノ風ト人ノ風ト経緯ヲナシテ、ウツリモテユク」、そのおおきな流れのうちにあって、一首々々掛け代えのない性格を現じている、その姿が、いよいよよく見えて来るという事に他ならない。
「和歌者流ト成ツテ」歌の巧拙ばかりを言う狭い了簡りょうけんを捨てて、広く歌の変易を味わう道を徹底的に歩いてみる事が大事なのである。彼は、歴史には「かはる所」と「かはらざる所」との二面性があると言っているのではない。自分にとっては、歌を味わう事と、歴史感覚とでも呼ぶべきものを練磨する事とは、全く同じ事だと、端的に語っているだけである。歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その「えも言はれぬ変りめ」を確かめる、という一と筋を行くことであって、「かはらざる所」を見附け出して、この厄介な多様性を、何とかうまく処分してしまう道など、全くないのである。宣長は議論しているのではない。自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ。
 宣長は「新古今集」を重んじた。「此道ノ至極セル処ニテ、此上ナシ」「歌ノ風体ノ全備シタル処ナレバ、後世ノ歌ノ善悪勝劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也」。ずい分はっきりした断定で、これだけ見ていれば、真淵の万葉主義に対して、宣長の新古今主義とよく言われるのも、一応もっともなように聞えるが、それは当らない。何故かというと、この宣長の断定は、右に述べて来た意味合での「和歌ノ本然」という、真淵には到底見られない歴史感覚の上に立っていたからだ。宣長は「歌ノ本然」と言ってみたり、「自然ノ理」とか「道理」とか言ってみたりしているが、これは、用語を、概念上慎重に選ぶ興味など、彼にはなかったと考えて置けば足りる事だ。
「記紀」にある上代の歌は、「上手ト云事モナク、下手ト云事モナク、エヨマヌモノモナク、ミナ思フ心ヲタネトシテ、自然ニヨメル也」。その内に、次第に「ヨキ歌ヨマムトタクム心」が自然に生じ、「万葉」の頃になると、「ハヤ真ノ情ヲヨムト、タクミヲ本トスル事ト、大方半ニナレル也」、其後「漢文モツパラ行ハレテ」、詠歌とは「歌道ト云テ、一ツノ道」であるという自覚は、容易に得られなかったが、「古今」の勅撰ちょくせんによって、ようやくその機が到来したのも「自然ノ勢」だ。ところで、「オホヨヨロヅノ事、ナニ事モ、世々ヲヘテ全備スル事也、聖人ノヲシヘナドモ、三代ノ聖人ヲヘテ、周ニ至テ全備セルゴトクニ、此道モ世々ヲヘテ、新古今ニ至テ全備シタレバ、此上ヲカレコレ云ハ邪道也」という事になった。
 しかし、「歌道ノ盛ハ、定家ニキハマルトイヘドモ、衰ハハヤ俊成ヨリキザシアリ。タトヘバ、五月ノ中ニハ、イマダ暑気ノ盛ニハイタラザレドモ、ハヤ陰気ノキザス如ク、十二月ノ大寒ヲマタズシテ、十一月ヨリ、ハヤ一陽来復イチヤウライフクスルガ如シ」――宣長が言う「衰の兆し」とは、歌道と家筋とのつながりと云う考えの兆しである。定家は、家の伝えによって名人になった人ではない。「身一ツ」から、「ワガ心ヨリ」歌を生んだ「自然ノ歌仙」であったが、「世ノ人ハ、ソノ道理ニクラ」く、歌道の父子相伝という、歌道自体には何の関係もない偶然事ばかりに、目を附けるようになった。歌の家筋をとうとぶ悪風は、一たん生ずると、止まるところを知らない。「堂上ノ歌ノ家ノ内ニテ、カレコレスル」事が、「道ヲ大切ニスル」事になれば、「返テ道ノヲトロフルシカタ」を、いよいよ進める事になったからだ。そうなれば、「上手ハ貴賤ヲエラバズ、所ヲキラハズ」という「心得ヤスキ道理」も捨てられ、「カツハ、抜群ノ人ハ、ソレヲ心ウク思ヒテ、歌ニ志アルモノモ、外ノ芸ニウツルヤウニナリテ、タヾ、ラチノアカヌ、マナコノクラキモノバカリガ、堂上ノ弟子ニナリテ、ソノ下知ゲヂニシタガフユヘニ、ヲノヅカラ地下ヂゲニ歌人ハイデコヌヤウニ」なった。頓阿などの努力も、さしたる効果もなく、遂に「御伝授」という「此道ノ大厄」が到来して、今日に至った。
 これが、宣長の眼に映じていた歌の伝統の姿であったが、彼にしてみれば、それは、直知という簡明な形のものだったに相違ないが、面倒は、その説明にあった。現在が過去を支え、過去が現在に生きるとは、伝統をしきしている者にとっては、ごく当り前な心の経験であろうが、そのような伝統の基本性質でさえ、説明を求められれば、窮するであろう。伝統に関する知は、伝統と一体を成しているとも言えるからだ。「紫文要領」で、「あはれ」の説明に苦しんだと同様な事が、「あしわけ小舟」の問答体で既に起っているのが面白い。私にとっても面倒な事だが、これに注目しないと、順序なく書き流されたこの草稿のうちに、宣長の歴史観なり言語観なりの発想が、既に明らかな形で宿っている事を見損みそこなう。
 宣長が、「新古今」を「此道ノ至極セル処」と言った意味は、特に求めずして、情と詞とが均衡を得ていた「万葉」の幸運な時が過ぎると、詠歌は次第に意識化し、遂に情詞ともに意識的に求めねばならぬ頂に登りつめた事を言う。登り詰めたなら、下る他はない、そういう和歌史にたった一度現れた姿を言う。この姿は越え難いと言うので、完全だと言うのではない。「歌ノ変易」だけが、「歌ノ本然」であるとする彼の考えのなかに、歌の完成完結というような考えの入込む余地はない。変易のうねりの頂は、又危険な場所でもある。「アマリニ道ノ頂上ヘ、ノボリタルユヘニ、ソノ中ニハ、アラヌサマニ、ヨコシマニナル事多クシテ、大ニ古ヘノ心ヲ失ヒタル事多シ――ワレモワレモト、粉骨ヲツクスホドニ、名人多キ事モ、此時ニシクハナシ、サレバソノ名人トテモ、歌ゴトニ、秀逸ハイデキガタキモノナルニ、スグレテ人ニヌケイデテ、ヨマムヨマムトスルホドニ、コトヤウナル事モ多シ」と言う。
 もし真淵の「万葉」尊重が、「新古今」軽蔑と離す事が出来ないと言えるなら、宣長の「新古今」尊重は、歌の伝統の構造とか組織とか呼んでいいものと離す事が出来ない、と言った方がよいのであり、「ますらをの手ぶり」「手弱女たわやめのすがた」という真淵の有名な用語を、そのまま宣長の上に持込む事は出来ない。歌の自律的な表現性に関し、歌人等の意識が異常に濃密になった一時期があったという歴史事実の体得が、宣長にあっては、歌の伝統の骨格を定めている。和歌の歴史とは、詠歌という一回限りの特殊な事件の連続体であり、その始まりも終りも定かならず、その発展の法則性も、到底明らかには掴む事が出来ない、そういう言わば取附く島もない、生まな歴史像が、「新古今」の姿の直知によって、目標なり意味なりが読み取れる歌の伝統という像に、親しく附合える人間のような面貌めんぼうに、変じているのである。従って、真淵が「万葉」に還れと言う、はっきりした意味合では、宣長に、「新古今」に還れと言える道理はなかった。実際、彼は、そんな口の利き方を少しもしていないし、かえって、詠歌の手本として、「新古今」は危険であると警告している。「新古今ニ似セントシテ、コノ集ヲウラヤム時ハ、玉葉風雅ノ風ニオツル也」、或は「うひ山ぶみ」から引用すれば、「これは、此時代の上手たちの、あやしく得たるところにて、さらに後の人の、おぼろげに、まねび得べきところにはあらず、しひて、これをまねびなば、えもいはぬすゞろごとに、なりぬべし。いまだしきほどの人、ゆめゆめこのさまを、したふべからず」。……
 第二十一章はここまで言って結ばれています。
(つづく)